15-6 それぞれの悲しみ
トントンとノックされダウンしたままの美沙の代わりに返事をすれば失礼しますと数時間前に聞いた声。
顔を出したのは笹川さんでえへへっと笑って中に入ってからドアを閉める。
ちょっと身構えてからそれでも冷静に仕事モードでどうしたんですか?と聞けば彼女はてってってっと歩いてきて私の横に立ってにっこりと笑った。
「サボりに来ました」
と、あまりにも堂々と言うので思わず吹き出せば一緒になって笑っている。
椅子は二つしかなくて立ったままの彼女はそれを気にする事なく姿勢を正したまま立っている。
「そんなに堂々と仰らなくても。まぁ……怒られない範囲でしたら……というか社長は笹川さんには怒らないかもしれませんね」
皮肉や嫌味では無くただ事実として言えばそれに彼女は照れるわけでもなくただ曖昧に笑うだけだ。
それからやや間を置いてとんでも無い事を口にする。
「さっきお話した事覚えてますか?」
そう言われどれだろうと思いながら思案すれば彼女は彼を誘ってもと言った事です、と小さく言われ、もちろん覚えているから頷く。
とんでも無い事はこれでは無く次の言葉だった。
「もし私が彼と別れたら、安田さんはもう一度挑戦しますか?」
はい?と思わず聞き返してしまった。
というかあんなに自信満々だったのにたった数時間でどうしたと言うのだろうと、二人の仲を掻き混ぜた張本人のくせに心配になった。
「どうかされたんですか?その……何か言われたとか?」
張本人なのに首を突っ込んで良いのか迷いながらそう聞けば彼女は小さく首を振った。
それが突っ込むなという合図なのか違うという意味なのか測りかね黙っていればそっと彼女が口を開く。
「何もありません。ただ一緒の部屋で仕事をしているだけです。けれど何と無く本当にこれで良いのか疑問に思ってしまって」
どうしてそんなに申し訳なさそうに言うのだろうかというくらいそうやって言われてこっちの胸が痛む。
というか、私のせいでこうなっているのだ。
「私のせいですね、それは。私も笹川さんにすべてをお話しても良いでしょうか。社長はきっと何も仰って無いんじゃないですか?」
そう尋ねれば彼女はやや間を置いてじっくりと考えてから小さく頷いた。
それを私から話すのは本当は間違っているような気がしたけれど、それでも当事者である彼女が知らないのもおかしな話だと小さく息を吐いてから口を開いた。
「あのご一緒にランチをした日の内に、私はこれを書きました」
と、机の引き出しを開け、ややくたびれた例の辞表を取り出し机に置けば彼女は目を丸くして驚いた表情を浮かべた。
「それからこれと貴方のあれをチップ代わりに賭けに出たんです。慣れない濃い化粧をして香水をたっぷり付けて、イヤリングを付けて……。社長のお宅へ伺って、貴方が帰ってくる前にこれをお見せしました」
そこまで言って彼女は小さく頷いた。
それから遠慮がちに口を開く。
「私が家に着いた時にはもう話は纏まっていたんですか?」
その言葉にあの日の事を思い出しながら首を振る。
それからゆっくりと記憶を辿りながら口を開く。
「いえ、まだです。確か仕事を辞めるつもりだとだけ告げ辞表だけ出したころ合いでした。貴方を……変な言い方ですが追い払ったのは社長のご判断です」
そう言い訳のように告げれば彼女はうふふと小さく笑ってから気にしてませんよとだけ言う。
本当にそうなのか気を使っているのか分からず先を言えずに居ればまだ楽しそうに笑いながら口を開く。
「ふふっ……ごめんなさい。すごくあの人らしいなと思って。私にも安田さんにも気を使ったんでしょうね、それが裏目に出るとも知らずに」
そう嬉しそうに言う様は彼女がまだ社長を好きな事を示していて困ったように同意して笑ってから先を話す事にする。
「それからどうしてかと問われたので、何て言うか貴方の事を誰の事か分からないように、最初の印象と違っていてとてもショックだったと伝えました。ごめんなさい。あの時はそういう風に思っていたので」
そう言えば彼女から笑みが消え、言い終われば手を振っていえいえと静かに言われる。
ダウンしていたはずの美沙はいつの間にか起き上がり頬杖をつき私達の話しを聞いている。
「それから?」
この話をして初めて笹川さんにそう促され美沙の方を見ていた視線を彼女に戻した。
その時、彼女があんまりにも穏やかにただ私の失恋話を聞いているような感覚に陥る。
「えっと……あの日のランチの時の会話を私の良いように社長に伝えてからあれをお見せして……それからそうして欲しいと頼みました」
そう言えばそこで彼女は目をすっと細めて薄く笑って口を開く。
そのいつもと違う雰囲気に背筋がぞくりとした。
蛇に睨まれた蛙のような気分になる。
「何て言ったんですか?」
そう言われてぐっと言葉が詰まった。
そこまで聞かれるとは覚悟をして居なくて視線をきょろきょろと下に向けたまま俯けば彼女はもう一度口を開く。
「礼に何て言った?」
いつもの穏やかな表情も声音もそこには無かった。
ただ一人の女として嫉妬心と独占欲の塊のような笹川涼が居た。
あまりの凄みに美沙が小さく息を飲み慌てて両腕を机に付けて突っ伏し、味方が居なくなったような気がして鼓動がとてつも無く速くなった。
とんでも無い一言を残して涼はこの部屋を去っていった。
その言葉に圧倒され動けずにしばらくそうしていて、息苦しくなって息を吐いてようやく俺は動く事が出来た。
手から滑り落ちてしまったボールペンは大事な書類に点を付けていて、けれどそれを見ても溜息ひとつ出ない。
「話した?」
そう居ない涼に尋ねるように呟いてから眉を寄せる。
安田にいつ話したのだろうかと疑問が浮かぶ。
二人はそんなに仲が良くなかったはずだ。
いつの間にそんなにと考えて、昨日一緒に飲んでいた事を思い出す。
「嘘だろう?」
そう誰に尋ねる訳でもなく呟いてから両肘を着いて頭を抱えた。
どうして俺が必死に隠そうと無理をしてまで守った事を彼女が簡単にぺらぺらと話してしまっているんだろうか。
そう思えば信じがたいという思いと彼女を恨む気持ちが生まれる。
まるで俺だけがピエロのように翻弄されているようだ。
それを安田と涼は笑って見ているのでは無いだろうか。
「俺がやったのって無意味じゃない」
そう呟いて溜息を吐く。
だからあの時彼女は俺のお陰だと言いありがとうを告げて来たんだ。
私を守ってくれてありがとう、ではなく、安田を操りやすいようにしてくれてありがとうだったのだろう。
安田の性格からすればあの後後悔しているだろう。
涼は俺と安田の事を知らずとも、偶然に一緒の席に座った彼女に過去を告げたんだ。
そうすれば安田が余計なことを言わなくなると踏んでいたんだろう。
平然とひどい過去を話す涼を見て安田の同情を誘って、彼女がこれ以上何も出来ないようにと画策したんだ。
けれどその結果は想像以上の物だった、だからこそ、疑惑を抱いたんだ。
そう考えれば迎えに行った時に涼があんな風に積極的に甘えてきたのに説明がつく。
甘えたまま俺の様子を窺っていたんだろう。
俺が本当に安田を抱いたのかどうか確認するために。
それから電話がかかってきて、俺を見張る必要が無くなって、それであんな風にさっぱりと彼女は距離を置く事を告げたに違いない。
「……別れたいの、か」
そう小さく呟いてから息を吐く。
ずいぶんと回りくどい事をしてくれるもんだと思う。
それとも俺の財布で生活するほうが楽だからこのまま曖昧な関係を続けて養って貰おうという魂胆かもしれない。
どちらにしたって俺は責められないし、非難する事だって出来ない。
結局、女に上手く利用されているだけに、いつだって過ぎないんだ。
感情を昂らせてはいけないと思っていたのに、安田さんの話を聞いて冷静でなんて居られなかった。
なんて卑怯なやり方で礼を脅迫したんだろうと衝撃的だった。
だから絶対に聞き出してやると思った。
何も知らないとは言え、彼のトラウマをまた蘇らせたその言葉を、知りたいと思った。
敬語を無くした言葉に彼女は顔を青くして唇を噛みしめた。
別に喧嘩っ早い訳じゃないけれど目の前にある彼女の顎を掴んで揺さぶりたくなる。
「何て脅したんだって聞いてる」
そう声を低くして言う。
とても笑顔なんて浮かべられない。
返答次第では殴ってしまうかもしれない。
彼女はしゃっくりを上げるように一度息を吸ってから小さな声でそれに答える。
「私の事を抱いて欲しい、そうじゃないと私と貴方はフェアじゃないって、言った」
その言葉を聞いて何か思うより早くやっぱり手が出てしまった。
座っている彼女の顎を左手でつかんでこちらを向けてその左頬を思いっきり平手で殴った。
バチンと乾いた音で自分が何をしたのか気付いて慌ててその手を外し一歩下がる。
目の前の安田さんが頬を右手で押さえてから目線を私に向けてそれから頭を深々と下げてきてそれにまた腹が立った。
ぎりっと奥歯を噛みしめて唸るように彼女に告げる。
思いっきり睨んだはずのその姿がどんどんぼやけていった。
「貴方は最低ですっ!!私の過去をどうこう言おうが構わないけどっ、私を利用して自分の価値を利用して、礼に迫ったんだっ!」
怒鳴るように言えば彼女は顔を上げてから目を見開いた。
気付いていなかったとは言わせないとまた口を開く。
溜まった涙はあっという間に決壊しぼろぼろ頬を伝って流れ落ちた。
物凄く悔しくて心から辛かった。
そう思われても仕方ないのは分かっていたけど、そんな思い込みで礼を強請るのは許せなかった。
「私が最低な事をしているんだったら、それを使った貴方はもっと最低だっ!貴方が思っているようじゃないって否定したでしょう?!私は言ったはずです!そんな風に私を抱かないってっ!……言ったじゃない!!!」
足を踏み込んで呆然と私を見ている彼女の服を両手で掴んで言いながらがくがく揺さぶった。
嗚咽を上げながら言ったその言葉がどれくらい伝わったか分からない。
自分の無力さに腹が立つ。
彼を守れなかった弱さに腹が立つ。
「どうしてっ?!どうして、信じてくれなかったの?!私が、私がっ、汚い女だから?嘘にまみれてると思ったから?!……礼はっ」
がくがく揺さぶっていたその手を止めて目を閉じて俯いた。
溜まっていた涙がぼたぼたと下に落ちて彼女の服に染みを作る。
一度短く息を吸ってから口を開いて嗚咽と共に告げる。
「礼は……関係、ないのにぃ……。ただ、私を好きにっ……なってくれただけっ……」
それだけ言えばもう体の力が抜け落ちていって彼女の服を掴む手も離してしまってがくりと膝から床に落ちれた。
その瞬間私の体は誰かにぎゅっと抱きしめられその回された細い手に縋るように手を掛けて大声で泣いた。