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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第四話 俺と彼女と仕事
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4-4 私と彼と約束

声を上げて泣いてしまった。

自分にはそれ以上何も出来ないと気付いてそれで無力さに虚しくて仕方無かった。

だから洗面所に響く足音にも全然気付かなかった。


「涼?」


彼の心配そうな声がする。

新聞は綺麗に畳んだけどあんなに毎日読んでいるのなら私が読んだ事くらいとっくに気付いているだろう。

思わず体を動かしてしまうが広いとは言えたかがしれてる。

逃げる場所なんてどこにも無い。

ドアの前には彼がいて他の三方は壁だ。


「大丈夫?のぼせた?」


このままだと彼はドアを開けて入って来かねないと慌てて声を出す。

どうか反響した声は泣いていたと分かりませんように。


「大丈夫です」


そう告げたのに彼はそこを動かなかった。

次に聞こえてきたのは押し殺すような沈んだ声だった。


「……あのさ」


たっぷりと間を置いてから呟くがその先は続かなかった。

その代わりにドアが突然軋みシルエットだけ見える彼が項垂れるように頭をガラスへと押し付ける。

開いてしまうのではと目を閉じて体を両手で抱き締めるがそれ以上ドアは音を立てなかった。

恐る恐る目を開けてその様子をじっと窺う。


「……今、携帯の電源切ってるんだよ」


苦しそうに彼が言ってその大きないつも守ってくれる手がガラスに張り付く。

その言葉にも彼の行動にも驚いて小さく息を飲む。

いつもなら何も言わずに去っていくはずなのに、今は違っている。


「涼と二人でちゃんと過ごしたいから一日中ずっと、切ってるんだ。朝と晩に少しだけ確認はしているけれどね」


そんなの聞いてない。

涙はその衝撃的な言葉にあっという間に止まった。

だってそんな事考えられない。

仕事はいつも彼に付き纏っているのだから。

押し付けた手は白くなっている。

自分でも分かっていない程強くそこを押している証拠だ。

それは私を求めているような気がした。

驕りかもしれないけれど、そう思った。


立ち上がり浴槽から出る。

水音がしてももう気にならない。

それより目の前のその手をただ握り締めてあげたい。

けれどその薄いガラスの壁を開ける事は出来なかった。

今開けたらきっと彼は言葉を止めてしまう。

驚いていつものように少しおどけてから戻ってしまう。

佐久間礼に、戻ってしまうんだ。

ガラス越しのそれに自分の手を重ねる。


「だから」


彼が言う。

良いんです、もう。

大丈夫です、と思う。


今、目の前でガラスに頭を預けているのは29年間生きてきた佐久間礼じゃないんだ。

社長でも御曹司でも無いただの私の最愛の人だ。

その人は仕事を顧みず携帯電話の電源を切ったと言った。

何かあれば呼び出されるのが分かっているから片時も手放さないそれを彼は自分から放りだしたんだ。

彼の顔が上がる。

私の手が重なっているのを見てそのまま見つめている。


「大丈夫、です」


ゆっくりと言う。

子供に言い聞かせるようにそっと声を潜めて。

手が勝手に動いてしまう。

どんなに押しても指を動かしても握る事の出来ないたった一枚のガラス越しのそれ。

本当はドアを開けて今すぐ彼が濡れる事も気にせず抱き締めたい。

体を見られるのが恥ずかしいとかそんなつまらない事、もう、どうでもいい。


「大丈夫です、側に居るから」


手を止めてそうまた口を開く。

笑みが勝手に浮かぶ。

彼には見えていなくてもそれは止められない。

彼の指が私がしたように動く。


それで、いい。

何も出来ないけれど側に居る事は出来る。

同じ土俵には立てないけれど疲れた体を休める場所くらいは作ってあげられる。

戦力にはならないけれど裏切る事無く側に居れる。

ガラスに映る彼の頭に自分のそれを重ねる。

背の高い彼の頭がそこにあるって事はやっぱり項垂れているのだろう。


「貴方が要らないと言うまで側に、ちゃんと、側に居ますから」


佐久間礼は彼の周りの人にあげてしまえば良い。

それを要らないと言うのなら私が拾いに行けば良い。

息を飲む声と吐く声が交互に聞こえる。

多分、泣いているんだろう。

それで良いのだ。


せめて私の前だけでも、彼が、ただの礼に戻れるのなら側に居る意味が生まれるのだから。

きっとそれが私が彼の側に居る事の本当の意味なんだから。





要らないと言うまで側に、ちゃんと、居ますと穏やかな優しい声で告げた。

心が急にふっと軽くなる。

そんな些細な一言で涙が止まる。

どうしてそんなに俺が喜ぶ事を言ってくれるんだろうと思う。

ショックを受けたのでは無かったんだろうかとも。


「側に?」


そう尋ねればガラスの向こうで頷く仕草。

ドアが手が揺れた事で軋む。


「はい」

「俺の?」

「はい」


それってプロポーズみたいだと思う。

今流行りの逆プロポーズでは無いか。

顔を上げて涙を肩にこすりつけて拭う。

手はどうしても離したくなかった。

離したら幻のように消えてしまいそうだから。

逃したくないと思う。

彼女はもう要らない存在なんかじゃとっくに無くなってるんだ。


「要らないなんて言わないよ?」

「それならそれで構いません」

「本当に?」

「はい」

「寂しい思いをさせるよ?」

「そうですね」

「辛くなって逃げたくなる時が来るかもしれないよ?」

「そうですね」

「一緒に居るのが苦痛になる時だってあるかもしれないよ?」

「そうですね」


昔あったおもちゃの電話みたいに同じ言葉を繰り返している。

そうですねってそれだけじゃ済まされない時がいつか来るだろう。

それでも彼女は本当に俺の側に居てくれるのだろうか。

ガラスが邪魔だった。

目の前にあるのに触れないもどかしさに拳を握る。


「そうしたら涼も逃げるんでしょう?」


一番嫌な恐れているそれを口に出すと体が震えた。

彼女が張り付けていた額を上げた。

それから首を振る動作。

それから力強くはっきりとした声が響く。


「逃げません。貴方が佐久間の名を捨てたとしても私は一緒に居ます」


ドアを開けてしまいたいと思った。

そんな事を言ってくれる奴を俺は祐樹以外知らない。

女はいつも佐久間の名と俺の財力を目当てにしていた。

彼女が、笹川涼がそうでないと願っていたんだ。

本当はずっと、願っていた。

でも確かめるのは怖かった。


「約束だよ?」

「良いですよ。破ったら針千本飲みます」


子供みたいな言葉に顔が綻んでいく。

今すぐ顔が見たい。

しかしぐっと力を籠めるがそれはびくともしない。

彼女が軋む音にいち早く力を籠めている。


「……開けてよ」


呟くとそれはだめですと怒鳴られた。

何だよ、こういう時はさっと開け放って抱き締めあうのが王道だろうと押してみるも動かない。

火事場の馬鹿力だ。


「何で、良いじゃない」


そう言うと彼女がガラス越しに俯く。

その姿に吹き出す。

何でそんなにギャップがあるんだよ。

くっくっくっと笑いを堪えられない俺に彼女が怒鳴る。


「もう、とにかく出て行ってくださいっ!リビングで待ってて下さい!今日の予定はそれから決めましょっ」


心が晴れていく。

何も無かったようにいつも通りな彼女のおかげだ。

わかったと呟いて廊下へ出て思いっきり笑う。


いいさ、離れて行かないって言うなら離さないまでだ。

泣いても叫んでも絶対に自由になんてしてやらない。


笑いながらリビングへ入りテーブルの上の新聞を取って縦に折って捩じる。

一日くらい読まなくたって構わない。

そう思いキッチンの大きなゴミ箱に放り投げた。


第四話 俺と彼女と仕事 完

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