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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十五話 宙に浮くのは二人の気持ち
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15-3 それぞれの夜、それぞれの朝

涼が去って一人になってからまたテーブルに突っ伏す。

彼女の口から出た意外な提案を俺は黙って受け入れるしかない。

そうさっき言ったばかりだし、それによれば俺は首の皮一枚でどうにか繋がったらしい。

正直に言えば六対四くらいの割合で彼女が別れを告げる事はないだろうと予想はしていた。

その代りに金銭を要求してくるだろうと思っていたのは、金持ち故の思考なのかもしれない。

どちらにせよ彼女はチャンスをくれたのだと思う。

やり直すチャンスと許してくれるチャンスと、彼女が俺に何も言わなかった事を許せるチャンス。

やはり敵わないと思う。

学歴や立場、資産を超えたもっと違う次元で彼女の方が俺より上にいつも居る。

男としては情けないのかも知れないが、俺にはそれがとても有り難く思える。

そうでなかったら俺達はとっくに別れていただろう。

よく幼子の頃から女の方が精神的に上だと言うがまさしくその通りだと思った。


一人になりやることも無いので立ち上がり置いていってくれた俺の携帯を持って部屋へと向かう。

さっきよりずっと心が軽くなっていて気分は相変わらず悪いけれどそれでも寝られないほどじゃないと思った。

部屋の前に立つまでは。

そこに立った瞬間に、この部屋で一人で寝るのかと思えばその軽くなった気分はどこかへ消えていく。


やっぱり涼には敵わない。

彼女はそれを分かっていて一緒に寝ないと告げたんだ。

仕方なくドアを開け明かりを点ける。

何て事の無いいつも通りのそこにやや躊躇ってから足を入れればやっぱり気持ち悪さは強くなった。


ここで俺は他の女を抱いたという罪の意識がそうさせているのだろう。

それでも他で寝るわけにはいかず仕方なくパジャマに着替えてそのまま布団に潜りこんだ。

一人では広すぎるその上で目を閉じてみてもなかなか眠気はやって来ず、眉を寄せたままいたずらに時間だけが過ぎていく。






散々泣いた後着替えてベッドに潜る。

一人で寝るのなんて久しぶりすぎて寒い。

春だというのに薄ら寒いそこで目を閉じるでもなく携帯でネットをしていればそれが小さく震えた。

いつもの癖であれからマナーモードにしていた為音は流れず、けれど画面の上部には誰からのメールかと件名が右から左へ小さな文字で流れていく。

その名前を見て息を飲み、ブラウザを閉じてメールを開く。

知り合いというフォルダに分けられたそこを開き来たばかりのメールを開く。

それは兄の婚約者の由香里さんからで全く私達には関係のないヘルプ要請だった。

読めば結婚式まであと一カ月を切ったというのに準備が進まないのだと言う。

気に入ったデザインが無かったという彼女のこだわりで招待状は手作りだった。

それに合わせて席次表やプロフィール、席札やウェルカムボードも手作りすると意気込んでいたので、それがまったく終わっていないのだろう。

メールの下の方には最近体調がすぐれないとまで書いてあり心配になり返信を打つのでは無く電話を掛けてみる。

遅いと言ってもメールを送ってくるくらいだからまだ起きているのだろうと待っていればすぐに彼女は電話口に出た。


「涼です。由香里さん?」


そう告げれば彼女は心なし疲れた声で返事をする。


『そう。ごめんね、突然メールして』


そう言われ首を振りながら大丈夫ですと答えれば彼女が続いて口を開いた。


『で、どうかな?仕事終わった後で構わないからこっちに来てもらいたいの。もちろん交通費くらいは出すし、何なら晩御飯もごちそうする。……あぁ、でも佐久間さんが許さないか』


そこまで考えていなかったらしく話しながらとても残念そうに言われて少し笑ってから大丈夫ですと答えれば彼女はえ?と返してくる。


「問題ありません。明日そちらへ伺いますね。申し訳ないんですが、駅までは迎えに来てもらえませんか?地理には自信が無くって」


そう言えばうーん?と唸ってから彼女が口を開く。


『本当に平気なの?だって晩御飯の支度とかあるでしょ?』


そう言われてもう一度大丈夫ですと告げてから少し間を置いて彼女に告げる。


「詳しい事は明日会ってからお話しますが、今、距離を置いてるんです。私と礼……佐久間さんは」


言いなおしたそれに本気だと分かったらしく彼女が息を飲んでからどうしたのか訪ねてきて首を振ってから口を開く。


「明日お話しますから。どちらにせよ由香里さんにはそうするつもりでした。一人で考えるのにはちょっと事態が重すぎて。私の過去含めて今までの経緯を知っている方に相談したかったんです。兄を私が取ってしまうと佐久間さんは誰にも相談出来ないから、由香里さんに甘えるつもりでした」


兄と祐樹さんを呼んだことにも彼女は驚いたらしくけれどそれが嬉しかったのか、言葉の中身が嬉しかったのか、一際明るい声で返事を返してくれた。


『分かったわ、手伝って貰いながらじっくり聞くわね。明日仕事が終わったらまた連絡してくれる?家に居るからすぐ出れると思う』


その言葉に、はい、と返事をしてから電話を切り息を吐いた。

この家に一人で居るのは嫌だったから由香里さんの申し出は渡りに船だ。

家に二人で居れば別々に過ごしていたってどうしたって気にしてしまう。

それなら終電ぎりぎりで帰ってきて大して会話もせずにお風呂を済ませ寝てしまった方が楽だった。

逃げ道を見つけて安心したのかそのまま眠気がやってきて深い眠りについた。

その晩、私は明の夢を見なかった。







あまり寝ないままそれでも睡眠をとっていつもの時間に起き、着替えてからリビングへ行くとそこには涼も朝食も無かった。

彼女はもう家政婦では無いのだから当然と言えば当然なのだが少し気落ちしてから自分で珈琲を入れそれが落ちる間に新聞を取りに行き、マグカップに入れてテーブルに着く。

思えば彼女と一緒に暮らすようになってから朝食を取らない日は無かった気がする。

いつもどちらかが相手の為に用意して一緒に取っていた。

彼女の提案は思ったより辛いかもしれない。

この分だと夕飯も別々かも知れないなと考えながら目を通した新聞の内容は全く頭に入らなかった。

そのままそれを持って立ち上がりコートを羽織って鞄を持つ。

体に染みついた習慣はきちんとした体内時計の中で出勤する時刻を告げていて時計をちらりと見ればその通りの時間だった。

誰にもいってきますを言わずに家を出て玄関を閉めた。

起きてから初めて声を出した相手は酒井で彼はいつもと変わらぬ挨拶を告げてきてそれに答え車に乗り込んだ。

珍しく新聞を持ち込んだ俺を見て彼が口を開く。


「どうかされましたか?」


それに紙面から顔を上げて首を振る。

俺をバックミラーで確認した彼はそれっきり口を閉ざし車内の会話は無かった。

会社に到着しいってらっしゃいませと言われて社屋へ入る。

いつも通りの朝の風景にどこか安心してオフィスへ向かえばそこにはきちんと彼女が居た。

ドアを開けた俺を見れば彼女は掃除をしていた手を止めてきちんと頭を下げて、秘書としていつも通りに挨拶をしてくれた。


「おはようございます」


それにどう返せばいいのか迷ってから、作り笑いを浮かべておはようと言えば彼女は満足そうに小さく頷いてからまた応接テーブルを拭き始めた。






いつもと同じ時間に起きたけれど朝食は作らないでいた。

以前と同じならば作るべきかと悩んだが、私はもう佐久間礼の家政婦でも無ければ今は恋人でも無い。

作ってしまえばそれは自分の為というより相手の為に好意を見せる事になると思った。

そう思ってしまえば洗濯物を畳むのも掃除をするのも洗濯機を回すのも気が引けていつもよりずっと早い時間に身支度をし家を出た。

玄関に向かう時、彼の部屋のドアを一度見てしまったのはやっぱり心配だったからだと思う。

それでも声も掛けずに家を出ればそれでよかったんだと思う事にしてとりあえずは会社の最寄り駅に向かった。

私達がどんな状態であれ仕事は仕事だと思う。

私が出社せず仕事を放棄し続けたとしても彼はきっと何も言わないだろうが、それは無責任すぎる。

だからいつも通りに仕事をするのは私の中では当たり前で、それに関してだけ言えば迷いは無かった。

彼と一緒に居られるなんていう甘い考えもそこには無い。

人がいつもよりまばらなオフィス街にあるその駅の側のかつて働いていて彼と出会った会社のお店に入りコーヒーとトーストを頼む。

禁煙席の大きな丸いテーブルに座り、くり抜かれた真ん中の大きな穴の中にある植え込みの観葉植物を見ながらそれをもそもそと食べた。

コーヒーにはミルクふたつとお砂糖二本を入れてかき混ぜてパンを食べてからゆっくりと味わう。

安っぽいそれはとても懐かしくて思わず笑みが漏れた。

それから店を出て途中のコンビニでおやつを買ってから会社へ向かえばまだ受付嬢も居らず自動ドアも開かなくて社員証を初めて使ってそれを開け社長室へと向かう。

鍵を開けてから鞄を置き、コートを脱いでポールハンガーに掛けてから伸びをした。

こんなに朝早く来たのだから昨日の掃除の続きをしようとシンクに掛けて干しておいた雑巾を濡らして絞り、本棚や彼の机、ソファも拭いて、その度に洗っては絞りをして、最後に応接テーブルを拭いていれば彼が出社してきた。

ドアを開けて私を見たときのその顔が安心したように穏やかになっていたので牽制も込めて平坦に挨拶を告げれば彼は私の意図に気付いたようで作り笑いを浮かべてそれに返してきて小さく頷いた。


それで、良いんです。と伝えたそれはきちんと伝わったらしく彼はそのまま私にコートをを預けて机へと向かい、雑巾とコートを持ったまま衝立の中に入った。


後は事務的な会話だけをし、互いに部屋の隅と隅で各々の仕事をした。







昼を過ぎ仕事が一段落したタイミングで伸びをして涼に声を掛ける。


「お昼にしようか」


そう言えば彼女が衝立の向こうから、はい、と返事をし出てきた。

それから彼女が一度頭を下げてからこう告げる。


「では行って参ります。一時間後には戻ってきますね」


その言葉に思わず目を開きそうになったがそのまま目を細めた。

今までは一緒に居れば一緒に食事をしたのだけれどそうではないと言うんだろう。

どこかに一人で食べに行くのかそれとも誰かと一緒に過ごすのか、とにかく俺とはそうしないという意思表示を素直に受け入れる事にして口を開く。


「はい、どうぞ。何かあったら連絡するよ」


そう言えばまた彼女はいつもと寸分変わらない返事をしてそのまま小さな黒いバッグを持って部屋を出て行った。

徹底しているその態度に少し息を吐きながら、電話の受話器を持ち上げて、一人さみしい俺の相手をしてくれるだろう彼に電話をした。

どうせ彼は俺達の態度を見ればいずれその話を振ってくるのだから、それなら最初にきちんと話しておいた方が良い。

親友だからというよりは彼が彼女の兄であるからだ。


『おう、どうしたよ?』


いつもと変わらぬそれにこちらはそうは行かなくてため息をついてから口を開く。


「もう昼済ませた?」


そう率直にかつ簡潔に尋ねれば彼はやや間を置いたもののまだだと答え、その後すぐにかつ丼とだけ言って電話を切ってしまい、本当に兄妹そろって察しが良すぎるんだよと一人悪態をつきながらいつもの蕎麦屋に電話を掛けた。

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