14-11 あまえんぼうとつよがりんぼう
電話を勢いで切った後ちいさく溜息を吐いた。
自分でも驚くほど感情は平坦なままで泣くと思っていたのに涙は滲む事すらしなかった。
電話を見つめてそのまま呆然としていれば急に震えて落としそうになりながら出る。
電話の向こうの礼はどこにいるのかだけを尋ねて来て場所を説明すれば話している途中でその車が見えて植え込みから飛び降りて通話状態のまま走り寄る。
酒井さんが開けてくれる前に自分からドアを開けて手前に座っていた礼を押し倒して座席に飛び乗る。
体の下の礼が戸惑った表情を浮かべ酒井さんが一度降りてから後部座席のドアを閉めてくれた。
「笹川君?」
そう呼ばれて彼の胸の上で小さく頭を振れば車が動き出し不安定なまま、けれど緩やかにしか振動を感じない高級車の中でわたしは礼を下敷きにしたまま胸に顔を埋めた。
彼が戸惑いながらそっとわたしの体に手を回して少し持ち上げて態勢を整えてくれた。
半分しか乗っていなかった体が三分の一くらい乗っかり、二人の足は絡まるように座席の下へと伸びる。
顔を埋めた彼の胸は彼の匂いとアルコールの匂い、それからお香を焚いたような知らない匂いがした。
「涼」
彼はしばらくそうしたままようやくそう呼んでくれて小さく頭を縦に振る。
両手で抱き締められ動けないその姿勢と匂いが今は心地よかった。
どうしてそうなのかはよく分かっていない。
母に告げた事なのか聞いた事なのか、田中さんと安田さんに過去を話した事なのか、礼が居なかった事なのか、昨夜の安田さんと礼の事なのか、どれもそうな気がしたし違う気がした。
ただ、はっきりと分かっているのは、こうやって甘えたかった。
いつものように穏やかに笑みを浮かべてそっと触れられるのでは無く、こうしてぎゅっと抱きしめて貰いたかった。
こうして彼の存在を確かめたかったのかも知れない。
ドアが開いた瞬間、涼は俺に飛びついて来てその勢いで押し倒されたまま優秀な運転手は家路に着いた。
余りに不安定で転がりそうで思わず抱き締めてから態勢を整えた物の、彼女は全く動かず何も言わない。
ひどく珍しいと思う。
あのベッドに潜り込んで来た時やそういう事をしましょうと言った時以上の衝撃だ。
彼女からはアルコールの香りがぷんぷんしてて結構飲んだ事を示している。
とは言え、俺もそれに負けないような香りをさせているだろう。
「寂しかったの?」
小さくそう尋ねれば彼女は何も示さずただ俺のワイシャツを掴んだだけだった。
何があったのだろうと思う。
数時間前まではいたって普通に見えたのに、何がそうさせたのだろうか。
抱き締めている腕の力を抜こうとすれば彼女は何度も首を横に振りそれを拒む。
ようするにこうして抱き締めて居ろと言うんだろう。
「それは構わないけど、もうすぐ家に着いちゃうよ」
会社からそんなに距離の無い自宅、ましてラッシュを過ぎている今ならもうすぐ自宅のそれが見えてくるはずだと窓に顔を向ければ彼女はまた小さく頷いた。
分かっているのならどうして起き上がらないのだろう。
「じゃあどうしたって言うの。そんな子供みたいに甘え……」
そう言い掛けて言葉を止めた。
思わず目を見開いて視線を下に向ければ街灯に映る彼女の耳がその下でも分かるくらい真っ赤になっている。
胸が急に高鳴ってごくりと喉を鳴らした。
それから彼女を抱く手に力をこめてそっと告げる。
「帰ったら一緒にお風呂、入る?」
その言葉に最初に反応したのは酒井でバックミラー越しに視線をびしびしと感じた。
違うんだよ、と言い訳をしたくなるのを必死に抑えれば彼女は小さく頷いた。
「一緒に寝るでしょう?」
他意はないそれにごふんと酒井が勘違いしたらしくむせてから視線を外し涼はそれにもっと耳を赤くしてからまた小さく頷いた。
それを受けてからそのままマンションに着くまでもう何も言わなかった。
何だか知らないけどそういう気分ならそれで構わない。
むしろそうやって滅多に甘えて来ない涼がそうしてくれるのは今は心地よかった。
帰ったらどっちにしろ雛子の事を話さないといけないのだから、こうして甘ったるい時間を過ごせるのは今だけかも知れない。
車が止まり礼は酒井さんに一言今日はそこに居てとだけ言う。
彼は畏まりましたとそこを動かず礼にわたしは降りるよう促され素直にそれに従って先に出た。
放り投げた鞄は礼が持ってくれて車を降りドアを閉めれば駐車場へと車が消えて二人だけになる。
俯いたまま恥ずかしくて顔を見れなかった。
どうしてあんなことをしたのか未だによく分からない。
けれどあれはわたしでも『私』でも無い。
今ここに居るのもそのどちらでも無い。
正直言えばこうして離れて立っているのも嫌だ。
すごく我儘な笹川涼がここに居る。
その我儘な私に礼はそっと近づいてきて体を屈んで私の顎に手を当てて上を向かせた。
どうしたってそうされれば顔を見てしまって視線を逸らせばその隙に彼は自分から唇を重ねてきた。
一瞬だけのそれに思わず顔を見れば嬉しそうに笑ってから何も言わずに軽々と子供を抱くように私を抱きあげてそのままマンションの中へと向かう。
自動ドアを抜ける瞬間に目を閉じて居てと言われその通りにすれば、きっと驚いているだろうコンシェルジュに彼が笑いながら告げる。
「疲れたみたいでね、寝ちゃったんだ」
言い訳のようなそれの返事を待たずに早足でそこを抜ければエレベーターに乗り込み最上階に着いても彼はそれ以上何も言わず、私は目を閉じたままだった。
家のドアを開く音でようやく目を開ければ彼の肩越しに夜景が見えた。
今までそんな高さから見た事が無かったからいつも見て居るそれが違って見えた。
けれどそれも一瞬であっという間に玄関のドアに阻まれた。
「着いたよ」
そう言って私を降ろす彼はいつも通りにそのままリビングへ向かってしまい慌ててそれを追っかける。
部屋に入るなり立ち止まったその背中に飛びついてひっつけば彼はそのままくすくすと笑い始めた。
そんな風にされて物凄く恥ずかしくなり手を離し一歩下がれば彼はくるりと振り向いてからまた私を抱きあげた。
「そんなに抱っこ好きだった?」
まだ笑っている彼の肩に顔を埋めて逃げるようにすればそのままお風呂場へ連れて行かれ器用に私を抱いたまま浴槽の栓をして蓋を閉めパネルを操作した。
それからリビングへと戻り隣のダイニングのソファにどっかりと座る。
「涼、そろそろちゃんと言葉に出してくれても良いんじゃない?ここまではサービスしたけどここからは有料になりますよ」
そう彼が茶化しながら言いそれに顔を渋々上げれば膝の上に乗せるようにして対面させられた。
とにかくすごく恥ずかしくて真っ赤になりながら俯けば彼は小さく、こら、と私を叱り仕方なく顔を上げて彼を見た。
「ほら、言ってごらん。大丈夫だから。どんな言葉でも俺はそれを受け止めるから」
そう言われて口をぱくぱくさせながら小さく掠れた声でずいぶんぶりに声を出した。
何て言えば良いのか本当に分からなくてしどろもどろになりながらそれを小さく伝える。
「……あ、の……私……。れ、いに……あま……え、た……い」
時間を掛けたくせにそれしか言えず唇を噛み締めて俯けば彼はよく出来ましたと呟いて私をぎゅうっと抱き締めた。
痛くないけれど力強いそれに甘えてされるがまま力を抜いて彼に凭れかかれば私の背中を彼が優しくぽんぽんと叩いてくれて、お風呂が沸くまでずっとそうしていた。
「お風呂入る?」
と涼の体を離して顔をちゃんと笑顔にしてから尋ねれば小さく彼女は赤くなったまま頷いた。
それじゃあと立ち上がりまだ抱き抱えて廊下を歩く。
不幸中の幸いとはこういう事を言うのだと思う。
家に帰ってきたその瞬間に気分が曇った。
昨日まで、正確に言えば昨日の帰宅した時まで、ここは安心出来る世界で唯一の場所だった。
それなのに今は全く違ってしまっている。
俺はこの家で涼以外の女を抱いた事が無い。
ここは俺にとって聖域のような場所だったからここだけはそういう煩わしい事を考えなくて済むようにそういう事をした事は無かった。
それが変わってしまった。
安田明子と言う人物を昨夜確かにこの家で抱いたのだと思えば顔は自然に歪んだ。
胸焼けしているような気持ち悪さが沸々と浮かびそんな姿を涼に見られなくて良かったとこの状況に感謝した。
だから彼女の向けた顔は全部偽りという事になる。
それは全部涼が愛している礼では無く外面の佐久間礼だ。
今の所それに彼女が気付いて居ない事を嬉しくそしてすこし切なく思いながら洗面所へと向かう。
そこに着き床に彼女を降ろしてから服を全部脱がせた。
ばんざいをさせスカートから足を片方ずつ出させ先に風呂場へと送りこんでから自分も服を脱ぐ。
鏡に背を向けてしまったのは自分の顔を見たくなかったからだ。
彼女が居ない今きっとそれはそれは酷い顔をしているだろう。
無気力で無表情で目は虚ろな酷い顔。
ひとつ息を静かにこっそりと吐いてから笑顔を作り中に入った。
掛け湯をせず壁を向いている彼女を背中から抱き締めてそのまま浴槽に背を二人分預けた。
先に入っていた私を礼が抱き寄せいつものように抱っこをされる形で彼に体を預けてしまってからぼんやり上を向いた。
すっかり忘れていたけれど私ずいぶんとアルコールを摂取したんだった。
いつもより温めに設定されているとは言え長時間湯船に浸かると深酔いするかも知れない。
その証拠に体はもうぽかぽかしてきているし、アルコールは血液と共に体中を巡っているような気がする。
礼も同じだろうかと思い振り返ろうと思ったが止めた。
なんだかこの甘ったるい空気に水を差してしまいそうだと思ったから。
けれど共倒れになるのも困るからいい加減な所で声は掛けないといけない。
お風呂を上がっても彼は側に居るんだし、一緒に寝るんだし、明日だって一緒に過ごすんだからどうでも良い事のような気がする。
お湯の中の手をぽちゃりと動かせば彼は私の頭に顎をいつものように乗せた。
「礼?」
一瞬さっき考えた事が頭を過りそう声を掛ければ小さく、ん?と返ってきてそれだけの事なのに妙に嬉しくてくすくす笑ってから何でも無いと返す。
本当は聞きたい事があるけれど、この雰囲気を壊したくなかった。
安田さんとの事も、徹って人の事も、気にならない訳じゃない。
一丁前に嫉妬心と独占欲はある。
「どうしたの?徹の事?」
そう彼が何とも無いように言ってきて少し驚いてから顔を顰めた。
どうしたってこの人は私が考えている事がすぐに分かってしまうんだろう。
返事をせずに唇を尖らせていれば彼はそれが返事だと言うように私に回した腕に力を込めてぎゅうっと抱き締めてから口を開く。
顎を伝ってその振動で頭が動く。
「徹はね、俺の従兄妹なんだよ」
そう言われて心のどこかでほっとした。
従兄妹ならば悪ノリをしてあんな風に口紅でキスマークを残したのかもしれない。
そう例えば彼女の唇を借りたりなんかして。
私がそんな風に思案していれば彼はまた口を開き続きを話す。
「少し普通とは違う人でね、本当は雛子というんだ。雛まつりの雛に子供の子。佐久間雛子さん」
そう言われてえ?と振りかえろうとすれば彼の顎はそれを許さずにぎっちりとそこに私の頭を止めている。
その動きを分かっていてそうするのか彼はまた口を開いた。
「雛子は同性愛者なんだ。それだけなら別に構わないんだけどね。俺の許嫁なんだよ、実は」
そう言われて驚いて目を見開いて今度は彼の顎を振りきってそっと振りかえってしまった。
横目で見る彼はとても穏やかで、穏やかすぎて、いつもと全く違っていた。