14-10 ははと、むすめ ははと、あに ははと、れい
あの場に居ながら最愛の人を待つのはどうしても嫌であんな風に出て来ては見たもののまだ礼から連絡は無く、駅前を避け一本隣の大通り、昨日祐樹さんがわたしを拾ったそこ、まったく同じ住宅展示場の植え込みに座って行き交う人や車を見てそうだと思いつきさっき電話していた母にもう一度電話した。
さっきは大した話をしていない。
どこどこの誰が結婚したとか、子供が生まれたとか、お父さんがどうだとか。
世間話をしこちらも仕事を始めた事やこっちはもう暖かくなってきたとかそんな話しか出来なかった。
あれから初めて電話をした母はいつもと変わらぬ様子でいつも通りにわたしと話してくれて少しほっとした。
けれど、親子だからこそちゃんと聞いておかないといけないと思う。
世界でただ一人だけの母だからこそ遠慮をしてはいけない。
数コールでそれはきちんと繋がり、母が出た。
さっき見た時計では二十時を過ぎたくらいだったから多分ご飯は終わっているだろう。
「もしもし?お母さん?」
そう言えば母はおかしそうに笑ってから返事を返す。
『なあに、涼。一日に二回も掛けてくるなんて』
そう言われさっきは仕事中だったのだと告げれば短く叱られた。
それに素直に謝ってから二人の間に沈黙が流れる。
「ねぇ、聞いても良い?」
先に口を開いたのはわたしで、電話を掛けた方がそうするべきだと思ったからだった。
母がなあに?といつものように聞いてくれて一呼吸置いてから口を開く。
「わたしとお兄ちゃん、どちらかしか助けられなかったらどっちを選ぶ?」
言いながらだいぶ子供じみた質問だと思う。
小学生の頃にそんな質問が流行って誰かれ構わず聞いていたのを思い出した。
あの時に母に何て尋ねどんな答えを貰ったんだろう。
母がすこし間を置いてから返事をする。
その声はいつものように弾んで居なくただ平坦だった。
『そんなの選べないわ。でもどっちかと言えば涼かも知れないわね』
その答えに少しだけ嬉しくなりながら、けれど母らしくないと思いどうしてかと尋ねてしまう。
『そりゃあね、涼の方が泣き虫だし、まだまだ子供だし。何て言ってもお母さんの側で甘やかせて育てたから、祐樹とは違うわよ。きっと祐樹の方が逞しいでしょうね』
そう言う母の声は嬉しそうで、再会していないのにどうして分かるんだろうと心が沈んでいく。
『でも、ね。涼は勘違いしてるかも知れないけれど、涼も祐樹もお母さんにとってはどちらも掛け替えのない子供なのよ。どっちもお腹を痛めて産んだんだから』
そう言われ小さく頷きながら、うん、とだけ答える。
母はそれきり何も言わないでわたしが何か言うのを待っている。
視線はいつの間にか往来する人や車から地面に落ちていてアスファルトの上の小石を見つめていた。
「わたしも子供を産んだら分かるかな。子供を育てれば、お母さんの気持ちが分かるようになるかな。正直言えばちょっとまだよく分からないし、お兄ちゃんに嫉妬する気持ちもあるの」
そう思いきって言えば母は、そう、とだけ言うばかりで仕方なく口を開く。
思えばいつも母はそうだった。
言いづらい事を話し始めれば怒るでもなく叱るでもなくただ黙って聞いていて最後に一言ぴしゃりと何か言うんだ。
「お兄ちゃんとは、何て言うか離れていない距離感の上に居るからよく会うんだけど、妹って分かってからも何も変わらないし、むしろ喜んでくれてるみたい。わたしもお兄ちゃんと接している時は楽しいし嬉しいんだけど、ちょっと離れるとお母さんとわたし達の関係をやっぱり考えちゃうんだ。わたしより二人の方がずっと複雑なのは分かってるんだけど」
溜息を吐くようにそう告げれば母がすぅっと息を吸う音がした。
それから真剣な声でわたしに告げる。
『ごちゃごちゃ考えすぎるのは涼の悪い癖よ。お母さんやお兄ちゃんがどう思ってるかなんて関係ないでしょう。涼は涼で考えを持っていて当たり前よ。それをこうやって話してくれば良いんだし、一人で抱え込まれたらお母さんもお兄ちゃんも涼に対して何も出来ないのよ。それとも私達の力は要らないっていうなら、二度と甘えて来ないでちょうだい』
そう言われ声を詰まらせた。
何も言い返せずにただ小さく、うん、とだけ返せば母はもうその話はおしまいとばかりに違う話題を振ってくる。
言い逃げに近いそれを今まで何度も何十回も味わっているけれど、でも、それは決していつだって間違ってはいなかった。
『それよりそろそろ何方とお付き合いしてるのか教えてくれても良いんじゃない?何も明日明後日に挨拶に来なさいって言ってるわけじゃないんだし。就職だってその人の所だって言ってたわよね?』
そう言われ確かにそう告げたのをアルコールが回る頭で思い出してから口を一度開きそれからまた閉じた。
母に言ってしまって良いのだろうかと悩む。
祐樹さんの件で電話したとき礼は内緒にしてくれと言っていた。
『どうしたの?涼?』
そう言われて大丈夫といつものように答えてからそっと口を開いた。
東京で長く暮らす娘は滅多に電話をして来ない。
こちらから掛けた履歴があれば返してくるが本人から電話をするのは珍しかった。
兄という存在を遠い地で認識し、確認し、心の整理がついていないのだろう。
あまり苦言を言っても彼女を悩ませるだけだと話題を変えてみたもののそれはあまり良い方向に行かなかったようだ。
呼びかけて大丈夫と返事は来たもののあれからまただいぶ経っている。
言えないような相手なのか、それとも、と邪推してこたつの中に眠る老描を撫でた。
『……れい』
小さく風の音のような息を吐くような音にまぎれてそう言われ首を傾げた。
それからもっと良く耳を澄ませて息を止めてみる。
娘は今、苦悩した末に話す事を決めたのだろう。
『お母さん、聞いてる?あのね……わたしが付き合ってる人は、れいって言うの。その名前知ってるでしょう?』
そう泣きそうな声で告げられて息を飲んだ。
そんなに珍しいという程の名前では無い。
読めないような難解な流行りの名前でも無い。
けれど娘の言葉は私がそれを知っていると確信して告げている。
その名前に覚えはあった。
忘れるはずが無い。
「れい?そうね、一人だけ思い当たるわ」
脳裏に浮かぶのは数回しか見た事のない幼子の姿。
後からかつての同僚と手紙をやり取りすれば祐樹と彼は仲良くなって遊んでいたという。
『思い当たったその人で間違い無いと思うの。私ね』
一度娘はそこで言葉を区切ってから大きく息を吸う音が聞こえた。
彼女とて緊張しているんだ。
私も同じように緊張して手が震えている。
『佐久間……佐久間礼さんとお付き合いしてるの。隠しててごめんなさい』
そう言われその言葉が重くずっしりと心に圧し掛かった。
予想していなかったと言えば嘘になる。
大晦日の電話でも匂わせるような事を言っていたし、何より祐樹が佐久間の会社で働いていると言っていた時からそんな気がしていた。
そんなに離れていない距離にいるとさっき彼女は告げていた。
「……そう。別に涼は謝るような事してないわ。言えなくて当然よ。そのうち連れていらっしゃい。お母さんと佐久間さんはもう全く関係が無いのだからただの娘の彼氏として接するわ」
そう震える唇でなんとか伝えれば娘はわかったと一言呟き、もう遅いから切るわと電話を切ってしまった。
電話を耳から離して溜息を吐く先には綺麗な厚紙で出来た二つ折りのやや大きめのカードがある。
畏まった文章の下には手書きで書かれた一文がこう添えられていた。
涼を良い子に育ててくれてありがとう。
俺の晴れ舞台を是非見に来てください。
どちらの返事でも席は用意しておきます。
それは遠く長く離れていた息子の晴れの日の行事への招待状で、私はまだ返事を出せずに居た。
ボールペンを手を伸ばして取り、返信用はがきに丸を付ける。
住所と名前を書き込んでからそっとペンを置いた。
初めてきちんと会いに行きたいと思った。
涼にも祐樹にも由香里さんにも、それから佐久間の跡取りの礼坊ちゃまに。
近い将来彼らは全部まとめて私の子供になるのかも知れないのだから。