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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第四話 俺と彼女と仕事
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4-3 私と彼と携帯電話

お湯に顔を沈める。

鼻から上だけ出してじっと潜る。

もうずっとそうしているのだから手足の指の皮はとっくにふやけているだろう。

それを確かめるように両手の親指と人差し指を擦り合わせてみる。


正直に言えば紙面に書かれた言葉にショックを受けなかったわけではない。

プライベートよりも仕事を優先するという彼の言葉が分からないわけではない。

上に立つ者としてそれは当然の言葉だとも思う。

犠牲を払わないと着いてくる人も居ないのだろうと。

それはかつて働いていた飲食店やコンビニで上司を見ていたからかもしれない。

彼らは皆、他の誰よりも店に貢献し長い時間その場所に居た。

例えシフトが終わっても帰る事無くパソコンに向かっていたのだ。


膝を抱えていた姿勢を崩す。

顔を水面から出して浴槽へと背を預ける。

曇った空気の向こうにタイルが見える。


佐久間礼が住んでいるこの家も、食べている食事も、買ってもらったドレスも全部、彼の犠牲の上で成り立っている。

私は与えられるまま、それの恩恵を受けているだけだ。


もちろん、彼の恵まれた境遇もあるだろう。

けれど、その境遇で彼は私と違いずっと拘束された生活を送ってきたのだ。

大晦日の日に何でもないように自分の過去を話す姿に衝撃を受けた。

子供の頃から勉強させられてる事が周囲と合わせて我儘を言わない事が当たり前だった彼はそれを何とも思って無いらしい。


異常とまでは言わないけれどあまりに自分と違いすぎる。

口煩い母ではあったがちゃんと子供らしく我儘も言わせてくれたし好きなように遊ぶ時間もくれた。

けれど彼にはそんな時間少しも無かったのだろう。

だからこそ祐樹さんの存在が彼の中で大きくなってるんだ。


でも、そんなのってちょっと寂しすぎませんか、と涙ぐむ。

目が赤くなって泣きそうだ。


人生の中で子供で居られる期間はほんの僅かだ。

80まで生きるとしたって四分の一、25%にもならない。

だからこそ子供時代というのはいつまでも心の奥底できらきらと輝いている。


時間が経つのが遅かった夏休み、お年玉を楽しみにした冬休み、宿題が無い春休み。

どこかへ連れて行って貰えるゴールデンウィーク、プール開きに運動会、汗と涙にまみれた部活動。

どれも誰しも一度は経験して大事にとってある思い出だと思ってた。


けれど彼は自分の口で家庭教師が居て勉強ばかりだったよと告げたのだ。


そんなのって本当に寂しすぎる。

私のそんな思いに止めを刺したのはあの言葉だ。


プライベートよりも仕事


きっと自然にそれは出たのだろう。

ずっとそうして来たのだから何も考えずにそう言ったのだろう。


それを私は彼に問い詰める事なんてとても出来ない。

怒ったり詰ったりなんて出来ない。

彼のプライベートはいつも仕事と隣合わせだ。

クリスマスイブのパーティだってクリスマスのパーティだって、プライベートを装った仕事だ。

テレビで株価や為替をやれば無意識に顔を上げているし休みだって新聞を隅から隅まで読んでいる。


私は彼の事を支えて上げることは出来ない。

何も役に立たない。

側に居る事しか出来ない。





女は長風呂とは言うけれどあまりに遅くて様子を見に来ると浴室ではひっくひっくと啜り泣く声が聞こえてくる。

あぁ、やっぱり、と肩を落とす。

見てしまったのならそれは事実になってしまう。

まして新聞だ。

一度公共の紙面に載ってしまえば覆らない。


「涼?」


ひとつ呼吸をしてからそうそっと呼びかけると泣き声が止まる。

ばしゃりと体を動かしたらしく水音が聞こえる。


「大丈夫?のぼせた?」


そう尋ねると明らかな鼻声で大丈夫ですと返ってくる。

全然大丈夫じゃないじゃないと心の奥で思いながら口を開く。

何を言えば良いって言うんだろう。


「……あのさ」


控え目で大人しい、それでいて俺の事を一番に思いやってくれる彼女の事だ。

怒ったり詰ったりするより前にこうなる事は充分予想出来たし、そうだろうと覚悟もしていた。

けれど何を言えば良いんだろう。

嘘だとは、この先の事を考えれば言えない。

どうしたって仕事の割合は生活において大きくなるのだから。

仕方無く磨りガラスのドアの前で頭をそれにくっつける。

中央から二つ折りになって開くドアが俺の重みで少し動く。


「……今、携帯の電源切ってるんだよ」


何も告げられなかった。

何を言っても嘘になってしまうような気がした。

だから本当の事だけ言おうと思う。

磨りガラスに手の平を置く。

冷たくひんやりしているのはガラスなのか彼女の心なのか。


「涼と二人でちゃんと過ごしたいから一日中ずっと、切ってるんだ。朝と晩に少しだけ確認はしているけれどね」


だから何だと言うのだと言われたら答えられない。

目を閉じてそっと息を吐く。

ざばっと中から音がする。

怖くて顔を上げられずそのまま口を開く。


「だから」


あれは違うんだとはやっぱり言えない。

あれを覆すような事はきっと今年中には出来ないだろう。

来年だって再来年だって出来ない。

もっと出来なくなるかもしれない。

子供の頃に決心したじゃないかと思う。

何があっても会社を継ぐのならば必ず成功するんだと、そのために犠牲を払っても仕方ないと。

それなのにほんの少しの事で決心が揺らぐ。

会社を誰かに譲ってしまいたくなる。

カタンと小さな音がして泣きたくなる気持ちを抑えて目を開く。

そこに重なるのは磨りガラス越しの小さな手。

モザイクが掛ったようにぼやけたそれは確かに俺の手の平にくっついている。


「大丈夫、です」


エコーが掛った声で彼女が言う。

冷たいガラスは彼女の温度までは伝えてくれない。

ただそこに手があるだけだ。

手がもっと近くに寄りたいと言う様に何度も何度も必死に指を動かして重ねてくる。


「大丈夫です、側に居るから」


ゆっくりとそれでいて焦っているような声音。

それに、あんなに明るい所で姿を見られるのを嫌がっていたのに、ガラス越しに今は、はっきりと見える。

細部まで見えなくても形は分かってしまう。

見えない顔はきっと笑っている。

安心させるようにいつもの優しい顔で。


こんなにも彼女は俺を想ってくれているんだと涙が浮かんで零れた。

彼女と一緒に居るようになってからこうやって自然に涙が零れる。

今まで押し殺してきた感情が目から溢れ出るように、自然と流れるのだ。


「貴方が要らないと言うまで側に、ちゃんと、居ますから」


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