14-5 あきこのかけはどうなった?
今あたしはすごくぼんやりしている。
何をするでも無く、ただ、ぼーっと目の前に座りいつも通り仕事をする一つ年上の先輩を見ていた。
昨日辞めると言っていた彼女は普通に出勤し普通に仕事をしている。
けれど普通じゃないのはよく分かる。
あたしがこんな風にもう二時間もぼんやりと何もしていないのに小言一つ言わない。
どうしたって言うんだろう。
彼女が言っていた大きな賭けの結果はどっちに転んでこうしているのだろうか。
彼女が顔を上げあたしを見つめた。
ようやく小言が飛んでくるのかと内心ドキドキしながら待てばそのまままたモニターへと視線を移してしまう。
「ねーねー、明子。どーしたのー?」
ついにそう声を掛けてしまい彼女はまた顔を上げた。
キーボードを叩いていた手は止まり、まっすぐにあたしを見てから彼女は俯いた。
今日雪が降らなかったのは奇跡なのでは無いだろうかと思う程、その姿に驚いて頬杖ついていた手を崩して姿勢を正す。
「明子らしくないよー。何か変。どーしたの?」
この部屋に一人では無いのは嬉しいけれど、相方がこうじゃさまにならん、と思う。
もっといつも通り楽しく仕事したい。
昨日は徹と二人でイタリアンレストランで食事をし、ホテルで甘い時間を過ごし、今朝は朝食バイキングを一緒にし、それからタクシーで送って貰った。
彼は今晩は人と会う約束が入るらしく会えないと思うと寂しそうに言い、けれどすっぽかされたら誘うから空けといてと穏やかに微笑んで言い、あたしの額にキスをしてから去っていった。
濃密な楽しい幸せな時間だったそれを崩したく無い。
仕事をしていてつまらなかったら、昨日から今朝に掛けての掛け替えの無いその時間が薄れていってしまう。
「どうって、そうね、どうとでも無いわ。ただ、少し落ち込んでいるだけよ」
彼女が俯いたままそう返してきてまたも驚いた。
そんな風に弱気な部分を見せたことはほとんどない。
佐久間礼を好きだと聞きだした時だって自信満々だった。
思わず眉を寄せてからうーんと唸り口を開く。
「落ち込んでるって、賭けが上手く行かなかったってこと?ていうか、辞めない事にしたの?」
そう尋ねれば彼女は俯いたまま首を振った。
それにどっちが、と尋ねたくなるのを抑えて彼女から口を開くのを待つ。
こーいう時は無理に聞き出せばハリネズミとかアルマジロみたいに相手は固く心を閉ざしてしまって、結局何も分からないまま下手したら不仲になってしまう。
しばらく、多分五分くらい間を置いてから彼女があたしが話さないのを見て諦めたように口を開いた。
「賭け自体は上手く行ったわ。私の望むような形に少なくともなった。けれどすごく後悔しているの。……その、何て言うか、そんな風に思って欲しく無かったのよ」
そう言われても賭けの内容すら知らず、ちっとも分からず首を傾げた。
何がどうでそんな風だって言うんだろう。
あたしのその様子を彼女が上目づかいに見て、その顔が信じられない程色っぽくてどきりとした。
というか、言葉を濁す辺りそういう事なのかもしれない。
「それってぇ……つまり、やっちゃったって事?あのー……人、と」
これ以上粘っても何も聞き出せないだろうと、逆にこれだけ話させたならもう聞いても良いだろうと思いそう尋ねてみれば彼女は顔を赤くした。
個人名を出さなかったのはここが会社でいつ誰が来るか分からないという二人へ配慮をしたつもりだった。
「えー、マジで。ウケるね。でも、それで、どーして後悔してんの?」
思わず笑いながら手を三度叩いて言いそれからまた頬杖をついて尋ねれば彼女の顔の赤みが消えて重苦しい雰囲気を一人で勝手に纏う。
それからまたダンマリモードに入りそのままつまらない時間が流れて、仕方なく引き出しを開けて箱入りのクッキーを出した。
「話したくないってカンジ?それなら無理に聞かないけど」
はい、と封を開けプラスチックのトレーを箱からはみ出させてそれを差し出せば指を伸ばして一枚彼女が取ってから自分の方へと戻して同じように一枚掴み齧る。
「そういう訳じゃないんだけど。その、ほら、すごく愚かじゃない、私。だから美沙にそう思われるの、ちょっと嫌なのよ」
クッキーを取ったはいいけれど持て余しているように掌に乗せてから彼女が本当に言いづらそうに言い、その言葉に驚いた。
あたしと彼女は出来の悪い後輩と出来の良い先輩でしか無く、あたしから一方的に好意を抱いているだけだと思っていた。
職場の同僚としてではなく、人間的に好きなのは自分だけだと思っていたのにそうじゃなかったようだ。
「うーん。大丈夫じゃない?だって明子は人間だし、ロボットみたいに振舞ってるけど、そうじゃないってのは分かってるし。ちょっと人より……そうだな、頑固っていうか生真面目っていうか。優等生なだけでしょ?あたしはそうじゃない明子を知っても嫌いになったり見下したりしないよ」
別に慰めるわけじゃないけど、後悔している理由を知りたいというよりは彼女が思いつめているのなら話して少しでも軽くなってくれれば良いなと思ってそう彼女の頭の上を見つめながら言えば、言われた本人はまた俯いてしまった。
「っていうか、明子が愚かなら、あたしもっと愚かだし。人様に言えないような青春時代送ってるし、今だってお天道様に顔向け出来ないって分かってるし。ぜんっぜん、明子の方が立派だからたった一度の過ち?過ちってかそういうのでお天道様怒らないよ」
小さい頃におばあちゃんにお天道様に顔向け出来ない事はするなと言われたのに散々破ってきた事が脳裏に浮かんでそう言えば彼女は顔を上げくすくすと笑い始め、それから静かに泣き始めた。
困ったなぁと正直思って、また引き出しを開けてポケットティッシュを差し出せば彼女はそれを受け取った。
一枚取り出して涙を拭い、鼻を噛んでから顔を上げる。
「美沙がそこまで言うなら信じて話すわ。昨日、あの人の家に行って脅迫したのよ。辞表とあれで。どっちにしたってもう私とあの人が恋人関係になるのは無理だと思っていたから、抱いてくれってね」
憑き物が取れたように話始めた彼女のその言葉はまぁ大体予想していたからうんうんと頷きながら二枚目のクッキーを食べる。
「脅したのが効いたのね、ちゃんと抱いてくれたわ。あの人の性格を表すような抱き方で、すごく幸せだったの。だけど、ね、あの人はその最中ずっと苦しそうだったのよ。一度も気持ちよさそうな顔をしなかったの」
そう言われてごくりとまだ大して噛んでいないクッキーを飲みこんでしまった。
彼女の目にはまた涙が溜まり始めそれはあっという間に決壊した。
何も言えずにそれを見守る。
例え好かれていないと分かっていても、苦しそうな顔をされて抱かれるなんて女にしてみれば屈辱以外の何物でも無い。
「だから、後悔してるの。そんな事しなければ良かったって。魔が差したのね、きっと。辞める事だってあの人は許してくれなくて、これからどうしたら良いのか分からないわ。思いあがって馬鹿みたい。あの人の優しさが今は逆に辛いわ」
その話を聞いてうーんと唸ってしまった。
あの人こと佐久間礼、つまり社長が彼女を辞めさせない理由は分かる。
会社に必要だからだ。
あたしが同じ事をしたらどうぞお辞めくださいと言われるかもしれない。
でも彼女は違う。
ずっと社長が上手く仕事が出来るよう、彼の部下が彼に迷惑を掛けないように、会社を支えてきた。
そんな人、ロボットみたいに何でもこなす人が居なくなったら困るのはみんなだ。
この会社にいるみんなが困り果てて業務に支障が出てしまう。
だからこそ社長は彼女を抱いたんだろう。
しばらく考えてから口を開く。
とりあえずは落ち込んでいる彼女を慰めておかないといけない。
「あんまり気にしないでいたら?お互い大人なんだしさぁ。時間が解決してくれると思うよ。……だって、彼女は知らないんでしょ?それなら二人だけの秘密にしておけば良いじゃん。あたしは誰にも話さないし」
そう言えば彼女はそうかしらと呟いてからまた俯いた。
そうかしらっていうかそれしか出来ないじゃんと思うけど口には出さないでおく。
それから彼女に向かってまた口を開いた。
「謝ろうなんて思わない方が良いよ。絶対良い気はしないから。それなら……そうだな。あの二人が上手く行くように陰ながら祈ってさ、祝福してさ、困ったら手を差し伸べれば良いんじゃない?どうしても謝りたいってんなら止めないけど、それでもあの人には謝らない方が良いよ。だって、そんな事されたら、明子の事もっと嫌いになるかもしれないもん」
嫌いになるかもしれないという言葉に酷くショックを受けた様子の彼女はやや考えてから、そうね、と一言だけあたしに告げてから、微笑んで言う。
「話して良かったのかも知れないわ。少し時間が経ったら……彼女には酷い事も言ったから謝ってみようかと思う。仕事しましょ。それしか私達には出来ないんだから。散々サボったんだから、いい加減やる気出たでしょ?」
そう言われうえーっと口に出しながら良かったと安心する。
少しだけいつもの彼女が戻った事が嬉しくて、嫌々している風を装ってマウスを握った。
それから、そうだ、と思いついて口を開く。
「ねぇねぇ、先輩。あたしが誰か紹介しましょうか?新しい人好きになったら忘れるって!!あたし以外と大手企業に知り合い居るから良い人紹介出来るよっ」
そう言えば彼女は顔を上げて吹き出しそのまま二人で笑った。
笑いながら本当に良かったと思う。
実の所、佐久間礼と佐久間雛子がどういう関係かは知らない。
同じ名字だというだけで、最初に出会った時にあたしの名刺を見て彼は一瞬表情を曇らせ、それから戸籍上はね、と名前を名乗った。
そのタイミングで言うのだから彼らが知り合いというか親戚とかそういうの何だとは思う。
社長に昔兄妹が居るのか聞けば一人っ子だよと答えていたから家族では無いのだろう。
名字とかそういうタイミングとか抜きにしても二人はどことなく似ている。
性別も顔も違うのだけれど纏うそれは一緒だ。
だから、あたしは社長が好きだ。
男ではなく人間として、徹と居るような気分を味わえるし、安心する。
その社長が悲しむのは見たくないし、その火の粉が徹に振りかからないとは断言出来ない。
最初に石を投げ入れたのはあたしだけれど、こんな大事になるとは思っていなかった。
だからこそ何も表面上は変わらないように丸く収まって欲しかった。
徹に知れたら振られてしまうかもしれない。
そうなったらあたしは……きっと明子以上に後悔する。
同性を愛しているのはとてもじゃないけど周囲の人、明子にだって言えない。
どうしたって世間の目はどんなに寛容的になったと言えど厳しい。
そんな中で出会った徹をあたしは本当に心から愛しているのだから、彼に迷惑が掛かるような事には本当にしたくなかった。
だから丸く収まりそうで良かったとこっそり息を吐いた。