14-2 はやおきしたふたり
ふと目を覚ませばそこに小さな体は無く、居たはずの所まで冷たくなっていた。
慌てて起き上がり携帯を見ればもう五時になっていた。
いつもなら決まって三時に一度目を覚ましていたのに、と起き上がりサンダルを履こうとして小さなデッキシューズに目が行く。
それすら履かずに出ていってしまった彼女がもう居なくなっているんではないかと不安になりサンダルを履いてベッドから出て部屋を出ようとしてドアが薄く開いている事に気付く。
昨夜の事が隠し通せなかったのだと鼓動が速くなりそれを開けて廊下に出れば薄暗い中キッチンの扉の隙間から光が漏れていて安心した。
足音をわざと立ててそこに近づき扉を開ければエプロンを付けてガスコンロに向かっていた涼が振り向いた。
パジャマでは無く仕事着にパンプスとエプロンのギャップに驚きながら立ちすくめば彼女が笑みを浮かべてから頭を下げる。
「おはようございます」
菜箸を持ったまま頭を下げる彼女の目元は赤く腫れていて、泣いていたのだと分かる。
夢を見ていたのかそれとも事実に気付いたのか分からないけれど近寄り後から抱きしめた。
咄嗟にしたわけでなく行動の意思が分かるようにゆっくりとそうしたのに彼女の手から菜箸が転げ落ちて床で音を立てた。
「礼?」
小さく震える声で呼ばれて小さな頭の上で首を振る。
顎を乗せているのだからそれは確実に彼女に伝わるだろう。
「どうしたんですか?はんぺんが、焦げちゃいます」
ガスコンロに掛かっている小ぶりのフライパンには彼女が言うように四つ切りにされたはんぺんがじゅーじゅーと音を立てていた。
「いいよ、はんぺんくらい。焦げても食べるから。不安にさせてごめん」
どっちの事とも言わずそう告げれば彼女が間を置いてから首を振って俺の腕の中で上を向いた。
それから笑みを浮かべて口を開く。
「癌になっちゃいますよ、離してください。お風呂沸いてますから、入ってきたらいかがですか」
大丈夫ですとの答えでは無くそう言われ、どことなく距離を置かれたような気がして腕を離し、けれど、いつものように笑ってからそうするよ、とだけ答えてそこを後にした。
洗面所へ向かいパジャマを脱いでから風呂場へ行く。
携帯を忘れた事に気付いたけれどもう取りに行くのも面倒でそこに入った。
湯船に沈む前に風呂場にある大きな鏡で体の隅の隅までチェックした。
小さな痣を残されるようなミスはしていないはずだけれど、そうせずには居られなく、すべて見てから掛け湯をして湯船に沈んだ。
こうして洗い流してしまえば文字通り水に流せるような気がして、浴槽に寄りかかって目を閉じた。
礼が去った後菜箸を拾って水で洗ってからはんぺんをひっくり返せば本当に焦げていた。
反対側は炙るだけにしてお皿に取りため息を吐く。
こんなに早く起きてくるとは思っていなかったから、化粧なんてしていない。
それさえしていれば目が腫れている事も赤くなっている事も少しは誤魔化せたのに、間に合わなかったという後悔の念が押し寄せる。
その上あんな風にされたら申し訳なくなってしまう。
あの後散々泣いてから顔を上げ自分の中の変化に気付いた。
快感や満足感が消えたわけではない。
それはきっともっと心という所ではないもっと深い本能に近い所に明によって刷り込まれている。
だからそういう感情や歪んだ欲望が消えたわけじゃないのだけれど、私が居なくなった。
明という魅力的な悪魔に囚われていた私というわたしがそこに居なくなった。
すとんと瘡蓋が剥がれたように、捨てられるのは嫌だと思う私が居なくなっている。
いや、捨てられるのは怖いのは変わらない。
それはわたしも『私』も同じだから、だけれど、少なくとも明に捨てられるのが嫌だと思う私はもう居なかった。
そう思えば思うほど心の中で明を私が好きだったのだと思い自己嫌悪は強くなった。
それでも、私が居なくなれば、一区切りついたと思う。
明の首を絞めて彼を拒絶した事で私はわたしから巣立って行った。
炊飯器が米の炊きあがりを示しはっとしてからしゃもじを持って蓋を開けそれをかき混ぜた。
しっとりとつややかなそれに自然と顔が綻ぶ。
小皿の上にしゃもじを置いて蓋を閉めてからガスコンロへと戻り、用意してあった小鍋の火を点けた。
水とキャベツと油揚げがだんだんと踊り始め煮えた頃に一度火を止めてから味噌を溶きいれた。
また後で加熱をしようと冷蔵庫からたくあんを切っていれば洗面所から彼が戻ってきた。
すっかりスーツのパンツにワイシャツで手には新聞を持ち、まだすこし濡れた髪で冷蔵庫を開ける。
「あ、ごめんなさい。新聞取りに行かなくて」
慌てて手を止め頭を下げればいつも通り穏やかな笑みを向け首を振った。
ミネラルウォーターを片手に作業台の向こうを歩きながら彼がリビングへと向かう。
「ご飯出来るまで待ってるよ。新聞くらい自分で行くって。気にしすぎ」
声がそう届いて小鍋に火を点けて出来る限り弱火にしてから朝食の準備をした。
あまり時間を掛けずに作ったそれをテーブルに並べ、ご飯とみそ汁を二つずつ持って行き、いただきますを言い合ってから一度席を立ち、カーテンを開けた。
礼はずっと新聞を読んでいて、席を立った時も戻った時も何も言わなかった。
箸を持ちみそ汁から口を付ける。
変わらず器用に新聞を読みながら朝食を食べる彼がそのままわたしを見ないで口を開く。
「仕事休んでも構わないよ」
そう言われえ?と手を止めて顔を上げれば彼も顔を上げてこっちを見てから申し訳なさそうな表情を浮かべる。
それから箸を置いて自分の目元をそっと人差し指で撫でた。
「泣かせたのは俺の責任だから、休んでも構わないよ。そんなに腫れてたら人前に出るの嫌でしょう?」
その言葉に首を小さく振る。
確かに彼は起きなかったけれど、泣いているのはいつだって自分の夢のせいなのだから、彼のせいではない。
たくあんを箸でつまみながら口を開く。
「礼のせいじゃありません。ただ、ちょっと。でも仕事には行きます。そんな事で貴方に甘えたくないですし、今日はマリオ社長とのお約束もありますし、一緒に行かなくても貴方の留守を守るのだってわたしの仕事ですから」
そう言いながら家では仕事の話をしないという約束を破っているなとたくあんを口に入れる。
彼はその言葉に怒るという事はせずただ、そう、とだけ返してから箸を取り顔を下げた。
「あ、でも」
たくあんを飲みこんでからそう呼びかければまた顔が上がり、ん?と返事をくれる。
小皿に乗せた佃煮をご飯の上に乗せながら彼に告げる。
「遅刻はしていくつもりです。……遅刻?うーん。デパートで何かマリオ社長にお土産をと思っているんですけれど。お約束は十一時半に東京駅ですので、間に合うはずです。……って、仕事の話ばかりですみません」
流石に二度目は許して貰えないだろうと先に謝れば彼は笑って首を振った。
それからお椀を持ってから口を付ける。
「仕方ないでしょう。少しは構わないよ。特に朝はね、これから仕事に行くんだから。じゃあその件に関しては笹川君に任せるよ。ちゃんと領収書貰ってきてね」
そうわたしに優しく言ってくれて頭を軽く下げてからあとは二人とも何も話さずに朝食を終えた。
彼が家を出るのを見送ってから洗面所に丸まっていたシーツやらと彼のパジャマを洗濯機に入れる。
昨日着ていた服はもう乾燥まで終わっていたので、籠に入れてから和室へ向かった。
こんな風に午前中に洗濯物を畳むのは久しぶりだと少し丁寧にやり過ぎて時計を見れば時間が迫っていてそのまま和室に置いたまま自室へ戻り、いつもより丁寧に顔を造ってから家を出た。
いつもより遅い時間とあって陽気が暖かくなっていて早足で駅へと向かった。