13-25 わたしと兄と帰りの車
『もしもし』
聞きたかった涼のその一言を俺はリビングのテーブルで聞いた。
飲みかけのペットボトルだけがそこに置いてある。
あれからトイレを出て部屋に戻り服を着た。
その間中相変わらず気持ち悪く何度も手を止めては床にしゃがみこんだ。
その後、何も考えないようにしてシーツと枕カバー、布団カバーを変え、シーツには鞄に残っていたペットボトルのお茶を思いっきりぶちまけた。
後々突っ込まれた時に言い訳が出来るようにと、そうした。
それを洗面所に丸めて置いてから部屋の換気をし、軽く掃除機を掛け、新しいそれらを掛けてから窓を閉めた。
部屋を出てキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しリビングへと向かう頃にはすっかり気持ち悪さだけは消えていた。
代わりに生じたのはどん底まで落ちるほどの罪悪感。
蓋を開けたそれを半分くらい飲み込んでから携帯を取り出し見ればそこには着信もメールも来てない事が分かる。
どこに居るんだろうと表示された時刻を見て思う。
あれから三時間も経っている。
もう夜中と言える時間、二十三時を過ぎて居た。
もし彼女が他の男とそういう事をしていたとしても俺には責める事なんて出来ない。
そういう事をしていないと信じたいし、そう疑う自分も嫌で、しばらく画面を見つめてから電話を掛けた。
何もなかった風を装って掛ければワンコールもしない内に涼は出た。
ごめんね、と謝ったのに二つの意味がある事を彼女は知らない。
だから、いえいえ、大丈夫です。と彼女が言う。
『もう終わりました?それなら帰宅致しますが』
という言葉に小さく息を吐いた。
帰ってきて欲しい気持ちと帰ってきてほしくない気持ち、顔を見たい気持ちと見たくない気持ちが入り混じる。
「そうだね、帰っておいで。一人で帰ってこれそう?迎えに行こうか?」
佐久間礼では無く礼に戻らないといけないと、そう頭を切り替えていつものように聞けば彼女は大丈夫です、と明るい声で答える。
どこにいるの?とは怖くて聞けなかった。
よく考えれば、電話に出れない所に居たら、彼女が出るはずは無いのに、それすら、判断がつかなかった。
『そんなに遠い所じゃないので、多分……終電には間に合うと思います。もし途中までしかっ、あっ』
彼女の言葉は途中で途切れがさがさと音がする。
それから電話に出た人物に俺は心底驚いて目を見開いた。
『おう、礼か?今日は悪かったな』
その声をよく知っていて、けれど、彼女が彼と一緒に居る事が信じられなかった。
何も言えずに居れば彼はげらげらと笑いながら先を続ける。
その後で涼が祐樹さん、祐樹さんとその名を呼んでいた。
『俺が責任持ってそっちに送るからよ、心配すんな。車あるしな。笹川ちゃんが一人みたいだったから優しいお兄様が面倒みてやったぜ。貸し一つな』
その言葉にどうしてそうなったのかはよく分からなかったが心の底から安堵した。
それに目が潤んでつぅっと頬を伝う。
けれど悟られないようにと上を向いて口を開く。
「そうか。悪かったね。よろしく頼むよ。貸し一つって言うけどさ、今日の事があるんだからトントンだよ。明日は来るんだろ?」
『そうか、それもそうだな。明日はいつも通り行くよ。さすがにな、ちょっと気まずくてさ。会社サボったなんて初めてで、どうにも罪悪感が半端ねぇや。本当に悪かったな』
電話の向こうの涼の声が消えまたがさごそと音がして話す人物が変わる事を示していた。
『あの、そういう事なので、送って頂きます。先に寝て頂いて構いませんので』
二つの事に遠慮がちに言う涼の声に小さく息を漏らしてから待ってるよとだけ答えて電話を切った。
祐樹の家からなら一時間近くは掛かるだろう。
それくらいの猶予があれば充分だ。
俺が佐久間礼では無く涼に愛されている礼にきちんと不備なく戻るのにそれだけあれば事足りる、と電話を置いてテーブルに突っ伏してそのまま目を閉じた。
「じゃ、ちょっと行ってくるぜ。お前はお留守番な」
くしゃりと座っている由香里さんの頭を撫でてから薄着のまま玄関へ向かう祐樹さんに慌てて立ち上がり彼女にご飯の御礼をきちんとしてからコートと鞄を持って後を追った。
普段だったら一緒に行くと言い出しそうな彼女が言わない事に少し疑問を抱いたけれどそれを悩む暇を彼は与えてくれず閉まる玄関を開けて追いかける。
わたしが出て一度閉まったそれがまた開き、サンダルを履いた彼女が顔を出して手を振ってくれてそれに応えてから階段を下りる。
敷地内にある赤い軽自動車の助手席に乗り込めば彼はわたしを見てからエンジンを掛けた。
「んじゃ、行くぞ」
その言葉に頷いてからお願いしますと答えれば安全運転で車を出してくれた。
住宅街だけあって街灯が少なく暗い道を彼が運転する。
声を掛けられたのは彼の家を出て五分くらいしてからだった。
「さっき電話で礼にも言ったけどよ、悪かったな、今日」
そう前を向いたまま告げてきた彼の横顔を見てから首を振って口を開く。
色々ありすぎて忘れてしまっていたけれど、昨日、彼とわたしの関係性は変わったんだった。
「大丈夫です。わたしも……すみませんでした、黙っていて」
そう言えば彼はげらげらと笑ってから口を開く。
「そりゃ言えねぇだろうよ。礼との事よりお前の過去が知れてれば俺だって言わねぇや。……知らないとは言え何も出来なくて悪かったな」
最後はしんみりと言われそれにも首を振った。
わたしだって探そうとしなかったんだから、同じような物。
「大丈夫です。これから仲良くして貰えれば、あ、今までも良くして頂いてますけど、その……ずっと仲良くして貰えれば嬉しいです」
言いながら顔が赤くなってしまった。
まるで愛を告白しているようで俯いてしまう。
彼がちらりとこっちを見てからにやりと笑みを浮かべる。
「そりゃ平気だろ。あいつもお前の事気に入ってるしな。礼は俺の親友だし、お前さえ嫌じゃなけりゃってかお前が嫌がっても俺が嫌がってもあいつらがそうさせないだろ」
顔を上げ小さく頷くしかなかった。
確かにあの二人だけならそんなに仲良くないかも知れないけれどあの二人がわたし達に関わってくれば巻き込まれるように仲良くなるしかない。
そういう意味ではわたし達は恵まれている。
「そうですね。……でもちょっと気恥ずかしくないですか?祐樹さんって呼んでいいのかずっと本音を言えば悩んでます」
そう照れくさく小さく伝えれば彼は笑みを消し真顔になってからそうだなぁと同意し、車はちょうど信号で止まった。
それからこっちを見て口を開く。
その顔が見た事ないくらい穏やかで嬉しそうで思わず見入った。
「涼が呼びたいって思った時に呼べよ。それを茶化すような奴らじゃねぇし、どっちかって言えば喜ぶような奴らだろ。俺はいつでも構わねぇからよ。……さっき呼ばれて嫌な気はしなかったんだ。それより何て言うか……すげぇ嬉しかった」
涼と名前で呼ばれた事が初めてで、それ以上に嬉しかったと言われてそれがただ嬉しくて涙が浮かんで瞬く間に落ちた。
彼がそれを見て慌てた表情をしてきてそれに首を振る。
手の甲で涙をそっと拭ってから笑顔を浮かべる。
「ありがとう、お兄ちゃん。わたし、泣き虫なんです」
そう告げれば彼は真っ赤になってからぽんっと大きな手でわたしの頭を撫でてから前を向き、青になった瞬間に車を出した。
それから小さな声で呟くようにわたしに告げる。
「でも、仕事中は無しだぞ。面倒だからな、色々聞かれんのも。結婚式終わりゃそれも解禁になるだろうけどよ」
その言葉の意味はよく分からなかったけど、はい、と返事をして頷いてから前を向いた。
ずっと心の底で慕っていた兄がこうして隣に居て、彼はわたしの存在を忌むわけでなく受け入れてくれた事が本当に嬉しくてたまらなくて、笑顔はずっと消えなかった。
第十三話 わたしと兄 終