13-22 俺と安田と兄と妹
安田明子が居なくなるのは大誤算だ。
痛手も痛手、大怪我に近い。
待遇は悪くないはずだ。
ただの事務職にしては多すぎるくらい彼女と田中には出している。
休日もきちんとあり、残業は許して居ない。
となれば、単純に仕事がきついというだけの理由ではないだろう。
彼女は湯呑みを置き顔を上げまっすぐ俺を見た。
その目が少し潤んで見え、涼を彷彿とさせた。
「実は……最近知り合ったばかりの方に騙されていたのが分かりまして。それがショックで、もう、故郷に帰ろうかと思っています」
そこまで聞きプライベートの事かと尋ねようとした瞬間に玄関が開く音がし思わず立ち上がる。
ちょっと待ってるように告げて廊下を急げば涼が居て安田の鞄を見たまま固まっていた。
「ちょっと御客さんが来てるんだ」
挨拶を交わした後にそう耳元で囁けば彼女が目を見開いた。
それから誰かを告げ何も無いと言い訳をしいつも通り聞き分けの良い彼女に待っていて貰う為の軍資金を渡せば何も言わず出て行ってしまい、鍵を仕方なく掛けた。
リビングまで戻り彼女の向かいに座る。
「ごめんね、話を折って。……それで騙されてたってどういう事?差し支えなければ教えて貰える?」
そう告げれば俯いたまま彼女が口を開く。
淡々と説明をするように俺に告げた。
「最初はそんな方だとは思っていなかったんですが、出会ってすぐに印象と違っていたと思いました。それから気にしないように努めていたんですが、どうしても許せないと思うようになり、今日、二人だけでお会いして言ってしまったんです、目の前から居なくなって欲しいと」
そこまで言って彼女の目から涙がこぼれた。
冷血漢で鉄仮面のように見えていたその意外な姿に驚きティッシュを取って差し出す。
するとそれに首を振り彼女が続けた。
「そうしたら、自分は逃げも隠れもしない、けれど、貴方では何も出来ないと言われ……ショックでした、すごく。だから、もう、東京に居ても仕方がないと思って」
そこまで言われ、実の所よく言われている意味が分からないが、誰かと揉めた事だけはよく分かり、うーんと唸ってから口を開く。
「もしかして好きな人でも居て……その失恋しちゃったとか、そういう事?」
と尋ねれば彼女は小さく頷いた。
あまり部下のプライベートには関わらないようにしている。
その手の仕事は祐樹の方が圧倒的に得意だからだ。
けれど、彼女は違う。
祐樹とも俺とも日常的に関わらないフロアで仕事をしていた。
「そうかー……。何というかそういうプライベートに首を突っ込みたくないんだけど、ね。俺は君が必要だよ」
そう告げれば弾かれるように顔を上げ赤くなった。
その反応に初めて今までの話に疑問を抱く。
彼女が微笑んでから口を開いた。
「ありがとうございます。社長にそう言って頂けるだけですごく幸せです。……でしたら」
彼女の顔から笑みが消え、声が急に低くなった。
普段の彼女を思わせるそれと今の彼女の容姿とのギャップに眉を寄せその先を身構えた。
彼女はポケットから一枚の紙を取り出し四つ折りになっているそれを二人の間に置いた。
「私の事を抱いていただけませんでしょうか。そうじゃないと私と笹川さんは全くフェアじゃありませんよね?」
置かれたその紙に鼓動が速くなった。
どうしてこんな物を彼女が持っているんだろう。
その画像、写真を見たくなかった。
もう二度と見たくないと思っていたそれを彼女はいとも簡単に差し出し、それを使って、俺を脅迫している。
ごくりと喉を動かしてから顔を上げればそこには満面の笑みを浮かべる安田明子が居た。
由香里が嫌う細くて狭い暗い裏道を警官も真っ青なスピードで走り抜け、三十分後には礼の自宅側の大通りの端に寄せハザードを点ける。
一度降りて辺りを見回せば、閉店している住宅展示場の道に面した植え込みに小さくなって座っている笹川涼が居た。
「笹川っ!!」
そう声を掛ければ顔を上げてぴょんと降りて走り寄ってくる。
そのまま抱きつきそうな勢いの彼女は俺の目の前で立ち止まり顔を見上げてきた。
咄嗟に家を出てこうやって迎えに来てしまったが、ひどく気まずい。
俺は笹川を、彼女は俺を見つめたまま時が流れる。
こういう時はどうすれば場が和むのかよく知っている。
けれど、それはあくまで冗談でやるからそうなのだ。
俺たち以外に見るやつも居ないのにやる必要性が分からない。
「行くか」
結局やらずに普通にそう聞けばほっとしたように彼女は頷いた。
運転席に乗り込もうとすれば、彼女はどっちに乗れば良いのか分からないように佇み俺の方へ視線をやってきてそれがなんだか可愛くてにやっと笑いながら周囲の雑音にまぎれないように大声で言う。
「前、前っ!」
こくこくっと頷き彼女が乗り込み車を出す。
自分以外の他人が居るのなら来た時のような無茶はせず安全運転で帰路に着く。
彼女は信号待ちで俺をそっと見つめてきてあえて気付かない振りをした。
それから青に変わりアクセルを踏んで車が動き始めた瞬間にぽそっと小さな声で呟く。
「ありがとう、お兄ちゃん」
彼女が発したその言葉が意外にも心地よく、一日悩んでいたのが嘘のように心が晴れた。
本当は会うつもりも無く、明日だって話をしないでいようと思っていた。
いきなり現れた妹という存在を俺はまだ飲み込めても受け入れられても居ない。
それでも、一人にしておかなくてよかったと思う。
今まで散々控え目だった妹がこんな風に思い切った事を言うのだから、きっと何かあったんだろうと、けれど、彼女には何も告げずにただ運転し続けた。