13-21 わたしと兄と夜の街
マンションのロビーをコンシェルジュの不思議そうな顔に見送られ外に出ればやっぱりまだ寒くてぶるっと身震いした。
それからどこに行こうかと考える。
あまりここから離れたくないという気持ちと離れたいという気持ちが心の中で大喧嘩をする。
離れてなければ礼から連絡が来れば飛んで帰って来れる。
けれど出てくる彼女に鉢合わせする可能性だってある。
離れていれば礼から連絡が来たら迎えにきてくれる。
けれど彼に負担を掛ける事になってしまう。
帰ってくる他の住人の為一旦出入り口を離れてとりあえず駅まで歩いた。
歩いている最中にどこに入ろうか考えても、正直どこにも行きたくなかった。
物凄く我儘を言えば彼の側が良い。
安田さんが居ようが居まいが彼の側が良い。
話さなくちゃいけない事もあるし、聞いてほしい話もある。
それが出来ないというだけなのにストレスが胃を痛めた。
だけでは無い、心配だ。
彼女がどれだけ礼を好きなのかわたしは知らない。
立ち止まり出てきたばかりの少し遠くなってしまったマンションを振り返って見た。
だから、何も無ければ良い。
彼が心を痛めるような事にならなければそれで良い。
視線を落としぼんやりしていれば鞄の中の携帯が震えた。
びくっとしながらそれを慌てて取り出し、礼だと思ってよく見ないで出た。
「もしもしっ」
そう告げれば電話の向こうからは聞き覚えのある、安心できる声が耳に響いた。
「おう、笹川ちゃんか?」
由香里が夕飯を作っている姿を見ながら不意に妹と分かったばかりの笹川涼の声が聞きたくなった。
それは別に恋心とかではなく、純粋に知人・友人として、彼女と話がしたくなった。
俺の言葉に由香里が振り返って目を見開いていてそれに手を振ってしっしっとやって見せる。
電話の向こうでは沈黙が続きどうしたと声を掛けようとしてそういう子だったと思いだし辛抱強く待つ。
『……祐樹さん?』
その言葉に眉を寄せた。
まさかディスプレイを見ないで出たのだろうか、と彼女らしからぬ行動に驚きながら返事をする。
「おう、祐樹さん。もう仕事終わってんだろ?」
そう尋ねれば小さく、はい、とだけ返事が返ってくる。
それからお互い何も言わない時間だけが過ぎ、由香里が鍋を吹き溢し慌てて火を止める様子を見てにやにやと笑う。
沈黙を破ったのは笹川の方だった。
『あの』
小さく声を潜めたその言葉に、ん?と返事をすれば彼女は同じように声を潜めて言った。
『今日アタルさんが来ました』
その言葉に思わず目を見開いた。
その名前をよく知っている。
けれど、あいつが笹川に対して用事があるなんて思えない。
ちょっと近くに来たから顔を見に来たよ、なんて間柄じゃない。
どっちかてぇと、笹川にして見れば二度と会いたくない相手だろう。
何も返せない俺に彼女が続ける。
『あ、あの、大丈夫です。ただ御話をされにいらっしゃっただけですから。それより祐樹さん宛てに預かり物をしまして』
その言葉にますます意味が分からず言葉を失えば電話の向こうでクラクションや人の声が聞こえた。
それに疑問を抱く。
礼は彼女をいつも先に帰しているはずだ。
もう十九時をとっくに過ぎて居る。
「そうか。で、お前、今どこに居るんだ?家じゃねぇのかよ」
そう聞けば彼女は何も隠さずにすぐに返事を寄こす。
『あ、はい。今、駅の側です。礼に御客様がいらっしゃって、外に出ています。寒いですね、まだ』
ふふっと笑ってそう告げたそれがすごく気になった。
礼がそんな事をするのも信じられなくて一生懸命炒め物をする由香里を見る。
例え夜遅くに客人が来てもこいつを外にやってまで話したりしない。
『御話はそれだけです。預かり物は明日お持ちしますね』
笹川がまたそう告げてきて俺は遠くなっていた意識を彼女に戻す。
それからしばらく間を置いて提案した。
「礼の客なら長くなるかも知れねぇからな、こっち、来るか?」
その言葉は由香里も笹川も驚かせた。
言った俺は自分自身で一番驚いている。
けれど由香里は何だかよく分かっていないのに特上の笑顔を俺に向け、笹川は息を飲んだ後、鼻づまりの声で告げる。
『御言葉に甘えても良いですか。あまり一人で居たくなくって……』
その言葉に立ちあがり食器棚に掛かっている由香里の車の鍵を取った。
それから何も由香里に告げずに玄関へと向かう。
靴を履きドアを開けるその瞬間に告げる。
「駅前は行きづらいから大通りで待ってろ。すぐ行ってやっから」
そう言えば普段なら遠慮しそうな笹川は小さく、はい、と答えた。
チャイムが鳴り涼だと疑わずにドアを開けてその先に居た人物に目を丸くした。
会社でしか見なかった彼女が、正確に言えば会社とは違う姿で立っていた。
俺を見て彼女は深々と頭を下げる。
いつも纏めている髪を下していてそれが肩口から垂れた。
綺麗な髪だと思うがそれは何か不純な想いが詰まっているようで気分が悪い。
顔を上げた彼女もいつもより化粧が濃く、香水をつけているらしく甘い臭いがする。
それでも大事な社員の一人なのだからとポーカーフェイスを作りとりあえず玄関に招き入れた。
「どうしたの。驚いたよ」
そう正直に告げれば彼女はまた頭を下げてから俺に告げる。
「申し訳ありません。折り入って御話がありまして、こうして御尋ねいたしました。……下の入り口は他の住人の方に入れて頂きました」
その言葉と彼女の行動に只事じゃないと感じて一度頷いてから奥へと通す。
靴を脱ごうとする彼女にそのままで構わないと告げればなぜか鞄だけそこに置いて歩き出し、その後を追った。
テーブルに座らせキッチンへ一度行き緑茶を淹れて戻る。
珍しそうに部屋の中を嬉しそうに見回す彼女の前にそれを置いて、向かいの席に腰を下ろす。
「で、話って?何かあった?」
そう尋ねれば彼女の楽しそうな雰囲気は一変し俺の方を向いて俯いた。
それから自分のスーツのポケットから封筒を出して俺の前に置く。
それを見て息を飲む。
「明日一杯で辞めさせて頂きたくお願いに上がりました」
そう呟いた彼女に何も言えず、けれどそれを受領する事も承諾する事も出来なかった。
彼女が湯呑みを持ち緑茶を啜り終わってからようやく働き始めた頭を使って尋ねてみる。
「……どうして?この中には決まり文句しか書いてないでしょう?仕事が大変だから辞めたくなったなら、それなりに対策は練るけど、そういう事じゃないの?」