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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十三話 わたしと兄
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13-20 彼とわたしと満員電車

結局の所、嫌いな接待と祐樹不在と涼への客人は俺のやる気を思いっきり削いでくれ、全く進まない仕事に嫌気がさし、滅多にしない御持ち帰りをする事にして家路に着いた。

重くなってしまった鞄を一度床に置き、玄関を開けてみるも中は真っ暗だった。


「まだ帰ってないのか」


小さく呟き鞄を持って中に入り鍵を少しだけ悩んで閉めた。

廊下の明かりを点けとりあえず手の中のストレスの塊を遠ざけようと書斎のドアを開け乱暴に鞄を放り投げる。

正直帰宅したからと言って涼が居なければ同じ事だ。

一人でオフィスでやるのも一人で家でやるのも変わらない。

書斎のドアを閉めそのままリビングへ向かう。

明かりを点けテーブルへ座ってはぁっと一息吐く。


彼女があの男に誘拐された時に祐樹の友人という人が助けてくれたのだと言った。

俺はその友人を見て居ないのでどんな人なのかは想像の中でしか分からない。

その筋の人のようだったと言うその友人がただ貸したコートとマフラーだけを取りに来るとは思えない。

俺が言うのもおかしいがそんなものいくらだって買えるだろう。

涼に会いに来たのはそれなりの理由があるからだ。


「やっぱり一緒に行けば良かったなぁ」


過保護なのかも知れないが心配になる。

その友人が涼に話す内容なんてあの日の事以外にあり得ないからだ。

そう思えば思う程、眉を寄せてしまう。

祐樹の友人というそこだけを信頼して行かせてしまったが脅迫されたらと思う。

そうなればどうにかして俺に連絡を取って来てくれるとは思うのだが、それでも屈してしまうのでは無いかと心が重くなった。

しかし悩んでいた所で何も解決せず時間だけが無駄に過ぎていくだけで仕方なく立ち上がり自室に入りスーツを脱いだ。

ワイシャツも脱ぎアンダー代わりのTシャツも脱ぐ。

ぞわっと体中が冷たくなり急いでクローゼットから着替えを取り出す。

春めいてきた事もあり薄いグレーのロングTシャツにカーキのチノパンを着て部屋を出る。

彼女がいつ帰ってくるか分からないが夕飯が出来て居ないと、きっと、何も悪くないのに謝るだろうと思い、そのままキッチンへ向かった。

冷蔵庫を開け、何か作れるかと冷気を無駄に垂れ流しながら思案する。

きちんと整理され綺麗に物が収納されたそれらを見ながら小さく唸っていた時、チャイムが鳴った。






喫茶店を出て駅に向かい、混雑する電車を一本やり過ごしてから乗り込む。

明との事があったからだろうが、満員電車が本当は苦手だ。

男の人と必要以上に密着すると彼らが悪いわけではないのに男の臭いが移る気がする。

臭いだけ、それも体臭や生活臭なだけなのにそれだけでも自分が貶められていくような気がする。

男という生き物、いや、見知らぬ男に対して過剰反応なんだろう。

会社で満員のエレベーターに乗り合わせるのは別に平気だ。

彼らはみんなわたしを知っていてそういう事をしないと認識しているから。

だから乗り込んだ電車の比較的人が少ない優先席の前に立つ。

ここから自宅の最寄り駅までは乗り換えなしの三十分くらい。

実の所、電車で来るのも車で来るのも時間的には変わらない。

駅まで歩く時間だけ電車の方が二十分くらい多く掛かる。

これはわたしの身長が低く歩幅が他の人より狭いからそうなだけで、礼だったらもっと短くなるだろう。

吊革につかまり普段なら床に置き足の間に挟む鞄をしっかりと肩に掛けたまま車両に一番端を陣取った。

明日祐樹さんが来たらアタルさんからの謝礼を渡した方がいいのか、それとも理由を話して後日渡した方がいいのか、悩んでいればすぐに自宅の最寄り駅についた。

アナウンスを聞いていなくて顔を上げたどこにでもあるホーム、けれど少し他より馴染み深いそれの風景を窓越しに見て慌てて降り立った。


とりあえず祐樹さんに渡す分に関しては礼に相談しよう、と頷き駅から自宅までの道を歩く。

途中スーパーに寄り晩御飯の食材を買った。

体の片方だけに荷物を寄せると歩きづらいので鞄と反対側で持ってスーパーを出る。

家路を急ぐ多くの人の流れに乗ってそのまま歩けばマンションが見えてきた。


働き始めてから、この瞬間を思い出したのだが、一日のこの瞬間が一番疲れが出る。

仕事から帰って来たんだと実感し、今日もよく働いたなぁと実感するのが家が見えてきた時だ。

その日一日が充実していたと思えるこの瞬間がわたしは結構好きだ。


マンションのロビーを抜けコンシェルジュの御二人、川上さんともう一人の若い男性に頭を下げ、買ったばかりの袋から紙箱のクッキーを取り出す。

今日良い事があったから、おすそ分けです、と伝えながら渡してからエレベーターに乗り込む。

二人が感謝をしてくれてますます気分が良くなり、まだ、帰ってきていないだろう礼に今日は何を作ってあげようかと思案すれば最上階でドアが開く。

廊下を歩き家の前、小さく柵で囲ってあるその先のドアに立った時、あれ?と思った。

どうしてか分からないけれど人が居るような気がして、けれど、その可能性があるのはたった一人で、慌ててスーパーの袋を置き鍵を開けた。

ドアを開けてごめんなさいと言いながら入ろうとして体が止まった。


「……?」


玄関入って所謂上がり框のすぐそこに見慣れない鞄がひとつ置いてあった。

わたしのでも無く礼のでも無い、シンプルでそれでいて曲線を描いている形。

やわらかなフォルムはそれが女性物だという事を示していた。

持っていたスーパーの袋を床に置きながらぼんやりとそれを見ていると、礼が奥からやってきた。


「おかえり」


その顔に浮かぶのはポーカーフェイスの作り笑顔。

私服に着替えているのにまるでスーツを着ているよう。

顔を上げてちいさくただいま、と告げれば声を潜めるようにわたしの耳元に体を屈めて唇を寄せた。


「ちょっと御客さんが来てるんだ」


それだけ言って彼は顔を上げリビングの方を見る。

そうだろう、と、頷き同意すれば今度はそのまま声だけ潜めて言った。


「ほら、労務じゃなくて総務か、総務の安田が来ててね、相談があるって言うんだよ。……申し訳ないんだけど……」


安田という言葉に思わず目を見開けば彼は首を小さく振った。

それは何もないから、という意思表示で、そんな事は言われなくても分かってる。

女性に対してトラウマがある彼は、接待で風俗に行ったとしても何もしないで帰ってくるくらいだ。

でも、そんな事じゃないんだ、とは言えない。

彼女にわたしが脅迫されている事も、画像を所持している事も、この様子だとまだ何も聞いていないんだろう。

もしかしたら、本当に違う用件で来たのかもしれない。

どちらにしてもこんな不自然な場所にわざわざ鞄を置いた意味はひとつだ。

それだけでわたしを彼女は脅迫している。

入ってくるなと脅しているんだ。


「……分かり、ました」


素直に話そうか少しだけ迷って、けれど、出来ずにそう小さく頷いてスーパーの袋だけはそこに置いていこうとくるりと振り返れば彼がわたしの手を後から握り、二人の間にはかさりと固い感触。

そのまますぐに手が離れ、振り返らずにドアを出れば背後からすぐ鍵が掛かる音。

握られた手を開けばそこには一万円札が入っていた。

これでどこかで待っていてという事だろうとそれをそのままコートのポケットに入れる。

それから初めてドアを振り返り、胸が痛くなった。


何が起こるのか、どう彼女が動くのか。

それに対して礼がどうするのか、何をするのか。


小さく息を吐いてから歩き出す。

歩幅はもっと狭くなり、廊下のタイルは滲んで見えた。

それでもどこかに行かないとわたしが壊れてしまいそうでそのままエレベーターに乗り込む。

一階のボタンを押してからようやく涙を落とす事が出来た。


大丈夫、どうせ何も無いのだから大丈夫。

わたしのせいで礼が傷つく事は無いから大丈夫。

安田さんはそんなに愚かじゃないから大丈夫。


そう強く考えて一階に着く前に涙を拭った。

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