13-15 俺と彼女と安堵の瞬間
涼が淹れてくれた玄米茶を啜りながら息を吐く。
向かいに座る彼女は美味しい美味しいと言いながらお土産を食べている。
徳本氏のポリシーには反するかもしれないけれど、どうせなら喜んで食べて貰える人に食べて貰った方が良いだろうと思った。
食欲が無くなったのも事実だ。
やっぱり接待は嫌いだ。
物凄く気を使うし、それが二人きりとなれば二倍三倍に膨れ上がる。
「礼」
不意に呼ばれて顔を上げれば彼女は最後の一口を箸に乗せてにこにこ笑っていた。
会社だと言うのにあまりに自然に名前で呼ばれ、自然に口を開く。
あーん、という言葉と共に炊き込みご飯が入れられ、出汁と醤油が効いたそれを噛み砕いてから飲み込んだ。
彼女にしては珍しい。
最初にふざけてこっちから言いだしたとは言え、こんなことを、ましてや会社の中でするとは思わなかった。
食べ終わったそれを片付ける彼女をじっと見つめればふと視線を上げ首を傾げる。
彼女はいつも俺の予想の上を行く。
徳本氏へのメールもそう、業務内容を覚えて居た事もそう、記憶を遡ればいっぱい出てくる。
着物に遊園地にクリスマスに。
大体最初の出会いも火事の日もそうだった。
「何笑ってるんですか」
にやけていた俺に彼女が弁当箱を捨ててから戻ってき、立ったまま腰に手を当てて言われ首を振る。
その顔を見上げてから何でもないと告げれば不満げにそれでも何も言わなかった。
「笹川君」
目の前に居るのにそうきちんと声を掛ければ彼女は姿勢を正し手を前で組んだ。
秘書らしいその立ち振る舞いに安心しながらちょっと無茶ぶりをしてみる。
「悪いんだけど肩揉んでくれない?」
セクハラじみたその発言に眉を寄せた彼女はそれでもすぐにそれを解いて分かりましたと頷く。
俺に後に歩み寄り上着を脱げとまで言う。
これは本格的に何かおかしいと思いながら言われた通りに上着を脱ぎ傍らに置けば彼女の小さな手がワイシャツ越しに置かれた。
「うあ、かっちかち。緊張し過ぎですよ」
ぐいぐいと手全体で揉まれ頭を下げる。
彼女がそのままその手には大きすぎる俺の肩を内側から外側に順番に揉んでいきそのうちぐりぐりと肘を使ってくれる。
「あー、そこ、そこ気持ちいいかも」
滅多にされないその行為に思わず声が漏れれば、ここですか?とポイントを絞ってまた揉み始める。
意外に上手いなぁと感心し息を吐いた。
「……佐久間さん」
揉む手を休める事無く彼女が囁くように名前を呼んできて振りかえる事も出来ずただ顔を上げた。
彼女の手が一瞬だけ止まりそれからまた揉み始めるタイミングで顔が俺の耳に近づき彼女の毛が肩越しに前に垂れた。
ぼそっと呟くように早口で彼女がそれを告げる。
「生理きました」
一言恥ずかしそうに言い顔を上げるその顔を思わず振り返りつつ追ってしまった。
目を見開き彼女を見つめてから目をゆっくり細めて元に戻す。
泣き笑いに似た表情を浮かべ俺の肩から手を離した彼女が困ったように笑う。
「そう、それなら良かった」
他に何も言えず言えば小さく、はい、と返ってくる。
また彼女に一歩先に行かれた。
俺はあれ以来一言もそれに関して何も言っていない。
親しき仲にもでは無いがどんなに一緒に寝食を共にしていても口に出せない事はある。
ましてそれが彼女の中で触れられたくないと分かっている事なら尚更だ。
誰だってレイプされて生理来たかなんて恋人から聞かれたら傷つくだろう。
そうなったらそうなったで相談してくるだろうとどっしり構えていたつもりではあったが内心は冷や冷やしていた。
正直に言えば誰の子か分からない子供を愛せるほど器は大きくない。
人相応に嫉妬心はある。
子供を見る度、彼女が他の男に弄ばれた事を思い出し苦悶するだろう。
けれどそれは一切口に出せない。
誰にも言えずただ自分の中だけで消化しなければいけない。
これが誰かが特定出来て居ればまた話は違ってくる。
憎むべき相手は一人に絞られるし、そいつだけを憎めば良い。
けれど複数ならば憎めない。
かと言って堕ろしてくれとは言えない。
それは彼女自身が決める事であり、肉体的にも精神的にも負担が掛かる事を男である俺は決められないし要求出来ない。
彼女は困ったように笑った顔のまま俯き肩を震わせた。
立ち上がりソファを回ってそっと抱きしめればひっくひっくと嗚咽を上げる。
「次は俺の子だから心配しなくて良いよ」
そう耳元で囁けば彼女は小さく頷いて俺のワイシャツにしがみついた。
小さな体と壊れやすい繊細な心で一人不安を抱えたまま過ごした半月を思うと心が痛んだ。
「明子さんずいぶんランチゆっくりでしたねぇ」
ドアを開けるなりそう言われ無視して席に座る。
彼女は弁当を買ってきたらしくゴミ箱にはその残骸が残っていた。
「どうでした?笹川さんと行ったんでしょ?」
内線で電話をしている所をばっちり見て居た彼女がそうにやにやしながら聞いてきて腹が立ちうるさいと怒鳴ればあまり見せない姿にびっくりしたように押し黙った。
「何も無いわ、ただご飯を食べただけよ」
そう言いながら机の引き出しから便箋と封筒を出す。
飾り気のないただ白い紙に線が引いてあるだけのそれを表紙をめくって見つめひとつ息を吐いた。
これで良いのかと自問する。
ボールペンを取り一行空けてからそこにペン先を置く。
「ただご飯ねー……って、何書くんですか」
そう調子を戻した彼女が立ち上がり私の手元を覗きこむ。
何も書いていないそれを楽しそうに見つめるその顔を一瞬だけ見て決意を固め直した。
その質問には何も答えずペンを動かす。
退職願、と書けば彼女はえ?と声を詰まらせた。
次の行にペンを移しながら口を開く。
「本当は喧嘩を売ったの。彼女はそれに受けて立った。とんでもない嫌味と共にね。だから」
言いながらどんどんペンを走らせる。
この度一身上の都合により平成二十七年三月三日をもちまして退職したく、ここにお願い申し上げます
お決まりの文句を書き記し、今日の日付と会社名、所属部署、名前も入れてペンを離す。
彼女は身を乗り出したままそれを黙って見つめ何も言わなかった。
「だから、最後に賭けをしてくるわ。これはそれのチップ代わりね。まぁ勝っても負けても、ここにはもう居られないと思うけれど」
白い封筒にも同じように退職願と書き記し四つ折りにしたそれを入れる。
中身の日付は明日だ。
つまり勝負は今日だと言う事になる。
「えー、明子居なくなったら困る。一人じゃさみしいじゃん」
と、ぼやきながら椅子に座る彼女にただ笑い掛け、最後になるいつもの仕事に取り掛かった。