13-13 わたしとささくれ
涼ちゃんからのメールを受け取ったのは母子健康手帳、所謂母子手帳を市役所まで貰いに来てた時だった。
役所っていうのはどうしてこう待たされるのだろうと密かに憤慨しつつ座っていた時だった。
ゲームをしていたそれが唸り、中断してメールを開けばそこには驚愕の事実。
「えぇぇっ!!」
思わず声を上げ周囲の視線を受けて慌てて頭を下げ座り直す。
祐樹が会社に行っていないのは知っていた。
朝家を出る時も彼はベッドで目を開けたままぼーっとしていた。
こと彼に関してはそれは物凄く珍しい事だ。
つい最近まで知らなかったけれどやんちゃをしていた名残はある。
口調にしろ短気な所にしろ、なんかあるだろうと予想はついていた。
けれど仕事に関して言えば佐久間礼に恩があるらしく真面目の一言に尽きるほど毎日きちんきちんと出社している。
自分のスケジュールは自分で管理しているようでたまに午後から出ていく時もあるが基本的には始業に間に合うように出ていく。
その彼が今朝はベッドから出てこず、始業を過ぎても動かなかった。
一応声は掛けたが昨日の今日で何か思う事もあるのだろう、それでも午後になれば出社するだろうと高をくくって当初の予定通り母子手帳を貰いにきた。
幸いにして私はつわりという物がまだ無い。
妊娠に関しても生理が遅れているというただそれだけの理由で受診しただけだ。
けれど間もなく始まるかもしれないそれの前に出来る事はしておきたかった。
「祐樹何やってんのよ」
一人呟きこの場で電話をするわけにも行かず彼にメールをするに止まり、母子手帳を無事ゲットしてから足早にそこを出る。
まだ膨らみもしていない体な事もあり身軽だ。
市役所を出て速攻電話をすれば掛けてきたのが私だからなのか彼はだいぶコール音を聞いてから出たようだ。
『おう、どうした』
その呑気な第一声に感情が大爆発する。
「どうしたじゃないわよ!!!!あんた何してんのっ!!」
大爆発したそれは怒鳴り声となって現れ道行く人々の視線を感じて歩き始める。
しばらく間を置いてから彼が口を開いた。
『何って言われてもな、サボってるとしか言えん』
潔すぎる言葉に、言葉を失う。
いやそーじゃねぇだろうと彼の言葉を真似して思う。
「サボってるって、あんたねぇ、何してんのよ、ほんとに」
呆れ果てため息混じりに言えば彼は今から行ってもしょうがないとまで言い訳してくる。
そうじゃないの、そうじゃない。
彼が会社に行かなければ困る人が居るんだ。
大勢の部下だってそうだし、何より一番心を痛めるのはあの小さな子だ。
「こんな事したらどう思うか分かってんでしょ」
誰がとは言わずそう呟けば布が擦れる音。
それから妙に曇った声を潜めて言う。
何かから逃れるように布団にでも潜ったのだろう。
『わぁってるよ、んなこた言われなくても。明日は行く。けど、今日はまだ無理だ。俺だって気持ちの整理ってのが全然ついてねぇ。どんな顔して会えばいいか分かんねぇよ』
彼の気持ちも分かる。
生まれてから一度も会った事の無い、それこそ存在すら知らなかった肉親の存在を初めてそれも何の前触れも無く知ったんだから。
昨日は久しぶりに母親と会話した事も有り、喜びの感情しか無かったが、朝目が覚めれば冷静になったんだろう。
しかも、あの涼ちゃんだ。
普通の幸せに生きてきた女の子とは違う。
「明日行くんならそうやってちゃんと連絡しなさいよ、彼女、私に連絡してきたんだから」
私にという部分を強めて言えば彼は一度唸ってから分かったと言い電話を切った。
電話を掛ける前に戻った画面を閉じメールを開く。
それから思い直して涼ちゃんに電話を掛けるも彼女が出る事は無かった。
仕事を始めたという事は祐樹から聞いていたのでメールをやっぱり打つ事にし、送り終わってから、ふと思う。
普段ならばまだしも今日は祐樹が休んでいるのに彼女が電話に出ない事なんてあるだろうか、と。
私に連絡した以上心待ちにしてそれこそ電話をじっと見つめていそうなのに。
けれど、まぁ、忙しいのね、と納得させ携帯を鞄にしまい家路を急ぐ。
ちょうど昼を過ぎた頃合い、家にはお腹を空かせた祐樹が居る。
何か簡単に手早く作れる物を与えてやらないと、私がへそくりで買った高級チョコレートを見つけられてしまうかも知れない。
チョコレートなら何でも良いと豪語する彼にはあれはもったいないのだから。
お店を出て会社に戻る最中に由香里さんからのメールを確認した。
今日は休む事、明日は出社する事が書かれていてとりあえず一安心。
その場で礼にメールをひとつする。
余計な事は何も書かない事務的なそれは笹川君として送ったものだ。
携帯をしまい歩き始める。
踏まれた足はもうそんなに痛くない。
彼女がつま先で踏んだのは位置的にそうだったとしても不幸中の幸いだ。
ヒールの踵なら親指くらいは折れていたかもしれない。
社に戻りとりあえずみんなが居るフロアに顔を出し戻った事を伝える。
「何かありましたか?」
留守中にという事ではなくあれからという意味で聞けばみんなが首を振った。
わたしが頼りないのかそれとも遠慮しているのか、もしくは本当に何も無いのかまでは分からないがそう言うならそれで良いと思い、上に行くと伝えて階段を上る。
上ればやっぱりつま先が痛くて小さく呻いた。
社長室の鍵を開け中に入りコートを脱ぐ。
衝立の中のポールハンガーにそれを掛けバッグの中身をすべて出した。
それらバッグを含めて全部元に戻し椅子に座って初めて涙が出た。
いつか誰かに言われると思っては居た。
けれどやっぱり面と向かって言われると辛い。
心にずっしりと来るものがある。
狂ってる。
相応しく無い。
金で買った。
体目的で側に置いている。
安田さんの口から出たのはごくごく一般論だ。
誰だって画像を見ればそう思うだろう。
むしろ祐樹さんや由香里さんや沙織、有希、彩音のように受け入れてくれる方が珍しい。
万が一受け入れてくれるとしたって好奇の目で見られる事には変わりない。
ボロボロと涙を流しながら目を閉じる。
もうすぐ礼が帰ってくるかもしれない。
彼の前では笑っていないと駄目だ。
まだ何もされていない。
ほんの少し心を傷つけられただけだ。
そんなものわたしにとってしてみれば擦り傷より小さい。
手の指の爪のまわりに出来る小さなささくれみたいな物なのだから、まだ、大丈夫。
だから笑っていつものようにおかえりなさいを言わないと駄目なんだ。
わたしがいつもと違っていたらそれだけで彼は心配し邪推する。
そうしたらきっと誰かがわたしに要らん事を言ったと気付くだろう。
だから、笑わないと駄目なんだ。
彼をわたしの事で傷つけないようにしないといけないんだから。
そう自分に一生懸命に言い聞かせて、それでも両手で顔を覆って一人静かに泣いた。
今泣いておいて彼の前で泣かないようにするためだけに、そうやって泣いた。