13-11 わたしと彼女とランチ
十分後にロビーでと告げ電話が切れ受話器を置いてからその場にしゃがみこむ。
もう既に泣きそうだ。
目が潤んでいるし呼吸だって荒い。
この場に礼が居れば、居てくれたら良かったのにと奥底から思う。
礼じゃなくそれが祐樹さんでも良かった。
兄と告げて居なかったとしても誰かわたしの過去を知っている人が側に居てくれれば、相談出来たのに、誰も居ない。
零れ落ちそうな涙を手の甲で拭い立ち上がる。
悩むほど時間を彼女は与えてくれなかった。
とにかく行かないといけない。
行かなければ事態は最悪な方に進む。
唇を噛み締め衝立の向こうに入る。
鞄からパウダーを出し化粧を立ったまま直し机の隣のカラーボックスの一番下の段に入れてある外出用の小さな黒いバッグを出す。
エナメルのバッグより一回り大きいそれは勤務中に外出する時に最低限の物が入る大きさだ。
その中に手帳と財布、携帯とパウダーを入れファスナーを閉めて手に持った。
それから鞄の内ポケットから鍵を取り出しドアを抜けて鍵をきちんと掛けた。
昼間と言えど無人になる社長室のドアを開けっぱなしには出来ない。
エレベーターを呼びそのまま考える。
安田明子という人は恐ろしく有能だ。
労務とは名ばかりで本人が言っていたように総務としての仕事を一人で完璧にこなしているのをこの半月という短い時間で痛感した。
しかも残業をせずにすべてを彼女自身の予測と見解から一歩進んだ所から仕事の優先順位を振り分けて、勤務時間内にこなしている。
同時進行している仕事はひとつふたつではないだろう。
そんな人だからこそ今朝のような緊急事態には呼ばれていたはずだ。
七年もやっていれば多かれ少なかれそう言う事態に陥る時は必ずある。
そんな時に礼は彼女を呼んでいたのだろう。
けれど、今朝は彼が本当に混乱し
て焦っていたのかどうなのか、声を掛けなかった。
代わりに居合わせたのはわたしだった。
彼女の神経を逆撫でたのはそれだったのかも知れない。
聡明な彼女がわざわざ危険を冒してまで会社のトップ付きの秘書にあんな画像を二度も見せる理由はひとつだ。
彼女はわたしに嫉妬している。
それは会社での立場を侵害されたというのだけでは弱い。
それだけで自分の立場を棒にし、万が一解雇になる危険を冒すとは思えない。
考えながらエレベーターに乗り一階に着くその瞬間に気付いて顔を上げた。
開くドアの先に待ち構えていたようにスーツにカーディガンを羽織り眼鏡を掛け黒髪をいつものように後でひとつに纏めた彼女が居た。
わたしを見つけ口元をすこし歪ませる。
彼女は佐久間礼に対して好意を抱いている。
だからこそ汚いわたしが側に居るのが許せないんだ。
わたしの過去をどれくらい知っているか分からないけれど、たった一枚の画像でも彼女の聡明さを崩すだけの力を持っていたんだ。
エレベーターから降りて頭を下げる。
それから顔を上げて口を開く。
礼の真似をしてポーカーフェイスで笑ってみせながら。
「申し訳ありません、お待たせいたしました」
わたしの言葉に彼女は構いませんと静かに告げ歩き始めその後を追った。
ロビーを抜け外に出ればだいぶ春めいてきた陽気がわたしを迎える。
彼女は一度も振りかえらず駅の方へ向かい小さな洋食屋に入った。
彼女が選んだ店の奥の壁側の席に案内されわたしが奥に座らされる。
会社から離れたここを選んだ理由は分かる。
社外に一歩出れば彼女と違いわたしは株式会社佐久間商事の社長秘書という肩書の元、行動しなければならない。
つまり公衆の面前で大声で怒鳴ったり泣いたり出来ないんだ。
いつどこで誰がわたしを見ているか分からない以上、慎重に気を使い行動しないといけない。
わたしの失態はわたしのではない、佐久間礼の失態となる。
「何にしますか?」
とても食事を楽しむ気分ではないが彼女に差し出されたメニューを見てオムライスにした。
彼女が纏めて注文をし狭いテーブルを挟んでそのまま二人で様子を窺い合う。
結局料理が運ばれてくるまでどちらも目を合わせたまま一言も発しない。
料理が来れば彼女は黙々と食べ始め、わたしはきちんと小さくいただきますを呟いて食べた。
食器が下げられお冷のおかわりが注がれまた沈黙した中彼女が口を開く。
「ご結婚されるのは本当ですか?」
そう言う彼女の顔はただにこやかに笑っていてその言葉の真意を読み取れずただ頷いた。
わたしが頷くのを見て彼女の顔からは笑顔が消える。
蔑むように細い目をもっと細くしてこちらを見下す。
「へぇ。あれは笹川さんですよね?あんなに綺麗に映っていたら見間違えないと思いますが」
今度は完全に悪意を感じた。
あれは笹川涼かと聞きながら答えを求めていない質問に覚悟していたとは言え体も顔も強張る。
そうだ、と肯定した方が良いのか、違う、と否定した方が良いのか分からず首をどちらに振る事も出来なかった。
「社長はご存知なんですか?」
何もリアクションを起こさないわたしに彼女はまた口を開き今度は悪意の中にほんの少しだけ縋るような思いを重ねてくる。
それに対してどちらの答えを求めているのか判断しかねただ眉を寄せた。
彼女がそれを見てどう取ったのかは分からないが矢継ぎ早に次の質問が来る。
「社長はいくらで貴方を買ったの?」
その質問を聞いて体中の血が沸騰しているのかと思った。
顔が赤くなったのは羞恥心じゃない、怒りだ。
彼女を敵意を持って目を細め睨みつける。
口を開いたら罵倒してしまいそうだ。
わたしの様子に気付いているはずなのに彼女はそれをいとも簡単に受け流してまた口を開いた。
「さぞ貴方の体が良いのでしょうね。だから貴方を社長は側に置いているんだわ。私にも是非そのテクニックを教えて下さらない?」
小馬鹿にしたようなその言い方に口を開こうとしたその瞬間、わたしを思い留めたのはバッグから低く聞こえる唸る音だった。
わたしの携帯が鳴っているというそれだけで出かかっていた言葉も怒りも消えうせる。
由香里さんだ、とすぐに予想がつくが出る事はしなかった。
彼女もまたその音に気付いたらしくテーブルに隠れたわたしの膝もとを睨むように見つめた。
邪魔をするなと言うように。
「出ないんですか」
そう一言唸り続ける音をかき消すように言われ首を静かに横に振った。
彼女はそうですかと一言呟きまたわたしを睨んだ。
それから口元だけ歪ませてはっきりとわたしに言う。
「社長は貴方の体目当てなのにお金持ちの奥さまにまで成り上がるなんて、さすがですね。ご結婚おめでとうございます」