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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十三話 わたしと兄
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13-8 俺と社長と懐石料理

料亭の上がり框は広くひんやりとしている。

引き戸を開け中に入ればそこがあり、上がった上では藤色の江戸小紋を着た中年の女性がきちんと三つ指を付き頭を下げていた。


「ようこそお越しくださいました、佐久間様」


しとやかな落ち着いたヴォリウムを抑えた声で言われ、彼女が顔を上げるのを待つ。

過去に数回だけ利用しただけなのに覚えているのは流石と言った所だろう。


「ご無沙汰してます。御変りないですか」


そう尋ねれば笑顔を作り、はい、と頷く。

それを見てから靴を脱ぎそのまま上がれば彼女も立ち上がりご案内いたしますとの声。

靴を下足箱にしまう必要はない。

後から係がやってきて、玄関先から隠すように専用の靴箱へとしまってくれる。

案内されるがまま廊下をスリッパを履かずに歩く。

この料亭では無粋な物など用意されておらず、けれど床板にはきちんと赤い薄い布が敷かれていて足元が冷えるなどと言う事はない。

古い床板は歩く度、成人男性の重みに小さく悲鳴を上げる。

玄関先を抜け角を曲がれば北側に位置する廊下に出る。

高い位置にある窓から薄っすらと光が入り、明るさを補うように天井からは小さなランプがガラス細工のシェードを纏って吊るされている。


「もう来られてますか」


そう前を歩く彼女に尋ねれば一度足を止めてから振り返り頭を下げるように頷く。

気が早いなと思いながら息を漏らせば彼女が少し笑う。

まだ約束まで十五分はあるだろう。

また歩き出すその背を追う。

廊下の左側には襖が連なりそれらすべてが余計な装飾などされず白くきっちりとしていた。


「こちらです」


やがて彼女が立ち止まったのは一番奥の部屋で、廊下は続かず壁がある。

その壁には竹を斜めに切った花器に桃が一枝生けられ、掛かっていた。

桃なんて飾る季節なのかと春一番を受けたせいか妙に納得しそれから視線を左側の襖へと移す。


「佐久間様がお見えになりました」


彼女は床板の上で正座をし頭を下げてそう中へと告げる。

中からは見えていないのにそうするのは老舗だからこそだ。


「おお、入って貰ってくれ」


低いけれど明るい声が中から響く。

それは間違いなく徳本氏の声で一度目を閉じてから嫌だと思う気持ちをどこか遠くへやる。

彼女が右手を上げ左手で袂を押さえそっと襖を開ける。

開いたそこから中に入れば六畳の畳みの上にシンプルな幅の広い焦げ茶色の座卓の向こうに彼が座っていた。


「お待たせしました。本日はお招き頂きありがとうございます」


入ったそこで立ち止まり頭を下げればいやいやと手を振ってから手招きをする。

その仕草に素直に従い歩を進め座布団が置かれた席へと座る。

もちろん正座で。


「堅苦しい挨拶なんていらん、いらん。久しぶりだなぁ」


あっはっはと笑みを浮かべる顔は本当に楽しそうだ。

釣られるように穏やかに笑みを浮かべて挨拶を返す。


「ご無沙汰しております。本年もよろしくお願い致します」


軽く頭を下げて言えば、相変わらず固いなぁと笑う。

だいぶ年が明けて時間が経っているが、年明け以降会っていなかったので改めて挨拶をしただけだ。

徳本氏の会社には昨年から食品を卸している。

彼の会社から出る冷凍食品のシリーズで初のイタリアンを出す事になりその際必要となったトマト缶やチーズなどをうちが担当している。


「君んとこのあれ、本当に、美味いなっ。御蔭で業績が上がりそうだよ」


うんうんと腕組みをする彼は穏やかに言い俺は頭をまた下げた。

失礼しますとの声が掛かり彼が返事をすれば先ほどの女性、この料亭の女将を筆頭に二人の仲居がお盆を持って入ってきた。


「お食事を始めさせていただきます」


そう告げれば後に控えていた彼女らがいくつかの皿を俺と徳本氏の前に並べていく。

懐石料理の店としては少し変わった趣向に目を細めてしまえば徳本氏が言う。


「こう見えても忙しい身でね、我儘を言ってこうして貰ってるんだよ。佐久間君も忙しいだろうから、そうしたんだが、嫌かね」


置かれていく料理を見ながら彼が茶碗蒸しの蓋を開けた。

それに首を振りながら同じように開く。

確かにランチタイムにのんびりと一品一品運ばれていたらかなわない。


「いえ、社長らしいと思います。こちらの方が私としても有難い限りです」


茶碗蒸しに木の小さなスプーンを入れればじゅわっと出汁が柔らかく固まった卵液の下から染み出る。

ごくごく普通の具材だがやはり味が違う。


「あぁ、順番なんて気にしないで構わんよ。好きな物から食べなさい。私はねこと食に関して言えばマナーやルールなんてものはね、気心知れてない間柄だけ必要な物だと思ってるんだ」


その言葉に頭を下げた。

つまり彼はもう俺を信頼しているから好きにして良いと言っている。

それでは、と茶碗蒸しを食べ終われば次に刺身に箸を伸ばす。

本来なら前菜である三つに区切られた皿に少しずつ盛られたそれに行かなければいけないが、刺身の艶加減がどうにも美味しそうだった。

鯛をメインに細魚、飛び魚、蛍烏賊と旬の物が並んでる。

蛍烏賊だけは小さな小鉢に入り酢味噌が添えられていた。


「あぁ、確かに刺身は美味そうだ。君も飲むだろう」


仲居二人と下がった女将が自ら小さな丸盆に御銚子二本と御猪口二つを持って現れ、二人の間、座卓の短い方へと座る。


「喜んで頂きます」


そう嫌な気持ちを抑え告げれば女将が二人に御酌をしてから頭を下げて出ていく。

ぐいっと一気に飲み干した彼に倣い同じように空にし、御猪口を置いて御銚子に手を伸ばそうとすればそれは彼の手で制された。


「いやいや、結構。私もしないから、君もしなくていいぞ。佐久間礼が接待嫌いなのは分かるからなぁ」


くっくっくっと笑う彼に困惑した表情を浮かべれば彼は気にせず笑いながら手酌する。

それにまたも倣い御猪口に透明なすこし熱い日本酒を注ぐ。


「そんな顔をせんでも。人間誰しも苦手な物はある。私だって接待は好まんよ」


くつくつ笑いながら御猪口を傾ける。

ばれないように装ってきたつもりが呆気なく知られたと知りポーカーフェイスが崩れ眉を寄せた。

御銚子を天板に戻し御猪口を手に取る。


「それでもこうやって誘えば出て来てくれる君が私は好きだよ。いや、変な意味じゃぁ無くてな」


はぁ、と小さく返事をすれば彼がまた杯を空けそれから箸を取り前菜をつまみ始めた。

さっきまで美味しかった料理が急にどうでもよく見える。

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