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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十三話 わたしと兄
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13-7 春一番とわたしと彼女

「あー、腹減ったなぁ」


酒井の車で移動している俺が後部座席で小さく漏らせば彼は運転しながらバックミラーで俺を見た。

ぼんやりと今日は朝飯も食べてないから当然かと考えれば不意に見られている事に気付き困ったように笑ってやれば彼は咳払いを一度してから口を開く。


「お会いになるまえに何か軽く召し上がりますか」


その言葉に首を振って返す。

そんなに時間に余裕があるわけじゃない。

午前中の内に伝えるはずだった予定を伝えたのはオフィスを出てからで会社で契約している駐車場から彼が来るのにいつもより少し時間が掛かった。


「ではあまり最初にお酒を召されないようお気を付けくださいませ」


それは注意でも戒めでもなくお願いだった。

父のように慕ってきた彼に言われたらそれに反抗する事など出来ない。


「ああ、わかった。気をつけるよ」


見慣れぬ風景の中車が停まり彼がドアを開く。

政治家や著名人が通うというこの町は料亭が多い。

その数ある料亭の中の老舗のひとつを徳本社長は指定してきた。

俺が降りドアを閉めた酒井が頭を下げる。


「いってらっしゃいませ」


彼がこの後どうするのか興味がわかない訳ではない。

きっとどこかの駐車場に停めまずは愛妻弁当を食べるのだろう。

それからどうするんだろう。

そう思いながら立派な門構えのそこへ足を踏み入れた。

小さいが立派なそれでいてあの屋敷のそれを思い出させるような日本庭園を見ればぶわっと生温かい突風が吹きコートを揺らした。

春一番だと吹き抜けた先を見上げる。

昔は不吉な事の象徴のように言われ漁師に嫌われたそれがなんとなく分かる。

胸の奥、心の中が、必要以上に駆り立てられ不安感が過る。

けれど見上げた視線の先の空はそんな事を思わせないような青空だった。






礼が居なくなった彼のオフィスでミニノートを自分の机で開く。

電源を入れ立ち上がるのを待ってから使いづらいタッチパッドに指先を置いた。

とりあえず社内サイトでは無く一般的に使われているメーラーを開き受信を開始する。

今のところ礼とわたしに来るメール、つまり、業務上読まなければならないそれは七対三くらいの割合で彼に来る。

秘書を置いていなかった彼には他の企業の秘書や重役からそれが届き、彼がわたしを紹介した人に限ってはきちんとわたしを通す形で送ってくる。

そのための名刺交換なのだからそれは当然なのだろう。

届いたメールひとつひとつ目を通し必要なら返事を返す。

全部に返事を返さなくても構わないと教えてくれたのは彼だった。

そんな事をしていたらそのうち日が暮れるから必要な物だけで良いのだと。

先方もそれを承知だし、こちらからメールをしてもそうされる場合も多いと。

その必要か不要かの判断はなかなか難しい。

彼に見せる必要があるものと無いもの。

必要な物はそのまま彼に転送する。

不要でかつ返事が要る物はすぐに返事をしてメモに内容を書き記す。


「おわったー」


声に出してそう言い固まった体を動かしたのは始めてから三十分経っていた。

瞬きすらあまりしていなかった目はかぴかぴに乾いている。

何度か目を閉じる時間を長くとった瞬きを繰り返してからタッチパッドに指をまた乗せた。

今度は社内サイトだ。

こっちはますます返信しなくていいメールやら書類やらがたくさんあるが目を通さない訳にはいかない。

社外から来るそれと違うのは、わたしと礼、二人に同時に送ってくれる事だ。

彼と話がすれ違わないように確認し本当に必要な事だけ返事をする。


いくつかそれを開いて確認しながら見ていけばピンポンと開いたメールの画面の下にポップアップが表示される。

それを受けひとつ前の画面に戻ればメールが並ぶリストの一番上だけ文字が太くなっていた。


「安田さん?」


件名も無く差出人のみのそれは安田明子と書かれていた。

ううーんと呻いて指が止まる。

あれから何もない。

もっと酷い事になるかも知れないと覚悟していたのに何もなかった。

まるで最初から何もなかったように、何もなかった。

だからこそこういう風に何も表示されないメールは恐怖だ。

身構えたまま動かない指に一度大きく息を吐いてから吸った。

それにきちんとポインタを合わせてから指先で軽くタッチパッドをつつく。

画面が切り替わり一度真っ白になってから上から徐々に映し出された。

グレーの背景に黒い文字。

わたしの名前とアドレス、その下に安田明子とアドレス、件名の部分は灰色のまま。

その下、枠で区切られた本文が表示される部分が区切られた絵画を貼り付けていくように一区切り一区切り順番に表示される。

ファイルが重すぎてミニノートの性能が追いついていないんだ。

カウントダウンをしているように形を作っていくそれの全貌を見る必要はなかった。

映し出されていく画像に映る頭と顔でそれが何か分かる。

苦悶に満ちているという表現が相応しい表情。

小さな画面では分からないがもっと大きければ涙が映っているかもしれない。

この時泣いていたかどうかは正直よく覚えていない。

あの時ほどではないけれど体に刻まれた痣が白い肌によく映えている。

細い腰に巻きつく腕は誰だっただろうか。

明の友達の中の一人のはずだ。

彼が持っているのと似たアクセサリーが指にはまっている。

その男との結合部分ははっきりと映っている。

小さな白い華奢な体を貫くそれは男が焼けた肌をしている事もあり、野獣に襲われているようだ。

太ももから下は見えない。

この男と明以外居なかったのかどうか分からない。


でもこれは、私、だ。


「……ふぅ」


ため息を漏らしてその画面を前の画面に戻した。

昨日までのわたしなら動揺しすぐに蓋を閉じてミニノートそのものが汚物のように感じていただろう。

たった半日程度ですぐに変わったわけではないけれど、礼に返事をした事や大きな仕事をやり遂げた今は少しだけ強くなっているのかもしれない。


少なくとも涙は浮かんでいなかった。


これを送ってきたという意味をそれから考える。

立ち上がりポットに水を入れて電源を入れた。

段々と水が振動している音が響きマグカップを手に取る。

これはわたし専用の物で礼のよりは一回り近く小さい。

インスタントコーヒーの粉末を瓶に入れっぱなしのプラスチックのスプーン半分位を入れ棚に戻す。

代わりに粉末ミルクを同じく入れっぱなしの同じ大きさのプラスチックのスプーンで二杯入れた。

スティックシュガーを二本入れて、どこかの企業の粗品だったらしい社名入りのグラスに何本か入っている金属のスプーンを取った。

その頃には振動はコポコポと音を立てるようになっていて、カチリと電源が自動で切れたのを確認してマグカップにお湯を注ぐ。

ミルクティーにも似た色のそれを丁寧にかき混ぜてから混ぜていた金属のスプーンをシンクの放れば少し耳触りな音。

そのいつもやっている動作を自然にこなしている間もずっと考えていた。


どうして、今頃、送ってきたのか。

何が、彼女をそうさせたのか。


立ったまま両手でそれを抱えて持ちずずっと啜る。

今日送ろうと思ったのかそれとも今送ろうと思ったのか。

いつあの画像を入手したのかどうやって探しだしたのか。


名刺に入れられていた画像を結局礼には伝えていない。

彼が悲しむ所も見たくなかったし表立って問題にしたくなかった。

ふと気付き慌ててミニノートの横にマグカップを置く。

さっき開いた安田からのメールをもう一度開き、画像では無く上の部分を確認する。

何度も何度も見てそれから息を吐いた。


このメールはわたしだけにしか来ていない。

つまりわたしだけに彼女はまた意思表示をしてきたんだ。


礼がこれを見る事が無いと分かって目を閉じた。

考えていてもわたしは安田さんじゃないから結局の所分からない。

突然現れたわたしより彼女の方が圧倒的に有利だ。

どんなに礼がわたしを信頼していたとしても長年の歴史には勝てない。


つまりわたしに出来る事は何もない。

また彼女の出方を見るだけだ。


これはまだ宣戦布告と呼ぶには少し早い。

これはどちらかと言えば警告だろう。


礼の側から離れろ、と言う警告。

その時開いたままの空気を入れ替えるためだけの小さな窓から風が吹き込んでくる。

生温かいそれが部屋の隅まできてわたしの頬を撫でた。

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