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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十三話 わたしと兄
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13-6 幸福と嫉妬

泣き止んでからポットに水を入れてお湯を沸かす。

たぶん礼は気付いているだろう。

どんなに押さえたって啜り泣く声は漏れてしまう。

沸いたお湯でインスタントコーヒーを溶いたマグカップを持って彼の元へ行く。


「お待たせしました」


彼の横に立ち、机にマグカップを出来るだけ静かに置いてもことんと小さな音を立てながら目の前に置けば彼は顔を上げてありがとうとだけ返しそれを手に取った。

一口飲んでから椅子を回転させてわたしの方を見る。

どうして泣いてたの?とか大丈夫?とか言われないその距離感は彼が仕事モードに入ったからだろう。

良かったと心のどこかでホッとして腕に挟んでいた赤い手帳を開く。


「本日の予定を改めてお伝えしてよろしいですか?」


手帳を持っていない手の人差し指でずれてきた眼鏡を押し上げながら聞けばくすくすと笑ってから彼が頷く。

どうせ秘書っぽいとかそんな事思ってるんだろう。


「この後十三時半より徳本社長とのお食事の予定です。それが終わりましたら一度帰社していただき、午前中に終える予定でした資料に目を通していただきます。それが終わりましたら本日の業務は一応終了となります。その後は社長のご判断で動いていただければ結構です」


最後までうんうんと頷きながら聞き終えた彼が口を開く。


「はい、分かりました。明日は?」


その言葉にぺらりとページを捲りそれにさっと目を通した。

それから顔を上げる。


「明日は午前中にチョコラータ・スプレンディドのマリオ社長が来日されますので、少し早目のご昼食のお約束がございます。マリオ社長のご意向に沿えますよう、予定は開けております」


彼がげんなりしたような顔をしてそれからため息を吐いた。

引き出しをおもむろに開き灰皿とタバコとオイルライターを取り出す。

それをごく自然な動作で咥えて火をつける。

油の燃える匂いとタバコの匂い。


「社長、駄目ですって」


取り上げようと手を伸ばしてもひょいと避けられてしまって空を切った手は彼の体に当たって体がそれを追った。


「窓開ければ大丈夫だって。今日は祐樹も居ないし」


社屋全面禁煙のはずなのにこうしてタバコを吸っているのを見たのは働き始めてからすぐだった。

衝立の向こうでカタカタ、キーボードを叩いていたら急に臭くなった。

その臭いを知っていたから慌てて立ち上がり衝立から出れば彼は背を向けていた。

けれどその体からはみ出る薄い紫色の煙にその時ばかりは名前を呼んでしまった。

彼は慌てる事無く椅子を回転させて口元に指を当てた。

呆れて何も言えず挙句、灰皿の処理までしてしまった。


「駄目ですって!!」


抱きしめられる前に彼の体から逃げて立ち直しそれを取り上げようとまた手を伸ばす。

彼はあははっと笑って手をずらしそれからまた一吸いした。


「そんな堅い事言わないで」


まぁまぁなんて言うその顔にグーでパンチしたくなるのを抑えて代わりにぷいっと横を向いた。

彼はそれを大して気にもせずゆっくり時間を掛けて一本吸い終えて灰皿に短くなったそれを押しつけた。

彼がタバコを吸うのがどんな時かは分かっている。

だからタバコを吸うこと自体は何も言わない。

出来れば吸わないで欲しいけれどそうも言ってられない事情があるんだろう。

けれどルールは守って欲しい。


わたしの気を知ってる癖に知らない振りをして彼が立ちがる。

受け取ることをしなかったコートは椅子に掛かっていてそれを取り伸びをした。


「あー、面倒だなぁ。接待嫌いなんだよ、俺」


そう言いながら肩を下ろしコートを羽織る。

下げていた眉と笑っていた目が一瞬で綺麗な端正な顔に戻った。


「今日はご一緒出来そうも無いので頑張ってくださいとしか申せません。お帰りになられる頃にコーヒー淹れておきますね」


徳本社長を彼があまり好いていないのも知っているから今日は一緒に行こうと思っていたのだけれど、こんな事態になった上に、わたしの頬はまだ薄っすら腫れている。

彼がわたしのそこに手をそっと当てて穏やかにけれど心配そうな顔で少し笑った。

ひんやりとした大きな手が頬をゆっくり冷やしてくれて気持ちよくて目を閉じた。

それから少し首を振ってそれを外し目を開けて彼を見て口を開く。


「いってらっしゃい」


その言葉を待っていたように彼が瞬きをしてから告げる。


「いってきます」


うん、と二人で頷き合い彼が部屋を出ていくまでその後ろ姿を見送った。

部屋にはコーヒーと彼とタバコの匂いだけが残っている。

自分の頬をそっと触って少しだけさみしい気持ちになった。






「あれぇ?明子、社長んとこ行ったんじゃなかったのぉ?」


勤務中だと言うのにただでさえ付け睫毛で長くしているそれに丁寧に折りたたみ式の鏡を見ながらマスカラを塗っている田中が部屋に戻った私を見て視線だけ上げた。

十五分ほど前に不備を指摘しに行くと手にした書類がそのまま残っているのを見ての発言だろう。


「行ったわ」


何も答えないのが嫌なんじゃなく、誰でも良いから話していたかった。

手にしている紙は私の手汗ですこし歪んでいる。

そんなものはもう一度印刷すればいいのだからと自分の席に向かいながら両手で丸めた。

憎しみを目一杯込めながら小さく。

田中は顔を鏡に近付けた屈んだ姿勢のまま私の動きを目で追っている。

口元が少し笑んでいるのは次の言葉を心待ちにしているからだろう。


「忙しそうだったから止めただけよ」


椅子に座り丸めた紙を放って二人の机の脇の中央に置かれた小さなゴミ箱に入れる。

力が強すぎたのかカツンと縁に当たってからそれは田中の方へ行った。

それを見ながらマスカラの蓋をして彼女が大きな黒いポーチにしまう。

そのままポーチの中を指先で漁りながら視線をそこへやって言う。

ガチャガチャとプラスチックの小さな化粧小物が当たる音。


「やっぱり、今日は忙しかったんだねー。なんか大変だったみたいだよぉ」


やっぱりって何よ、と一度モニターに移した視線を彼女に向ければ彼女もまた私をにやりと見た。

それからポーチを漁るのを止めて頬杖を付き顎を乗せて指をひらひらと動かす。

顔は横を向き長くこんもりと細工された爪がぶつかる様子を楽しんでいる。

勿体ぶった彼女の仕草に苛立ちながら口を開く。


「やっぱりって何よ」


私の言葉を受けた彼女はうーん、どうしよっかなぁとか言いながら迷ったふりを散々した挙句ようやく正面を見た。


「上の人からメールが来たんだけどねぇ、社長と黒井さんがさぁ、遅刻しちゃってぇ、大変だったんだって」


出た言葉は大したことではあるが大した事でもない。

彼女は上の人間と仲が良いためこうして何かあるとメールが携帯に来るのだと言う。

もちろんヘルプ要請では無く混乱に乗じて遊びに行こうという軽いノリのメール。


「知ってたなら教えなさいよ、手伝いに行かなくちゃいけなかったじゃない」


先輩面してそう語調を強め眉間に皺を寄せて言えば楽しそうに彼女はふふっと笑って口を開いた。


「大丈夫大丈夫、大ピンチを救った女神さまが居たんだってさ」


その言葉にはっとして眉を解き口に手を当てた。

大ピンチを救った女神さまとやらが誰を指すのか分かってしまう。

彼女が勿体ぶって教える事なんてあの女の事しかそもそもないんだ。


「ねぇねぇ、悔しい?そこに居るのは私だったのにって思ってる顔してるよ」


彼女から視線を外して何でもないわという振りをした。

社長が社長になってすぐに採用されてもう七年経った。

密接に営業と関わっているわけじゃないけれど業務の事は大体把握している自信がある。

それなのに、私は呼ばれなかった。

あの突然現れた女が私の居場所を奪った。

女神には成れなくても彼を助けたかったのに、あっさりとその機会さえ奪っていった。

あんな淫らな汚い女が私から彼を奪った。


階段で手を取られ、社長室で甘い声で囁かれているのは私じゃなくてその汚い女なんだ。

汚い女が彼から寵愛を受けているのは体を使ったからに決まってる。

そんな女は彼に相応しく無い。


持ていたボールペンを握りしめて俯く私に田中は楽しそうに残酷な事実を告げた。


「結婚するみたいよ、社長とあの人。……良いよねぇ、体使って男落として玉の輿だもん」


彼女があのページ、あの画像を見せた意図は分かっていた。

あの女にあれを発作的に渡した後に物凄く後悔した。

けれど、もう、後悔なんてしない。


「そうね、許せないわね」


一言だけにやにやと笑う彼女に告げてからモニターを見つめた。

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