13-5 俺とわたしと幸福感
彼女の手の中の今は珍しくなった二つ折りのそれを取り小さな画面に指をやって動かない事に気付く。
持っていた親指でぽちぽちボタンを押しいくつかメールを開く。
受信ボックスしか見ていないので彼女が何て文章を打ち込んだかは分からない。
もちろん知っている名前が差出人のひとつめ。
うちの会社はリーダーが営業もやってるんですよ
三人一組で役割分担です
ふたつめのそれ。
納品書は月曜日提出ですよ
みっつめのそれ。
集計は店舗のデータ管理が仕事だよ
よっつめ。
いやいや
発注はデータに基づいてやってるだけだよ
四つ五つの話じゃない。
スクロールすればずらっとメールが並んでいる。
これのすべてが業務の話、なのか?
思わず手を止め彼女を見た。
俯いたまま秘密事を暴露され赤くなって小さくなっている。
彼女はこれを秘密にしていた。
それは悪意があっての事じゃない。
俺が奥さんに口を挟んで貰いたくないと言ったから。
覚えなくて良いと言ったから。
だから言えずにけれどあの楽しかった休暇の遊園地での言葉をちゃんと実行してくれている。
ちゃんと佐久間礼を知ろうと思う
礼の気持ちや仕事を知って、貴方に相応しい女になる
こんな事されたら無条件に嬉しくなるじゃないか。
怒ってる振りなんてつまんない事出来なくなるじゃないか。
携帯を畳んで握りしめてそれから彼女を見た。
「涼」
約束をまた破る事になるのにそう呼ばずには居られない。
目の前の大事な人は俺をやっぱり大事にしてくれているのだから。
それをちゃんと行動で示してくれていて、けれど、それを主張しないで居られる強さを持っていて。
彼女の顔が上がって俺の顔を見てまた涙をぼろぼろ流した。
だからそれにただ笑顔を浮かべて手を差し伸べる。
「おいで」
俺にはこういうやり方しか分からない。
他の社員のように労いの言葉を掛けるなんて出来ない。
彼女はいつだって特別だから、特別のやり方しか知らない。
俺の出した手を彼女が首を振って拒絶しまた笑ってしまった。
涼は、涼だった。
やっぱり、涼だった。
彼女の手を無理矢理掴み階段を上がる。
引っ張るように進み最初抵抗していた彼女が素直に従う頃には階段は終わっていてオフィスの鍵を開けてから、先に入って彼女を引っ張り込む。
それと同時にドアを片手で押し閉めてそのまま抱きしめた。
「佐久間さんっ!!」
彼女が駄目ですと首を振って逃げようとするから、意地悪く言った。
耳元に唇を寄せて吐息と共に意地悪く呟く。
「礼って呼んでよ、今だけ」
社長の器じゃないとやっぱり思う。
俺は社長に一人では到底なりきれない。
だから、祐樹が涼が、他の社員が必要なんだ。
くすぐったそうに首を竦めた彼女はやがて動かなくなり強張っていた体から力が抜けた。
怒ってるんじゃないの?とまず疑問。
したらば抱きしめられてまた怒ってるんじゃないの?と今度は困惑。
「礼って呼んで、今だけ」
今だけって言われてもここは会社でわたし達は上司と部下だ。
そりゃ恋人で口約束とは言え婚約したとは言えいくらなんでも節度がなさすぎる。
わたしじゃない、礼が。
「駄目ですっ、セクハラで訴えますよっ」
困惑しすっかり抜けてしまった体の力を復活させてもがく。
というか、こんな事してる場合じゃない。
納品書を無事送り終えたからって仕事がそれで終わったわけじゃない。
メールをチェックして貰い、書類に目を通して貰い、他にもたくさん仕事がある。
彼にしか掛けられない電話だってある。
うーうー唸りながらもがくわたしに色気も可愛げもあったもんじゃない。
礼は、えー、と不満そうな声を出してしばらくわたしを堪能してから解放した。
彼から一歩下がり着崩れたジャケットとめくれそうだったスカートを直す。
今日はグレーのジャケットに黒のスカート、それをパンパンやりながら睨めばどこ吹く風で何もしてないですよというように両手を軽く上げて見せる。
なんだ、これ。
発情期の犬じゃあるまいし、飛びついてくるって最低っ。
グーガルルルと鼻を鳴らしてしまいそうになる。
彼がそれを楽しそうに目を輝かせてわたしにちょっかいだそうとそわそわしていて思わず怒鳴る。
「ハウスっ!!!」
もう一度思ったら犬にしか見えなかった。
耳と尻尾が垂れ下がるが如く項垂れた彼は一言肩を落として呟いた。
「わん」
ぶふっとそれに吹き出したのはわたしで彼はそれを受けて恥ずかしそうに背を向けてそのまま机に向かった。
まさか礼が乗ってくるなんて思わなかった。
げらげらとはしたなくお腹を抱えて笑って悶えれば礼が怒鳴る。
顔を真っ赤にしたまま泣きそうな顔をして。
「笹川君!コーヒー!!」
その言葉に一瞬我に返りそれでも分かりましたなんて言えなかった。
うんうんと頷いてみせてから衝立の中に入って吹き出した。
礼があんな風になるなんて、どうしたって言うんだ。
そんなに結婚する事に同意したのが嬉しかったのかな。
それともわたしが彼を知ろうとしていた事が嬉しかったのかな。
こんな風にずっと一緒に居られるのかな。
こんな風にずっと笑って居られるのかな。
それって本当にすごく幸せだ。
幸せになって良いのかな。
幸せになれるのかな。
吹き出して笑っていた顔はもうくしゃくしゃに歪んだ。
本当に泣き虫だと思うけど涙を押さえられなかった。
嬉しくて嬉しくて、幸せだって思える事が一番嬉しくて。
両手で口を覆って目を閉じてボロボロ泣いた。
わたしの大事なわんこはきっと言いつけを守って仕事してくれてる。
わたしは幸せすぎてそれに泣いてしまって気付かなかった。
俺は恥ずかしさと照れに気を取られて気付かなかった。
一連のやり取りをドアの向こうで聞いていた人が居たなんて、二人とも全く気付かなかった。