13-4 俺と彼女とメール
ドアを閉めて歩き階段に差し掛かる所で礼が立ち止まった。
それからにこやかに笑い振り返る。
「で、いつ勉強したわけ?」
行く手を遮り満面の笑みを浮かべてはいるが目は笑ってない。
咄嗟にああしてしまったとは言え、出しゃばったのは事実だ。
思わず俯いて肩からずり落ちた鞄を曲げた肘で受け止める。
「勉強……は、して、ないと思います」
言い訳にしか聞こえないそれはけれど事実だ。
机に向かって鉢巻締めて夜な夜な赤本よろしく勉強したわけじゃない。
夜はいつだって彼と一緒に寝ていた。
「へー、じゃあ、アドリブ。すごいね、さすが笹川涼だ」
彼が発するその言葉には嫌味がたっぷり塗られているような気がする。
厚切りトーストにこれでもかとバターを塗りたくった胃がもたれるそれに似ている。
「アドリブ……うーん。違います、誤解です」
慌てて首を振りながら返答すれば一言、へー、と冷たい声が返ってきて体をもっと小さくしてしまう。
礼と祐樹さんが作り上げてきたこの会社は物凄く居心地が良い。
表立って派閥があるわけでも、いじめがあるわけでもない。
そりゃ、普通の人間関係の中の些細なからかいやいじりはある。
けれどみんながみんな、二人に続くように人を思いやっている。
理想的な職場だと思う。
中小企業、しかもほとんど同族経営なのに離職率が、彼らが雇った人間に関して言えば低いのはそれが理由だ。
だから、と言えばまた言い訳になるけれど、二週間しか働かせてもらってないけれど会社を守りたいと思った。
「そう、誤解ね。俺は誤解で殴られたわけ、か。ふーん。それならそれで良いけど」
けど、何だよと思わず顔を上げてしまった。
彼は顔を上げたわたしを見てまたにっこりと微笑んだ。
実の所を言えば涼に対して全く怒っていない。
むしろ感謝しているくらいだ。
俺はどうにものんびりし過ぎている部分がある。
直面した問題を直視してもそれは中々変わらない。
我が社のゆるーい社風もそれが影響している。
馬鹿じゃないと思う。
それなりに勉強もしてきたし、それなりに良い大学も出た。
けれど、俺だけだったら会社をここまで業績を伸ばしたり良くしたりは出来なかった。
のんびりと構えてしまいどこかで躓いて転んでいた。
転びそうな俺を引っ張り上げてくれるのは祐樹だ。
彼が俺の甘い考えをフォローし部下を動かしてくれる。
悩み続けたり決断出来ないわけじゃない。
ただ、それに俺は少し時間が掛かる。
先の先のずっと先まで考えて悩んでしまう。
祐樹ほど頭の回転は速くない。
だからこそ慎重にならざるを得ない。
その俺に祐樹は的確な助言と行動を示してくれ、俺はそれに同意しあるいは反論し、そうして結論を出していた。
俺一人でも会社はやれるけれど、俺一人では上手くはいかない。
その微妙なバランスは中々人に伝えずらい。
自分が何も出来ないと言っているような錯覚も覚えるし、他人に祐樹を求めた所できっと彼の代わりにはならないからだ。
それを涼はあっさりとやってのけた。
しかも働き始めて二週間、俺と一緒に居るようになってまだ三カ月。
どんなに頭の回転が速い兄妹だったとしても不可能だろう。
それにどんなからくりがあったのか興味があった。
ただ、彼女の笹川涼の性格は名は体を表す如く静かで控えめだ。
普通にどうして出来たのか尋ねても俯き首を振るばかりで、俺の知りたい事はきっと聞き出せない。
結局時間に追われ俺が折れて有耶無耶になってしまう。
だからあえて意地悪く怒っている振りをしている。
殴ったという事実をあえて伝えれば彼女はようやく顔を上げた。
それにまたわざとらしく笑ってみせれば目の前の彼女の口がへの字になった。
それから目が潤み始める。
「……ごめんなさい。でも、本当に勉強なんてしてないっ」
ぶんぶんと首を振ると前髪がゆらゆら揺れている。
その頭をぽんぽんと撫でて嘘だよ怒ってないよと伝えてしまいたい。
けれどもう結婚すると決めたんだ。
さっきもそう強く思いなおした。
いつまでも彼女の主張をしない部分を受け入れる訳にもいかない。
「じゃあ、何なの?」
冷たく低くした声音で静かにそう告げれば彼女の目から涙がこぼれた。
俺の婚約者はすぐ泣く。
息を吸うようにすぐに泣くくせに、息を吐くように静かに涙を流す。
彼女が慌ててジャケットの袖でそれを押さえて拭い俺を見る。
「メールしてただけです。本当に、メールした、だけなんです」
その言葉に俺は演技ではなく本心で眉を潜めた。
メールしていた、だけ?
その言葉の意味が分からない。
誰といつ、メールをすれば会社の仕組みが二週間で分かるってんだ。
礼が怒っているという事実だけで胸がきゅっとなり涙が浮かんだ。
彼に会ってから泣くと言う卑怯な手段を隠せなくなった。
アルバイトをしていたワープア時代も何度も泣きそうになったけれど、他人に弱みを見せたくなかった。
一人でも大丈夫だと思いたかった。
弱みを見せて付け込まれ、心の中を見られるのが嫌だった。
過去を隠して生きてきた。
けれど佐久間礼はわたしのそんな意思を簡単に崩してくれた。
それはもう呆気ないほど簡単に。
彼は必要以上踏み込んでこない。
それなのに優しくそれを受け入れてくれる。
だからわたしはどこか安心して彼の前で自然に泣く事が出来る。
でも、今は泣きたくなかった。
もう一度袖で涙を押さえて吸い取る。
見上げれば彼は眉を寄せている。
大丈夫、何も、悪い事なんてしてないんだから。
ちゃんと事実を告げれば分かってくれる。
意を決して口をそっと開く。
「みなさんとメールしてただけ、なんです。本当に。電車の中とか帰って家事している時とか、その時間だけ携帯でメールしてただけなんです」
やっぱりそんなつもりは全くないのに口に出して言えば言い訳のようだった。
言い訳に聞こえないように言葉で思いを伝えるのはすごく難しい。
「メール、してただけ?」
彼がそう小さく尋ねてきて頷いた。
そうです、メールしてただけなんです。
肘にとどまったままの鞄を肩に掛け直しごそごそとその中を漁りピンクの二つ折りのそれを取り出す。
画面を開きメールボックスを表示して彼に向ける。
「はい、メールしただけです。みなさんと」
画面が見えていなくても指は動かせる。
人差し指でセンターキーの下ボタンを押し画面をスクロールさせる。
映し出した画面はきっとまだ会社と分けたフォルダのままのはずだ。
彼の手が伸びてそれをわたしの手から取り上げた。