12-20 わたしと彼とエレベーター
私の目の前に座る方は笹川様と仰います。
彼女はこの高級マンションの最上階の特別広い南側の御部屋、佐久間様の所に一緒に住んでらっしゃる方です。
私たちコンシェルジュの中でも佐久間様は特別評判が良いです。
彼は私たちに頻繁に労いの言葉を掛け、長期出張の際は必ずその旨を伝えお帰りの際にはお土産をお礼とともにくださります。
先輩方の話に寄れば佐久間様は佐久間グループの御曹司でご自身も社長をなさっているそうで、ですがそれを感じさせない人柄は、私たちに彼に対して特別配慮をさせてしまうほどです。
だからお預かりした荷物やお手紙も進んで最上階まで運んでしまうほど。
その佐久間様がお連れになられた笹川様も同じくらいお優しい方で、買い物帰りにはいつも声を掛けてくださり、お菓子を御世話になっているお礼とくださったりします。
鼻声ならのど飴を、疲れている時はチョコレートを、寒い時には焼き芋だったり。
ほんの小さなその心遣いが私たちにお給料以上の仕事をさせてくれます。
その佐久間様が血相を変えて出ていかれしばらくして笹川様が顔を腫らし鼻血を出されて現れた時は時ならぬものを感じました。
「落ち着かれましたか?」
そう鼻にティッシュを詰めたまま俯く笹川様に告げれば彼女は顔を上げてちいさく頷いた。
それから腫れあがった頬を隠すように手を当てられ頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました。タオルは佐久間の名でクリーニングの時に一緒に出してください」
三枚五百円のタオルにそんな気遣いは無用ですと告げれば彼女は少し笑った。
「三枚五百円は底値ですね。厚手で良いタオルなのに」
その言葉に同意するように笑みを浮かべれば彼女が立ち上がる。
それからもう一度頭を深く下げてくださる。
「本当にありがとうございました。止めていただいてよかった。佐久間を探しに行きます」
「いえ、何もしてませんから。佐久間様もそろそろお帰りになるかもしれませんし」
何があったのか聞きたい訳ではないのですがそこまで首を突っ込むのは失礼だと先立ってドアを開け笹川様が出るのを待って音を立てないように閉めます。
彼女は同僚にも頭を深く下げてからエレベーターへと向かいました。
ボタンを押し到着するのを頬に手を当てて待たれていらっしゃる後ろ姿をただ眺め、休憩を中断した同僚が控室に消えていきました。
涼が出て行った事に気付いたのは玄関のドアを開ける音がした時で俺たちはその一瞬の出来事に我に返る。
「涼?!」
立ち上がりそう呼んでもドアの閉まった音だけが響いた。
祐樹と高松さんが立ち上がり玄関へ向かおうとするのを止める。
「俺が、探しに行くから。二人はここで待ってて。涼が帰ってきて暴れたら一人では止められないかもしれない」
女性の高松さんには暴れる涼を任せるのは申し訳ない。
けれど兄だと分かってまだ動揺している祐樹を一人残すのも不安だった。
二人が頷いたのを確認してから自室に行きクローゼットから一番手前にあった黒いコートを取り出して持ったまま玄関を出た。
着ながら歩きエレベーターを呼ぶ。
乗り込み一階へ着きコンシェルジュに目もくれないで外へ出る。
まだ息が白くなるほど寒い中涼は薄着で出て行った。
どこに行くのか見当もつかない。
「涼ー!涼ー!!」
周囲を見回しながら声を上げそう呼び歩く。
マンションの外周を一周し戻ってきたが居なかった。
どこに行ったと言うんだろう。
あんな形で彼女は祐樹に事実を告げてしまった事に動揺したんだ。
それしか分からない。
何をあの時彼女が思っていたのかまでは見当がつかない。
こんな事になるなら泣き喚かれた方がずっとまし。
頬を腫らし泣きながら鼻血を流す彼女はこの都会の真ん中に居る男から見たら恰好の餌食だ。
声を掛けられて今の彼女がついていかない保証はどこにもない。
むしろついていくだろう。
俺たちより安易なその優しさに甘える。
「涼ー!!」
大通りまで出てそう呼べば少なくなった通行人が振り返りそれを気にせず辺りを見回す。
そんな遠くにはいけないはずだとまた来た道を戻り祐樹に帰ってきてないか確認しようとして初めて携帯すら持っていないことに気づく。
「……動揺しすぎだ、俺」
呟いてマンションに入り中を見た瞬間体が固まった。
エレベーターを待ちながら頬を押さえてるその後ろ姿を見間違うはずがない。
鍵すら持っていなくて開かない自動ドアを叩けば彼女より早くコンシェルジュが気づき手元のスイッチで開けてくれた。
お礼を言うのも忘れて走り、彼女が乗り込んだエレベーターの扉が閉まるそれに手を思いっきり伸ばし挟み入れる。
一度開いた扉がまた開き中で突然の事に驚いていた彼女が入ってきた俺を見て目を丸くした。
滑り込んだそのまま片手でパネルの扉を閉めるボタンを押せば、背中すれすれでそれがしまった。
突然現れ入り込んだその人は額に汗を掻き肩で息をしている。
押さえたままだったボタンから手を離しそれから顔を上げた。
「……礼?」
そう分かっているはずなのに尋ねればうんうんと頷いて見せる。
それから彼は体を起して息を大きく吐いた。
「黙って出て行くのは、ナシにして。反則だよ」
そう笑って彼は言いわたしに背を向けて立った。
怒るでもなく注意するでもなくただそう言った彼の背中に抱きついてしまいたいと思う。
「ごめんなさい」
それを我慢して小さく謝っても彼は何も言わないでただエレベーターが到着するのを待っている。
やがて扉がゆっくりと開きそのまま先に歩いていく姿を見てひどく絶望した。
彼がわたしと私と『私』を捨てるんだ、と強くそう思い込んでしまってその背中を追って走り寄りそのまま抱きつけば彼の足が止まった。
彼の体が動き首だけ振り向かせてわたしを見ているのが分かる。
でも、何も言わない。
どうしたの、も、大丈夫、も、何も降ってこない。
ただゆっくり彼の前に回した手を自分の手で外して下させた。
それから一呼吸置いて彼はそのまま前に歩き出す。
殴られるのも無理矢理挿れられるのも噛まれるのも罵られるのも、慣れた。
けど、捨てられるのだけは、どうしても慣れない。
彼は一度も振り返らないまま玄関を開けて中に入っていった。