表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十二話 彼と私と日曜日
131/418

12-19 わたしと鼻血とコンシェルジュ

「お兄ちゃん?」


祐樹がまた小さく呟いて顔を上げる。

俺は何が起こったのか把握してもう顔を隠すしか出来なかった。

涼がどういう心境だったのか分からない。

けれど彼女は祐樹を兄と呼んでしまった。


「おい、礼。顔見せろ」


膝をついたまま彼が俺の手に自分の手を掛け力づくで引っ張られ両手が外れる。

彼が困惑したすがるような顔で俺を見上げている。

涼に聞けないのは殴った罪悪感と高松さんが守るように抱きしめているからだ。


「……おい、お前……知ってたのか?」


祐樹も馬鹿じゃない。

どちらかと言えば頭が良い。

それでいて回転が恐ろしく早い。

こういう場で嘘を吐くような事を人間が言わない事は分かっているんだろう。


「笹川が俺の……い、も……うと?」


唇を噛み締めるしか出来なかった。

彼には涼の母親がかつて佐久間の家に居た事も話してしまっている。

それでも疑問形なのは信じられないからだろう。


「妹?」


小さく同じように聞き返したのは高松さんだった。

俺たちに背を向けたまま顔だけ上げて振り返る。

そんな目で見ないでくれ。

俺だってこんな事になると予想していなかった。

二人の疑問に答えたのは俺じゃなかった。


「違います。言葉のあやです。私に兄はいません」


高松さんの体の向こうから涼が慌てた様子で否定すれば祐樹は顔を歪めた。

今のこのタイミングでその様子と言葉は肯定以外の何物でもない。






汚してしまった白いロングTシャツに気を取られてタイミングを逸した。

もっと早く兄じゃないと訂正しなくてはいけなかったのに、遅すぎた。


「なんで、なんで黙ってたんだよ!!」


がたっとテーブルに当たる物音の後、布を掴む音。

わたしを抱きしめたまま振り返っていた由香里さんがびくっと肩をすくめた。


「何で、黙って……。笑ってたのかよ、ずっとっ!!」


ガタガタとテーブルに腕が当たる音と礼が座る椅子が揺れる音が響いて瞬きすら出来なかった。


「祐樹っ!!」


由香里さんがわたしの体を離して祐樹さんを横から覆いかぶさるように抱き締めるのを見ながら両手を重ねて握りしめ胸の前で組んだ。


お願い。

もうそれ以上彼を責めないで。


鼻血が行き先を失ってぽたりぽたりと組んだ手に滴り落ちた。





「言えるわけないだろう」


由香里に抱きしめられ、けれど顔を見つめたままの俺に礼がそう告げた。

その顔は苦渋に満ちて、声は低く苦しく吐きだしたものだった。


「言えるわけない。祐樹を見捨てた母親が他の男と作ったのが涼だなんて、言えるわけないだろう!!」


その言葉を吐き捨てた礼を俺はただ歪んだ顔で見つめる事しか出来ない。

礼の口からそんな風に言わないでほしかった。

けれどそれは事実以外の何物でもない。


「俺が大事に想っている涼がお前を捨てた人の子供なんて言えない!妹が輪姦されてぼろぼろになったなんて、知られたくなんか無いだろう!!」


涙が流れた。

俺と礼と由香里の目から。

そのまま彼女の肩越しに横目で笹川涼を見る。

俺が殴った女は妹で複数人の男に体を弄ばれたんだ。

その小さな体を見れば彼女は視線を逸らして俯いた。


知りたくなかった。

妹が居る事もそれが笹川涼な事も、知りたくなかった。

息が荒くなって目が霞む。

過呼吸を起こした俺を由香里が抱きしめて大丈夫と耳元で囁く。

その手に自分の手を縋るように重ねて呟いた。


「ウソだろ」






祐樹さんが兄が礼の言葉でわたしの過去を思い出したように酷く蔑んだような目で見られて視線を逸らした。

見られたくない。

礼は脱力しがっくりと頭を落としてそのままそれに返事もしない。

由香里さんは祐樹さんを抱きしめて震えている。


わたしのせいだ。

わたしが飛び出したからこうなった。

わたしが口走ったからこうなった。

わたしがみんなと仲良くしたからこうなった。

わたしが礼と付き合ったからこうなった。

わたしが隠しておけなかったからこうなった。

わたしがここにいるからこうなった。


わたしが産まれてきたからこうなった。


すぐ側のキッチンのドアに手を掛けてそれを開いてそこからはもう振り返らなかった。

振り返らずそこを抜けてもうひとつのドアから廊下に出て、そこからは走った。

走って玄関のドアの鍵を開け、ドアを押し開き、そのまま外に出てとにかく走った。

エレベーターなんて使いたくなくて階段を駆け降りる。

頭が殴られたからかぐわんぐわん回り途中で何度か転げ落ちその度にうずくまって呻く。

それでも起き上がりとにかく走る。


あの場所にもこのマンションにもこの世にも、もう、居たくない。


階段とマンションのロビーを隔てる防火扉を開けてもつれる足でドアへ向かえばロビーに常駐しているコンシェルジュの一人がわたしの異変に気づいて駆け寄ってくる。

それに首を振って逃げようとするわたしの手を彼女が掴んで開いた自動ドアから出る寸前に捕まる。


「笹川様?どうなさいました?」


彼らの仕事からすればこんな風に住人の手を掴むなんてあってはならない事だろう。

その心配そうな顔を知っている。

わたしが火事でここに逃げた時に一緒に上まで行ってくれた川上さん。

その言葉にまた首を振り手を振りほどこうとすれば彼女はそれを許してくれない。


「離してください。行かなくちゃ、行かないと」


動揺して喚くわたしに彼女が首を振り、眉を寄せた。

誰にでも好かれるような印象の顔が曇る。


「ですが、鼻血が。顔もすごく腫れてますよ。それにこんな時間に上着も着ないでどちらへ行かれるんですか」


慌てた声がそう告げてどこと言われて体が止まってしまった。

どこに行こうとしていたんだろう。


「佐久間様と何かあったんですか?とにかく一度……せめて鼻血だけでも止めてから行ってください。そうしたら止めませんから、もう」


彼女の言葉がすごく優しくてそれに嗚咽を上げて泣いた。

特別仲が良いわけじゃないけれどわたしにいつも優しくしてくれるこの人が好きだ。


「控室にティッシュありますから、行きましょう」


彼女が手を離しそれからわたしの背に手を当てて歩き出しそれに従うよりほかなかった。

ロビーの壁と同化しているドアをノックしてから彼女が先に顔を入れて中にいたもう一人に声を掛けしばらくすると別のコンシェルジュの男性がわたしを見て驚いた顔をしてから会釈をしてカウンターへ戻っていった。


「さ、どうぞ。狭くて汚いですけれど」


開かれたドアの先は小さな部屋で並んでいる細長いロッカーとその隣にアコーディオンカーテンで仕切られたスペース、その手前には会議机とそれを挟むように置かれた二脚の椅子があった。

左手の壁には小さな洗面台と鏡が置いてある。

わたしの手を引き椅子に座らせてから彼女は自分のロッカーからポケットティッシュとタオルを出してくる。

剥き出しではなくきちんと花柄の布地のケースに入れられたそれを彼女が差出し一枚抜いてから鼻に当てればすぐに赤く染まった。


「顔も拭いてください」


差し出された濡らされたタオルを見て首を振れば彼女はやや迷ってからわたしの顔をそれで拭った。

それから向いの椅子に座ってわたしに告げる。


「先ほど佐久間様がロビーを走り抜けて出て行かれました。きっと笹川様を探しに行かれたんですね」


その言葉に息を飲んで手に持っていたティッシュを握りしめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ