12-16 幻想と悪夢と安らぎ
電話を切ればすぐ由香里さんが折り返してきて耳から外したピンクのプラスチックのそれが震えた。
けれどとても出れなくてこたつ布団の上に置く。
そのまま力無く脱力し両手を外に出したまま頬だけ天板に乗せている。
その天板の頬の周りが変に冷たくて泣いている事に気づく。
由香里さんと祐樹さんとの仲は佐久間礼の恋人という立場から成り立つものだ。
違うと本人たちは言うかも知れないけれどそうだと思ってる。
だから、彼らを祝福したかったけれど、とてもじゃないけど結婚式も披露宴も行くことが出来ない。
付き合いが短すぎる。
結婚なんて出来ないわたしが彼女の結婚式の話を聞くたびにまるで自分がそうであるように嬉しくて楽しくて幸せな気分に浸れた。
でも、それも、もうおしまい。
それに小さな幻想を抱いていた。
万が一礼と結婚できたら、子供が産まれたら、家族ぐるみのお付き合いをしてバーベキューしたり遊園地に行ったり旅行に行ってイベントごとに集まって、お互いの子供の成長を見守り、たまには愚痴を言い合い、学校に行っている間にランチをする。
そんな風に誰もがやるような事をしたいと思っていた。
でも、それも、もうおしまい。
おしまい?
礼のプロポーズを受け入れればおしまいなんかじゃない。
彼はちゃんとわたしを受け入れて大事にしてくれるだろう。
でも、出来ない。
やっぱり彼が傷つくのは見たくない。
困っているところも、悲しそうなところも、見たくない。
わたしと同じように彼も恵まれない人生を送ってきた。
人に恵まれていない人生。
確かに他人に話せばわたしの方が注目されやすいかもしれない。
けれど自由にならなかった子供時代、たくさんの女性に一方的に振られた恋愛経験、無理やり奪われた初体験、殺された子供。
彼の体は傷つかないけれどその分彼は心がわたしよりずっと傷ついてる。
それを見せないのはそうする事でしか立てなかったからだ。
わたしならもうとっくに他人を信用しなくなっている。
だから、彼はわたしの事を信じきれなくて、ああやって取り乱し、そして自分で後悔する。
そしてわたしの事を想ってわたしを喜ばせるような事を言う。
それが例え本心だったとしても、いつか言おうと思っていた事だったとしても、彼はそれを言わざるを得なくなる。
結婚してもそれの繰り返しになるだろう。
子供が出来ても、彼は自分の子か疑うかもしれない。
仕事が忙しくて余所で作ったのではないかと、きっと疑う。
明やたくさんの男に犯されてからまだわたしには生理が来ていない。
子供が出来ていてもそれは礼の子供じゃない。
礼はそれでも喜んで結婚して産んでくれと言うだろう。
もう子供が死ぬところなんて見たくないはずだから。
そういう風にわたしを喜ばせる人だから。
だからこそわたしじゃなくてもっと普通の、何も問題が無い女の子と、由香里さんのような人と一緒になって欲しい。
遅かれ早かれこういう日が来るはずだったんだ。
嗚咽を上げそうになって考えるのをやめた。
トラウマが蘇ったのも二度目の輪姦も全部彼に会ってからだ。
それでも彼に会って付き合った事を後悔した事はない。
それでも、それでも、やっぱりすごく辛い。
考えるのはもう止めてこのまま寝てしまう。
そうすればまた明日が来て、明日にはもっと気持も落ち着いているはずだから。
そう思って目を閉じて一番会いたくない大嫌いなあの顔を思い浮かべて。
どうか今日だけは出てこないで。
今日だけは幸せな気持ちのまま静かに眠らせて。
せめて一夜くらいは苦しめないで。
そう願わずには居られない。
それでも出てくるなら私は明に支配されたままで、それはもうどうにもならない。
時間が解決してくれるかもしれないけれど、それはすぐではない。
それでもせめて今日だけは『私』で眠りたい。
ピンポーンとチャイムが鳴り読んでいた本を机に置いた。
立ち上がり書斎を出てリビングへ向かう。
結局どこにいても落ち着かず書斎に籠って適当な本を読んでいた。
涼は部屋から一歩も出てこない。
様子を見に行こうかと思って止めた。
彼女から何も答えを貰ってない以上何も出来ない。
「はい」
受話器を取りモニターが明るくなりその先に居たのは高松さんと祐樹だった。
腕時計を見ればもう二十二時半。
他人の家を訪ねるには少し遅すぎる。
『夜分遅く申し訳ありません。大事なお話と忘れ物がありまして』
話?忘れ物?
確かにここには彼女が暮らしていた荷物がまだ残っている。
何にせよ来てしまったなら受け入れるしかない。
追い返すような間柄じゃないのだからと解除の文字が光るボタンを押す。
ピーと小さな電子音が受話器越しに聞こえた。
「どうぞ」
そう告げれば彼女は頭を一度下げて横に立ち一度もモニターを見なかった祐樹の腕を掴んでそこから姿を消した。
受話器を置けばまた画面が暗くなる。
それから廊下へ向かい涼の部屋をノックする。
二人が来ることは伝えないといけないだろう。
けれど返事が返ってくる事もドアが開く事もなかった。
まさか、ね。
一番最悪の事態が頭を過り迷わずにドアをそっと音を立てないように開けた。
点けっ放しの明かりの中、部屋の中央のこたつに彼女が顔を向こうへ向けて突っ伏している。
ぞくりと背筋が鳥肌立ち鼓動が速くなった。
そっと足音を忍ばせて近付けば見える手首は切れていない。
壁側に回りじっとその顔を見れば頬は薄ら赤かった。
「……んっ」
見つめた先の顔が小さく歪み声が漏れた。
生きている事にほっとしてけれど寝ている事に不安を覚える。
また悪夢を見ているんじゃないか。
それがどんな夢なのかは聞く事が出来なかった。
聞いても答えは返ってこなかった。
自分を兄と偽りその心を思うまま操り、離れた今も彼女を苦しめる悪魔にはその姿を彼女の中でどんな風に映っているんだろう。
抱きしめてしまいたいと思う。
小さな体でそれと懸命に戦っている事をよく知っている。
毎晩毎晩辛い目に遭うのに幸せそうにおやすみなさいを言う姿を知っている。
今までなら迷わず抱きしめていた。
彼女がそれで目を覚まし俺にしがみつくのに安心していた。
けれど、出来ない。
俺はまだ彼女から答えを貰っていない。
嘘を吐きたくない。
一瞬だけの安らぎじゃなくもっとずっと永く続くようなそれを与えてあげたい。
息を小さく吐いてから部屋をそっと出る。
電気も点けっ放しのまま、ここに俺が入ったと分からないように、小さな裏切りを与えないように注意して、ドアを静かに閉めた。
そのまま玄関の鍵を開け外に出て二人を待った。