12-15 私と電話と由香里さん
落ちていた服を拾ってのろのろと支度を済ませすっぴんのまま部屋を出た。
彼はそれを何も言わず部屋に置いてあったインスタントコーヒーを飲んで過ごしわたしの支度が終われば立ち上がり一言声を掛けて歩きだした。
その手は握られる事もなくその顔は振りかえる事もなく背中はずっとこっちを向いていた。
車のドアの開閉はやってくれたけどシートベルトを締めるまでやっぱり何も言わない。
わたしが何も答えていないから彼は何も出来ないんだ。
すっかり暗くなった道路を走る彼の横顔を見ても彼はこっちをちらりとも見ない。
やがて彼の家に着いて玄関のドアを開けてくれて押さえていてくれて中に入っても二人とも何も話せなかった。
ただいまもおかえりもそこに無い。
彼はそのまま私の部屋に荷物を置いてからリビングに向かいわたしは自室に入った。
彼にプロポーズされて喜ばない女は居ないと思う。
彼の持っている財力も優しさも憧れて止まない物だから。
それを手放しに喜べないのは散々彼を傷付けたからだ。
嫌な部分をたくさん見せて迷惑を掛けて、そのくせ、何も出来ていない。
彼が言う程わたしが彼の為に何かやっていたとは思えない。
わたしという彼が言うように本能的に欲しいと思う相手が居なくなるから美化されているだけだ。
その何倍も彼を傷付けている。
彼に嘘も吐いた。
要らなくなるまで側に居るなんてどの口が言ったんだろう。
愛していると告げたその口が別れを告げ、頬を赤らめていたその顔で彼を誘った。
彼の隣に立つのはもっと普通の人じゃなきゃ駄目だ。
もっと普通に、彼を愛して、彼が抱くのを躊躇わないような人、由香里さんのような人じゃないと駄目だ。
こたつに入り天板に頬を付ける。
ひやりとそれが冷たくてドアと反対側の壁を見つめた。
もう三月になると言うのにまだ夜は冬の気配を残している。
買って貰った服をクローゼットにしまう気にもなれず、自分のすぐ側にあるバッグから携帯を取り出した。
画面を開き時間を見ればまだ二十一時。
この時間なら失礼には当たらないだろうと、アドレス帳から今話したい人を探して通話ボタンを押す。
耳に当てればコール音が大丈夫と繰り返すようにわたしの耳に響いた。
「由香里、電話ー」
遅くなった夕飯の後片付けをしていれば祐樹がそう言ってそれを持ってきて泡だらけの手で出れず彼が代わりに画面を操作した。
そのままスピーカーフォンにしてくれて誰からなのか分からず電話に向かって明るめに声を出す。
「もしもーし」
電話の向こうはえらく静かで何の物音もしない。
ただ相手の呼吸音がする。
祐樹と私は顔を見合わせた。
誰から?と首を傾げれば彼の口がささかわとだけ動く。
「もしもし?涼ちゃん?」
そう尋ねれば彼がそうそうと頷く。
電話の向こうの彼女が小さく、はい、と返事をした。
こんな時間にしかも佐久間礼といるはずの日曜日に電話を寄越すなんて何かおかしい。
水道で手を洗いそれを止めてから手を拭く。
彼の手から電話を取ろうとすれば首を振って制された。
「どうしたの?ごめんね、今、後片付けしててちょっと声が遠いかも」
しばらく間を置いてから彼女の小さな無機質な声。
『大丈夫です。突然すみません。お忙しいなら切ります』
蛇口からぽたりぽたりと水が落ちて、その下の茶碗に溜まっていく。
「大丈夫よ。それより本当にどうしたの?こんな時間に」
心配を隠せずそう声を低くして聞けば向こうではまた彼女が何も言わない間を作る。
『結婚式、なんですけど。あのお返事を出した後で申し訳ないのですが欠席させてもらえませんか?』
え?と声に出してしまった。
彼女は自分の事のように喜んで楽しみにして必ず行くと言っていた。
だからこそブーケを渡すというサプライズまで思いついたのに。
「どうして?別にまだ人数とかは間に合うけれど、理由くらい聞いてもいいよね?」
三月に入って数日経てば人数の変更は難しくなるが今ならまだ大丈夫なのは事実だけれど腑に落ちない。
理由を聞かない限り、マイナスになっても構わないから席を作るつもりで言う。
さっきまでとは比べ物にならない位たっぷり間を置いてから彼女が囁くように告げた。
『……礼と、佐久間礼と別れました。だから一緒に幸せそうな御二人を見るのは少し辛いです。佐久間は祐樹さんの上司という肩書があるから席を外す事は難しいと思うので、私が御遠慮させていただこうかと』
祐樹と二人で顔を見合わせた。
電話の向こうの小さな女の子は何も失礼な事を言っているわけじゃない。
ドタキャンされるよりはずっとマシだ。
言葉を失った私達に彼女が続ける。
『お話は以上です。夜分遅くに失礼致しました。……もし許して頂けるならまたご飯にでも誘ってください。由香里さんの文金高島田は見たかったから』
最後に付け足してくれたのは彼女の気遣いだ。
こんな時までそうやって他人を思い遣ってくれる。
電話がそれきり切れて慌てて祐樹からそれを奪い掛け直しても彼女は出なかった。
「おい、マジかよ。何が起こった?」
ソファに崩れ落ちながら彼が呟いたその顔は青ざめている。
彼は涼ちゃんじゃなく佐久間礼を気にしているんだ。
エプロンを止める背中の紐を乱暴に外した。
それからどたどた歩いて車の鍵が入っている鞄を掴む。
コートを二人分取って彼に投げつけた。
「分かんないわよ、そんなの。行くわよ、ほら、早く立って」
そう急かせば彼は要領を得ない顔をした。
目が勝手に潤んでしまう。
だってそんなの信じられない。
顔を見合わせ嬉しそうに笑みを交わす二人。
互いを確かめるように強く手を握る二人。
どちらからともなく相手を気遣う二人。
「涼ちゃんはっ」
涙が流れた。
他人の為に泣くのは涼ちゃんくらいしか無い。
「長年付き合った友達じゃなく、私に電話をしてきたのよ?!彼女に何かあったらあんた責任取れるの?!私は取れない!大事な友達が壊れるかもしれないのに何もしないなんて出来ないっ!!」
どこからどう見ても二人は深く愛し合っていた。
穏やかな表情はそうやって二人が生み出した物だった。
それを二人が壊したのなら、言い出したのがどちらでも、無事では済まないだろう。
一番嫌な最悪の事態が頭に浮かぶ。
祐樹が立ち上がりコートを羽織って私の腕を掴んだ。
彼の顔は怒ったようなそれでいてすごく真剣だった。
そのまま引きずられるように家を出て鍵も閉めずに二人で赤い車に乗り込んだ。