12-14 俺とプロポーズの答え
突然のその言葉に動けなかった。
彼がわたしの手を離しその手が背中に回って抱きしめる。
額が彼の胸に当たりそれでもまだ押しつけられて頬を当てるように横を向けた。
彼のしっかりした胸板に頬がぴったり着いた。
浴槽の中のお湯はもう冷めてぬるま湯だ。
すこし寒いくらいのその中で彼の体は暖かくわたしを包み込んだ。
「そのまま聞いて」
彼の声と匂いがわたしの動きを封じた。
こうしているのは嫌いじゃない。
頭の上に顎を乗せる事も耳元に唇を寄せる事も彼はしなかった。
「もう一回言うよ、結婚しよう」
そう言い彼の手がわたしの頭に伸びて湿って重くなっている髪をゆっくり撫で下ろす。
わたしはそれに良い返事なんてわけがない。
ついさっき彼に別れをちゃんと告げたんだ。
「嘘」
呟いた言葉は否定する言葉だった。
彼が頭上で小さく息を吐きそれから低くそれでいて伸びのある綺麗な声が分かっていたというように言う。
「嘘じゃないよ、本当」
こんなのおかしい。
間違っている。
頭を浮かし彼の手を払うように首を振る。
「嘘っ」
彼が私を見ているのが見なくても分かる。
どんな顔をしているのかまでは分からなくて顔を上げた。
その先にはそれでも彼が穏やかに笑っているのが分かる。
その口がゆっくり動きだす。
「本当。最初は見えなかった涼の後のあの男に気持ちが迷ったしさっきは逃げようとした。涼を真っ直ぐ今まで見れなくて視線も逸らしていた。だけど、涼が居なくなるくらいなら、諦めないよ。一緒に居る事を」
その目も口も顔も見れなくて言葉の途中で俯く。
どうしてこんな所でこんな風にわたしは彼からプロポーズされているんだろう。
子供の時に憧れていたテレビのドラマでやっていたそれはもっと違っていた。
もっともっと素敵だった。
「涼が俺を、俺が涼を想うように想って居ないなら断ってくれて構わないよ。ただ、諦めるつもりは無い。何度でも君に告白し、何度でも結婚を申し込む。四十になっても五十になっても、君が結婚しても、おばあさんになっても」
けれど静かに私に告げるその言葉はどんなドラマよりもどんな漫画よりわたしの心にずしんと落ちる。
彼の健康的な肌色が滲んでぼやけて見えて涙が出ている事に気づく。
彼の言葉ひとつひとつが残酷にそして確実にわたしに幸福を与えていく。
だからこの涙は喜びの涙だ。
自分から離れる決心をしたはずなのに心が、わたしと私と『私』が喜んでいる。
「本音を言えば涼の中にあるあの男が作った涼を見るのは怖い。それに誘惑されるのもそれを抱くのも、嫌だ。誰かと聞いたのは本音だからその答えは俺の中でも出ていない。綺麗事はもう言えないから、ね」
その言葉が喜んでいた胸をまた絶望へと追い遣る。
『私』がそれに動揺し私が失望しわたしはただ彼を見上げて見つめた。
わたしですらどれが本当の笹川涼なのかもうよく分からない。
それは恐怖でしか無い。
そのどうにもならない歪んだ愛情が、一番大事な人を傷付けてしまうのに一緒になんて怖くて居られない。
彼は多分、わたしの中の私を軽く考えている。
これ以上もう私で失望し、心を痛めないで欲しい。
だからまた首を横に振った。
「一緒には居られません。貴方が傷つくのは見たくない」
そう小さく呟けば彼は困ったような顔をした。
それから頭に乗せていた手でわたしの両頬の涙を拭う。
ゆっくり少し笑んだまま口が開いた。
「俺も涼が見えない所で傷つくのは見たくないんだけど。俺と別れて一人で泣くの?一人で後悔して泣いて、寂しくなったらそこら辺の手頃な男に抱かれて偽りの愛の言葉で満足するの?それとも自殺でもするの?俺が涼が居なくなって平気じゃないように、涼も平気じゃないんじゃないの?」
彼女から良い答えが返ってくるとは思っていなかった。
多分というか絶対否定されると思っていたから、覚悟していたより動揺しなかった。
自分でも別れを告げた相手にそんな事を言うのは馬鹿げていると思ってる。
彼女の顔色が変わって俺を見ているその目に色んな色が映る。
彼女の中に潜む誰かが垣間見える。
「引き留めたいから嘘を吐いているわけじゃないよ。さっきも言った通り断ってくれて構わない。涼が自分を許せないなら許せるようになるまで待つだけだし、自分の事が嫌いなら好きになるように手を添える。誘惑したくないと言うならされないように気を使う。触れて欲しく無いなら、もう触れない。何も話さないで欲しいならもう必要以外は何も話さない。抱いて欲しいならいつでも俺の好きなように抱いてあげる。全部確実にきちんとやるのは難しいけれど、努力するよ。涼が俺と居る為に努力してくれたように、俺が今度は努力する」
彼女がそうしたように俺はそうする事しか出来ない。
今までしているつもりでして居なかっただけだから、そうするだけ。
彼女はその言葉に固まった。
どの言葉がそうさせたのか分からない。
「今まで涼に言ってきた言葉は嘘じゃない。全部、本当の気持ちだった。けど今は嘘のように自分でも思う。だからもう一度今の俺の気持ち。……愛してるよ、世界中の誰よりも。だから君を理屈抜きに、本能的に欲しいと思ってる」
彼女が俺から視線を逸らして俯いた。
やっぱり駄目かとそう傷ついても彼女に見せない覚悟をした。
彼女のここまで決心させたのは、彼女に甘えただけの俺の責任。
分かっている振りをしていただけの、俺の態度がそうさせた。
「……おうちにかえりたい」
絶望的な気分を隠した俺に小さな消え入りそうな声はそう告げた。
幼い子供のようにただ静かに俺に彼女が俯いたまま言う。
それが肯定の言葉なのか否定の言葉なのか分からない。
けれど、もう、充分だ。
ちゃんと話を聞いてくれただけで充分、今、幸せだから。
「分かった」
もう一度だけ彼女をぎゅっと抱きしめてそれから浴槽を後にした。
嵩の減った浴槽の中、揺れるぬるま湯に小さな体がその動きに合わせて小さく揺れている。