12-13 俺と彼女と禅問答
「……駄目です」
小さく彼女がそう俺に告げて心が締めつけられた。
ぎゅっと締めているのは彼女との思い出だ。
そう聞いても手を離す事が出来ないのは未練だ。
「どうして?」
涼の指を確かめるようにその間に自分の指を入れていく。
本当に嫌なら手を握りしめれば良いのに彼女はそうしない。
「佐久間さんが汚れてしまうから」
言い訳のように俯いたまま小声で答える彼女の頭をじっと見る。
綺麗な形の小さなその頭に顎を乗せるのが好きだ。
「どうして?」
もう一度聞けば彼女は小さく首を振った。
答えたくないという意思表示にそれでももう一度訪ねる。
「どうして?」
俯き表情すら見えない今は彼女がどんな顔をしているのか何を思っているのかも分からない。
けれどきっと俺の事を想ってくれている。
「佐久間さんが汚れてしまうから、だから、駄目です」
またそう告げられてそれでもまた同じ事を尋ねる。
それしか言えない玩具のように。
「どうして?」
彼女がまた首を振りただ一言小さく漏らす。
「駄目です」
それにまた同じ事を告げる。
何度だって言える。
それしか言えないから何度だって言える。
「どうして?」
彼女が顔を上げて俺を見た。
眉を寄せ眉間に皺を作り、濡れた前髪が額に張り付き、目が潤み、その先には白い肌に紅梅の花弁。
「佐久間さんを汚したくないから、汚い私で汚したくないから。ずっと綺麗なままで居て欲しいから、だから、駄目です」
繋いで居ない手をそっとその頬に指先だけ当てた。
びくっと彼女がまた震えてそれをちらちらと横目で見て気にする。
嫌ならここを去れば良いんだ。
そうすれば俺だって諦める。
「どうして?」
柔らかく弾力のある餅のような頬に指先を寝かせ手の平も置く。
ちらちら見る目が少し見開いてそれから俺を見た。
「佐久間さんが汚れてしまうから、それは嫌だから、どうしても嫌だから、だから、もう駄目なんです。一緒に居れないんです」
笑みが自然に零れてしまう。
告げられているのは別れの言葉の続きなのに逃げないでこうやってちゃんと真っ直ぐ向き合ってくれる事が嬉しい。
「どうして?」
俺はひどく残酷な事をしていると思う。
その証拠に彼女の大きな目の焦点がずれる。
「汚いから、私は。だから一緒に居たら佐久間さんまで傷つけてしまうから。傷ついた佐久間さんは見たくないから、だから、駄目なんです」
言葉のひとつひとつは別れの言葉なのにそれは愛を告げる言葉だと思った。
そのひとつひとつに彼女の本当の気持ちが隠れている。
「どうして?」
同じ事を繰り返す彼に分かってもらいたくてただ説明をしているのに彼はずっとどうしてと尋ねてくる。
「傷つけたくないから、辛い顔をしているのを見たくないから、私のせいで泣いてほしくないから、だから、駄目なんです」
彼の顔の笑顔が深まり私の頬に当てられた手の平が優しく頬を撫でる。
それ以上は触れないというような意思表示に似たそれだけなのに心が喜ぶ。
「どうして?」
彼の穏やかな低く伸びのある綺麗な声がまた告げてきて唇を噛みしめた。
それからそれでも一緒に居れないんだと口を開く。
「佐久間さんには幸せになって欲しいから、だから、私はきっとなれないから、せめて佐久間さんだけでも幸せになって欲しいから、だから、一緒に居られないんです。一緒に居たら幸せになんてなれないから、だから駄目なんです」
彼の指が浮かんだ涙をゆっくり拭ってくれた。
たったそれだけ、いつもされている事なのに、そこに深い愛情を感じる。
「どうして?」
穏やかな綺麗な笑顔はいつも安心を与えてくれた。
それが一番好きだったし幸せだった。
けれど今は嫌だ。
決心が鈍って一緒に居たいと告げてしまいそうになる。
「わたしの事を忘れて幸せになって欲しいから、わたしには今までの貴方の言葉と好意だけで充分だから、一緒に居たら辛いだけだから。だから駄目なんです」
彼はまた笑う。
それからまた口を開く。
「どうして?」
その顔に首を小さく振った。
彼の手はそれでも頬から離れない。
もう少しと思った。
彼女の口から何を聞きたいのか分からないまま禅問答のように繰り返し尋ねる。
「汚い私と居たら幸せになれないから。たくさんの男の人に抱かれて、佐久間さんまでそうやって誘惑して、それでも体だけでも繋がりたいと願ってしまう私とでは幸せになれないから」
拭っていない方の目から涙が落ちた。
そっと顔を近づけてそれを舐めとれば彼女が息を小さく飲む。
手はどうしても離したくない。
顔を離してからもう一度聞く。
「どうして?」
舐められた頬を彼女が自分の手を伸ばして触れてそのまま涙を手の甲で拭った。
「私がそうやって誘惑したら佐久間さんが傷つくって分かったから。でもそれを抑える事が出来ないから。佐久間さんが私の体を求めてるって知ってしまったから。認識してしまったから。佐久間さんが私に触れないときっと不安になるから、だから、誘ってしまうから。そうしたら佐久間さんが傷つくから、だから、駄目です」
その言葉に息を飲んで笑顔を崩した。
彼女が言い切ってはぁはぁと肩で呼吸をしている。
パンドラの箱の中身を彼女は自分で話している。
「どうして?」
それでも尋ねる俺に彼女は目を細めて睨みつけてくる。
もう笑みは浮かべない。
「佐久間さんが一番大事だから、明が作った私なんかを抱かないで欲しいから。私は私が許せないから。そんな風にしか出来ない私が嫌いだから、臆病で怖がりで何も言えなくて、そんな時だけ、惑わせる為に自分から動く私が嫌だから、そんなの見られたくないから、だから、もう、嫌だ!一緒に居たくない!!」
敬語が消えた。
最後の方は怒鳴った。
頬に当てた手を彼女の空いている手が払ってきて湯にぱちゃんと落ちた。
「どうして」
その僅かな語尾の差に彼女は気付いただろうか。
さっきまではただ聞いていただけ、今のは違う。
その言葉の後に言えない言葉を隠した。
『どうして』そんなに俺を想うの。
彼女の瞳が一度見開いてからすごく細くなり目尻を上げて睨む。
「……佐久間礼を、愛しているから!自分でもどうしようも無いくらいに、貴方を愛しているから!だから、だから、もう傷つけたくないっ!!」
声を荒げて言うその言葉に俺は目を細めて笑う。
その言葉がただ聞きたかった。
だから今までいい加減だった覚悟を捨てる。
彼女に向き合い切れなかった覚悟、信じ切れなかった覚悟、幸せにすると言って裏切った覚悟。
それを全部捨てて新しく今度はきちんと本当に心の底から覚悟を決めた。
傷つくとか悲しむとか泣くとかそんな事彼女が居なくなる事に比べたらどうって事ないんだ。
俺はどうしようも無く半ば本能的に彼女を欲している。
だからどんなに嫌がっても泣いても怒鳴ってもその言葉を確かめたかった。
俺だけじゃないんだと確認したかった。
彼女が捨てられるのが寂しいと体で俺を誘惑するのがそれと一緒だと聞きたかった。
だから俺は、
もう迷わない。
もう逃げない。
もう逸らさない。
もう諦めない。
水中に沈む彼女の両手を俺の両手で掴む。
抵抗して引っ張るその手を引き寄せながら開いた距離を詰める。
彼女が睨んだまま逃げられないと分かってそこに居て、そのままゆっくりと唇を奪う。
目が見開き逃げる顔を背けた彼女に静かに俺の覚悟を告げた。
「涼、結婚しよう」
彼女は睨んだ表情を崩して顔を戻し俺を開いた目で見てそのまま固まった。