12-12 私と彼の答え
何か思うより先に勝手に動いた。
それに彼女との間の水面が揺れる。
こういう場所の浴室は暗い。
薄暗く光を抑えて、けれど浴槽の底が光ったりしている。
ここも同じように薄っすらと下から光が漏れていた。
揺れた水面がその光を受けて壁に模様を作る。
屈折したいくつもの線が揺れて動く。
「礼?駄目です、もう、駄目」
抱きしめた小さな涼が俺の腕の中で小さく言う。
その声には感情は乗っていない。
無機質でそれでいてはっきりと耳に残る。
返事は出来なかった。
どうしてそうしてしまったのかも分からなかった。
けれど、手を緩める事も彼女を解放する事も出来ない。
「礼、離してください。お願いだから離して。もう、終わったんです、私達はもう恋人じゃない」
もがき始める彼女の動きを止めるように力を込める。
彼女が体を精一杯揺らしその動きで水面がまたゆらゆらと揺れる。
別れたくないんじゃない。
離したくないんだ。
何も分かっていないし、何も解決していない。
もう彼女を愛しているのかすら自分でも分からない。
それでも、彼女を離したくない。
「礼、……佐久間さん、離してください。お願いします。もう充分ですから。充分、幸せにしてもらったから、もう、良いから」
その言葉に知らず知らずのうちに止めてしまっていた息をいっぺんに吐き出す。
ゆっくり足りない酸素を深く吸い込んで吐き出す。
幸せになんてしてない。
まだ全然してない。
辛い目にしか遭わせてない。
そのまま彼女の肩に顔をゆっくり埋めていく。
びくりとその体が震えてまた力を込めた。
壊してしまう程強く抱きしめて唇を耳に寄せる。
こうしないと言えないのは怖いからだ。
自分の思いを伝えた時に彼女がどんな顔をするのか見たくないからだ。
こんな時まで俺は臆病で彼女に甘えている。
それでいて口を開けても言葉が出ない。
何をどう言えばいいのか分からない。
けれどこのままじゃ彼女が居なくなる。
「……っ、……、……」
声にならないような小さな吐息じみた言葉を言えば彼女はえ?と呟き動きが止まった。
歯を噛みしめて荒く呼吸をしまた告げられるチャンスがある事がただ嬉しかった。
「……こ、……も……ない、……」
それでも声は掠れて出ない。
俺は今彼女に言葉を告げるのが初めて怖いと思っている。
失うのも嫌われるのも全部、本当に、すごく怖い。
耳元で二回言われても何を言われているのか分からなかった。
ただ彼が苦しそうにしているのは分かって心が痛い。
わたしも私も『私』も、彼にそんな風にして欲しくない。
多少は覚悟していた。
彼が『私』を愛してくれていたのは知っていた。
けれどもう『私』だけじゃなく私もわたしも見たのだから、少し渋っても同意してくれると思っていた。
彼の行動は予想外だった。
そのまま浴室を出ていくと思っていた。
「佐久間さん?聞こえない。怒らないからちゃんと聞こえるように言ってください」
彼の口から出るのが罵倒でも何でも受け入れるのは当たり前だと思う。
酷い事をしたのは彼じゃ無く私の方なんだから。
耳元に息が掛かる。
ごわごわっと音が籠ってやっぱり聞こえない。
「佐久間さん、顔、上げて。ちゃんと言ってください」
そう言えばその首を左右に振る。
そんな事されたら困る。
もうきっぱり諦めて彼の元を去るつもりだったんだ。
それがわたしにとっても彼にとっても幸せなはずだ。
もう悩んだり泣いたり心を痛めたりしなくて済む最良の選択のはずなのに、どうして彼は私を抱きしめて離してくれないんだろう。
彼が息を吸いまた吐きながらゆっくり声を出す。
小さく小さく、何か物音がしたらすぐにかき消されそうな声に耳を澄ませる。
次を最後にしようと思った。
二回言ってちゃんと言えなかったのは涼が言う事が正しいとどこかできちんと分かっているから。
俺も彼女も充分すぎるほど傷ついて傷つけて、慰め合って一緒に居ないといけないと思い込んだ。
一緒にいないといけないじゃ無くて一緒に居たいだったのに、いつの間にか変わってしまっていたんだ。
息を吸って口を開く。
告げるのが怖くて怖くて、眉を寄せて眉間に皺を寄せる。
ど、こ、に、も、い、か、な、い、で
それでもひとつずつ呼吸音のように漏らす。
そのどれだけが彼女の耳に脳に心に届くかは分からない。
でももう強く言う事もすがるように言う事も出来ない。
彼女はあえて自分から別れを告げたんだ。
明に捨てられて壊れる程苦しんだ彼女が、俺が傷つかない事だけを願って、わざわざ言いたく無い、聞かせたくない言葉を選んで俺に別れを告げた。
それ以上の愛情なんて俺は知らない。
世界中のどんな女が俺を愛してると囁いてもそれには勝てない。
彼女が小さくえ?と呟いてそれから顔を横にずらそうとする。
目が俺を見て丸く開いた。
どうか伝わっていてくれと願い、どうか伝わらないでくれと願う。
もう傷つくのも傷つけるのも、痛みを与えるのも痛みを与えられるのもたくさんだ。
もっと、もっと、本当は君を幸せにしたかった。
もっと、もっと、俺の側で笑って欲しかった。
もっと、もっと、一緒に笑って幸せになりたかった。
顔がゆっくりとほぐれて彼女を見たまま本当に自然に笑みが零れた。
視線の先で彼女がちゃんと俺を見ていてそれだけで嬉しかった。
彼の言葉が耳に届いた。
さっきと変わらないくらい掠れて聞き取りにくい言葉だったのに耳を澄ませたからかちゃんと聞こえた。
それは心に、わたしに、私に、『私』に、届く。
どうして。
やっぱり。
でも。
それぞれがそう思った。
心臓が高鳴り鼓動が速くなる。
聞きたく無かったと嘆き、聞いて良かったと喜び、聞きたかったと安堵する。
そっと横を向き彼が顔を少し上げて目が合った。
その顔が苦痛から安らぎにゆっくり変化して穏やかに笑う。
瞬間的に息を大きく飲んでしまった。
その顔が好き。
その顔を愛してる。
その顔をもっと見たい。
その顔で私を見て欲しい。
彼が顔を離して私を見てまた口を開き声を出さずにゆっくり告げる。
どこにもいかないで
たったそれだけの言葉がわたしにとっては何物にも代え難い許しの言葉に思える。
歪んだ愛情を見せたわたしを彼はそれでも欲しいと言う。
それ以上の愛情をわたしは知らない。
何人何十人の男に抱かれて好きだと甘く告げられてもそれにはとても勝てない。
だからこそ首を振った。
こんなに優しくて穏やかで綺麗な彼を歪んで腐って汚く醜い心で縛り付けてはいけないのだと思うから。
彼が私の手をそっと取ってきてびくりと体が震える。
触られたらそこから許してしまいそうだ。
心を曝け出し許して同意してしまいそうで引っ込めようとすれば彼は強く握りしめたまま離さない。
「どこにもいかないで」
湯に沈む繋がった手を俯いたまま見つめていれば彼は今度はきちんと声に出して低くそれでいて伸びのある綺麗な声で私に告げた。
穏やかなただわたしへの愛情だけが籠った笑顔がわたしを見つめている。