12-1 私と彼と二人のルール
彼と私と日曜日
初出社を果たしてから二回目の日曜日。
私と暮らす前はその日も仕事をしていたという礼は祐樹さんに言われた事と私と一緒に居る事を優先してくれて日曜日は休みになった。
どうしてもという理由が無ければ仕事はしないらしく携帯もマナーのままリビングのテーブルに放置している。
ううっと呻いて目を開ければもう昼過ぎだった。
慌てて起き上がり隣を見れば当たり前だけれどそこに彼は居なかった。
デッキシューズを引っかけ慌ててパジャマのままリビングへ向かえばカーテンレールにたくさんの洗濯バサミが付いている長方形のハンガーを設置している所だった。
「ご、ごめんなさいっ。寝坊しちゃった」
慌てて駆け寄ればすっかり着替えも済んで多分お風呂にも入った彼が爽やかに笑う。
それから洗濯籠から洗ったばかりのそれを取り出し洗濯バサミに付けていく。
「いいよ、別に。慣れない仕事で疲れてるんだし。ゆっくりしてて」
靴下を一組にして挟みながらそう言われ顔を真っ赤にして俯いてしまう。
別に家政婦でもなければ妻でもないのだから、家事を強制されたことは無い。
けれど、養って貰ってる以上やらないといけないと思っていたのだ。
「とりあえず着替えておいで。ずいぶん春めいてきたからどこか出掛けよう」
頭をぽんっと軽く撫でるその手は洗剤の香りがした。
それに素直に従い小さくもう一度謝ってから部屋へと急いで戻る。
手足と体と顔の痣はすっかり消えた。
酷い所はまだ少しくすんだ色をしているけれどよく見ないと気付かないレベルになった。
自室に入りパジャマを脱いでクローゼットを開ける。
プラスチックの引き出しから風呂上りに履いた下着とお揃いのブラジャーを出して着けて黒タイツを取り出し履いた。
それから顔を上げ、左のポールを見る。
両方にあるポールには仕事用とプライベート用、それぞれ分けて掛けてあり見上げたそこから薄手のオフホワイトの丸首のロングTシャツとデニムのミニスカート、外し着替える。
こたつに置いたままのブラシを取り髪を軽く梳いてから手首に付けっぱなしだったベージュのシュシュで左でまとめて胸の前に垂らしそれから洗面所へと向かう。
洗面所に入れば洗濯籠はすでにそこにあって終わったのだと急いで歯磨きと洗顔を済ませた。
どこかへ出かけるというのなら化粧をしないといけない。
自室へ戻りこたつに座ってカバのポーチを探す。
昨日は会社だったんだと気付きベッドの上に放り出したままの少し大きめの合皮の茶色のトートバッグからそれを取りだした。
はみ出た赤い手帳をきちんとその中に戻す。
結局あの小さなエナメルのバッグでは手帳が入らなく、次の日の帰り道にデパートに寄って店員の視線を避けるように一番安くて大きめの鞄を買った。
カバのポーチを改めて開き下地をちゃんと塗ってからファンデーションを伸ばす。
仲良くなった会社の女の人がくれたピンクのアイシャドウを指で瞼に塗りセットになっているチョコレート色のそれも重ねた。
マスカラを塗りチークを広げ口紅はローズを塗った。
それから立ち上がりパンパンと服の埃を払ってクローゼットからエナメルのバッグを出しパウダーと携帯とハンカチ、財布だけ入れてミルクティ色のショート丈の裾が広がっているコートを出す。
それを羽織って茶色のショートブーツを履いた。
脇のファスナーを閉めそのままリビングへ行けばウールのショート丈の詰襟のジャケットを着て煉瓦色のマフラーを巻き、ジーパンを履いた彼がテレビを見ながら頬杖をついていた。
「お待たせしました」
そう告げれば振り向いて笑みを浮かべテレビを消す。
立ち上がり彼の足元には大きな焦げ茶色のなめし皮の靴が見えた。
「いえいえ、待ってませんよ。テレビを見るくらい待ったりしてませんから」
彼らしい丁寧な言葉の嫌味を受けにっこり笑ってから口を開く。
「怒ってるなら怒ってるって仰って構わないですよ、社長」
これは最大級の嫌味だ。
その言葉に彼は微笑むのを止めてそのまま私の側に来た。
それから額に長い指を折り曲げて当てぺちんと弾いてくる。
衝撃と痛みに片手で押さえ睨めば仕返しと言う。
「別に怒ってない。それに家でそれは絶対無しって約束でしょう」
あれから二週間が経ってその間に二人で決めたルールがある。
まず私から出した条件は二つ。
会社の中では涼と呼ばない事。
家事をおろそかにはしたくないので先に退社する事。
これは両方とも彼はすんなりと受け入れた。
むしろ言いだしてくれてよかったとまで言ってくれた。
彼が出した条件も二つ。
会社を出て家に入ったら絶対に自分の事を社長と呼ばない事。
仕事と家事に無理をしない事。
曰く両立なんて大変だから家事は手を抜いても良いと言う。
私が納得できるレベルまでやってくれれば良いからその分自分を大切にして欲しい。
その二つを私は了承した。
それから二人で決めた事。
家事は私だけでなく礼もやる事。
クリーニングはまたコンシェルジュに頼む事。
夕飯はなるべく一緒に取る事。
朝は私が先に出るので用意された食事を彼が自分で取る事。
家では必要な事以外仕事の話をしない事。
名前で呼び合う事。
今までと同じように接する事。
とにかく仕事とプライベートを少しでも分けたいと言う彼に私は納得し同意した。
私だって家で仕事の話ばかりされたら気が滅入る。
どちらかと言えば礼の意見を重視したそれだったけれど実際に暮らしてみれば今までとあまり変わりが無い。
少しだけ私の生活のリズムが変わっただけ。
だから寝る時も、タイミングが合えばお風呂だって一緒だ。
あれから本当に礼は私の体を抱こうとはしていないからそう言った意味でも本当に全くほとんど一緒だ。
「だって、礼が意地悪言ったんじゃないですか」
そう言って睨めば言ってませんときっぱり言われてそれ以上何も言えない。
痛む額を前髪を分けてさすれば彼は手を差し伸べた。
「ほら、行くよ」
それを握り返しながら一番最後に決めた約束を思い出す。
彼の手が私の手をしっかり握りしめ日の当たる明るいその部屋を出て玄関へ向かう。
ドアを開け外に出れば確かに本当に冬の匂いから春の生き生きとしたそれに変わりつつある。
「本当にいい天気」
呟き彼が鍵を掛けるのを待っていればそうでしょと声が掛かる。
掛け終わった彼が私を自分の体に隠して私の額にそっと口付けた。
それから何も無かったように歩きだし、今度は違う意味で慌てて繋いでいない手でそこを押さえる。
別に何ともなっていないのに。
けれど顔はどうしても笑ってしまった。
恥ずかしいより嬉しかった。
最後にした約束は二人だけの時はきちんと恋人に戻る事、だった。