11-13 安田明子と田中美沙ときっかけ
ぐぁっぐぁっと間抜けなアヒルの鳴き声は私のパソコンにメールが届いた事を示す音だ。
少し広いとは言え四方、窓までも潰して本棚が置いてあるこの部屋で田中美沙という同僚と私、安田明子は二人だけで日々仕事をしている。
田中は一年後に入ってきた後輩に当たるが彼女は本当に経理しかやらない。
経理は大変そうだけれど他の仕事を全部やっている私に比べたらそうでもないだろう。
現に彼女は今楽しそうに笑いながらパソコンを操作している。
社長や他の社員と違い私達の前にはデスクトップのパソコンが置かれている。
外に行く事が無い分性能の良い物を置いてもらっている。
「ねー、ねー。明子も見てよ」
そう言われても私は忙しいのでほぼ全部無視だ。
それでもめげずに話しかけてくるその姿には驚かされる。
彼女はふわふわっとゆるく巻いたパーマの掛かった髪につけまつげ、長い爪、甘い匂いの香水。
今時の若い子そのまま。
年はひとつかふたつしか離れていないのにそんな風に可愛くなれるのがますます気に入らない。
「明子ってばぁ、もうー。そんな顔して睨むと新製品のお菓子あげないよ」
じゃんっと鞄から出すのはコンビニで売っているらしいお菓子。
そんなもの興味ないしますます太ってしまうからまた無視。
仕事中だと言うのに封を開けぱくぱく食べ始める。
そして大声で笑う。
構わずメールを開けばそれは社長からでたくさんのフォーマットの提出書類と彼らしからぬ丁寧な一文。
あの新しく秘書という生贄になった女性からだ。
私はひとつ上のフロアとあまり交流がない。
普段はここに閉じこもりそのまま帰ってしまう。
社長は面倒な事全部やっているんだから、残業なんてしないで良いとバレンタイン前の大仕事も混ぜてくれなかった。
だから彼の家でやっているらしいパーティも、居酒屋の飲み会も全く参加しない。
誘うメールは黒井からよく来るが無視。
添付された書類ひとつひとつを確認し、写真を忘れていたと内線を掛ければ穏やかな声が響く。
伝言し目の前の2台のパソコン越しに彼女が私を見ていた。
「やだ、明子ったら。社長と話してご・き・げ・ん」
その言葉にいつの間にかにやけていた事に気づきそのまま口元を戻す。
彼女は私が彼にひそかに想いを寄せている事をもう知っている。
態度でバレバレだったらしく二人だけで行った忘年会で吐かされたばかりだ。
私が参加しないならしないと彼女もまた蚊帳の外を楽しんでいる。
「うるさいわね、仕事しなさいよ」
一応先輩面してそう言えばはーいと馬鹿にしたような返事。
そのまま無視してパソコンに向かう。
御馴染の名刺会社とカード作成会社に依頼するためのテンプレートを作る。
その後、別のフォルダをデスクトップから開いてリストを出す。
2階の倉庫の中の備品がそこには数量と共に書いてある。
「ねー、ねー。秘書どんな人だった?」
チョコレートのお菓子を食べ終わり床にひとつだけあるゴミ箱に入れてから彼女がパソコンにむかった。
やっと仕事をする気になったらしい。
机から愛用の大きめの電卓、様々なキャラクターがボタンの数字にも貼られ鬱陶しいそれも出している。
ほっとしながら顔には出さないでそうねと呟く。
リストを見ながら目当ての物をどんどん探していく。
備品には全部番号が振ってありそれが今どこにあるのか分かるようになっている。
「すごく華奢な人だったわ。でも真面目そうよ」
番号をメモしながらそう答えればへーっと声。
カタカタと電卓をたたき次にキーボードを叩いていく。
「可愛い?」
「多分ね。男じゃないから分からないわ。どうしてそんな事聞くの?会いに行って来ればいいじゃない」
メモを取り終えリストのその品目の横に社長室と文字を入力しながら聞けば彼女から音が止まった。
私をじっと見ている気配に手を止め顔を上げれば意地悪そうに笑うその顔のまま彼女が言う。
「なんかね上の人に聞いたんだけど」
上の人は上司ではなく言葉通り上のフロアの人だろう。
なんだかんだいってまだ若くノリも良い彼女は男性社員と仲が良い。
領収書やらの間違いを指摘してくるついでに世間話もしてくる。
「彼女らしいよ、社長の。明子可哀想ー」
笑いながら言うそれは嫌みだ。
私なんかでは社長に釣り合わない事もよく分かっている。
だから憧れるだけで良いと言った。
それを分かっていて女として私を見下したその言い方に目を細めた。
「だから何。別に付き合いたいなんて思ってないもの、構わないわ」
「またまたやせ我慢して。泣いてもいいのよ、慰めてあ・げ・る」
それをまた無視してパソコンに迎えばコンコンと遠慮がちなノック。
どうぞとドアに近い私が言えば入ってきたのは話題のその人だった。
「あの、写真を撮ってきたので」
お願いしますとエナメルの小さなバッグから出してそこには4枚の笹川涼。
どれも少し不安そうな顔をしてこっちを見ている。
結構厚化粧よねと思いながらそれを受け取った彼女に机の下から紙袋を差し出した。
「え?」
受け取ったそれを開かせ机の中から支給品のボールペンを4本入れる。
それから他の引き出しを開けて糊や鋏クリップにホッチキス、メモ用紙なんかをばらばら入れた。
「要らないからあげるわ。邪魔だから使ってください」
そう告げれば不用品を押しつけただけなのに本当に嬉しそうに笑ってから私と田中に頭を下げて出て行った。
足音が遠くなりすっかり綺麗になった引き出しを閉めれば待ちかまえたように田中が口を開く。
「え、ねぇ、今の人?本当に?」
その驚いた様子に頷けばふーんと言いながらまたパソコンに向かった。
しばらくお互いの仕事する音だけが響いてそれから彼女の手が止まった。
「あの人さ、厚化粧だったけど、あの顔の下、痣じゃないかな。友達に居るんだ、彼氏からDV受けてる人」
その言葉に顔を上げてしまった。
それから彼女はまた顔を下げそのまま仕事を続けている。
DV?
ドメスティックバイオレンス?
社長が?
そんな、まさか。
そう信じられない気持のまま立ち上がり本棚にハンガーで掛けていたコートを手にする。
顔を上げた彼女に名刺と社員証を依頼に行ってくると告げ色気もへったくれもないただ黒い合皮の鞄を持って外に出た。
心臓がバクバク言っていた。
けれどもっとバクバク言うのは帰ってからだと私は知らなかった。
依頼を駅前で済ませ戻ればそこに田中は居なく付けっぱなしのパソコンだけが暗い部屋の中点いていた。
まったくと画面だけでも消そうとそこに回って言葉を失う。
持っていた鞄を落としてしまった。
モニターに表示されていたその1枚の大きな画像。
どこか如何わしいサイトの無修正の画像。
そこには目隠し線もモザイクも無かった。
それを見て沸いたのは疑問より怒りだった。
社長と付き合いたくないなんて言ったのはただの嘘。
本当は恋人になりたいに決まっている。