11-11 私とコード番号とボールペン
それから賃金の支払い方法や締め日、賞与無し、定年有り、再雇用無し、退職金無し、給与からの控除を言われるがままチェックを書いていき、全部が埋まってから安田さんに渡せば見返してから頷いてくれた。
「ではここに印鑑をお願いします。シャチハタ以外の苗字であれば何でも構いません。……社長、ぼーっとしてないで朱肉持ってきてください」
その言葉にごめんと立ちあがり机の前に立ち手を伸ばして彼が小さな朱肉を持ってくる。
その蓋を開けて私の横に置き、それを受けてバッグから財布を出し小銭入れの部分に入れてある百円均一で買った小さな黒い細長いそれを出した。
契約書の一番下には社判が押され事業主の欄は空欄のままだ。
その下の労働者の所に名前をまず記入した。
それから朱肉に印鑑をぽんぽんとしてから手が止まる。
「どうかされましたか」
安田さんにそう言われて顔を上げた。
礼を見てごくりと喉を鳴らしてから彼女に向かって口を開く。
「本当に良いのか、迷ってしまって。みなさんにご迷惑をおかけするのではと心配になりました」
そう告げれば彼女はあっさりと契約書を引っ張り向きを変えて礼の前に置いた。
それから彼を見上げる。
「これで構わなければ署名捺印を。何か問題があればこの場で訂正しますので」
彼が上から下まで目を通しにこにこと笑った。
それから躊躇う事無くボールペンを出しさらさらと綺麗な字で署名し一度立ち上がってから私のとは違う立派な印鑑を名前の横に押す。
紙を捲り同じ所に押し、また捲って押した。
その間中印鑑を押す態勢のままそれを見つめてしまった。
彼女がそれをまた私の方に向けて顔を見てくる。
「後は笹川さんだけです。引き返して頂いても構いませんよ。貴方の捺印がなければただの紙ですから。ですが……、私は貴方のようなしっかりした方に厳しく社長を管理していただきたいですね。黒井と私の負担が確実に軽くなりそうですから。これだけはお約束します。社長の面倒をすべて見ていただけるなら全力でバックアップ致します」
それに吹き出してしまった。
くつくつと笑いを堪えそのまま自分の名前の横に印鑑をきちんと押す。
彼と同じように残りの二枚に押すまでずっと笑ってしまった。
私の笑いなんてどうでもいいようにそれを受け取って確認した後、三枚目をだけ剥がして彼女は他の紙と一緒に渡してくる。
「きっとすぐに笑い事では無かったと認識されると思いますよ。何はともあれよろしくお願いします」
その言葉に笑うのを止めて受け取り差し出された手を握り返した。
女性らしい柔らかい暖かい手だった。
安田が居なくなればまた吹き出す涼に呆れてしまった。
緊張が急に解けたのだろう。
「ほら、いつまでも笑ってないで。パソコン貸すから申請しちゃって。名刺と机と椅子それに社員証も、ボールペンは後で取りに行ってくれれば良いから」
アダプタに繋いでいたパソコンをテーブルへと移しそう言えば笑いながらはいと答える。
社内ネットワークのトップページを開きそこからフォーマットを開いてやり書き方を教える。
「涼の番号はえーっと、ちょっと待ってね」
そう断り一度ウィンドウを閉じてからメールを探し安田から昨日付けで送られたそれを開く。
そこに書かれた文字を読み上げれば彼女がそれをまた手帳にメモした。
「一、四、四、二、ですね。んんっ、これは覚えやすい」
メモをした彼女がおおっと声を上げ隣に座った俺の方を見た。
その意図がよく分からず首を傾げれば書いた番号の下に振り仮名を振っていく。
1442
ひしょしつ
「本当だ。偶然だけどすごいね」
そう言えばくすくす笑いそのままパソコンのマウスを取られた。
カチカチと俺の教えた通りに操作し社員コードを入力してメールに添付していく。
一度教えればあとは自分で出来ると言いネット上のフォルダからフォーマットを探してどんどんこなしていった。
「何でも出来るね、本当に」
これじゃ出る幕ないやと机に戻れば何でもやりましたからと答えが返ってきた。
すべて終わったらしく畳んだノートパソコンにマウスを乗せて持ってきたをれを受け取れば内線が鳴る。
机にパソコンを置いて受話器を取り耳に当ててマウスを下ろし画面を開ける。
電源は入ったままなのでメーラーを開きながら返事をする。
「はい」
『安田です。笹川さんの写真無いので撮ってきてもらってください。駅前に無人自動撮影機がありますから』
伝えておくよと受話器を切ってそのまま伝えれば分かりましたと衝立の向こうに消えジャケットを着てバッグを持った。
「寒いから俺のマフラーしていきなさい」
そう言えばちいさく、はい、と答えてまた衝立の向こうに消えた。
エレベーターで一階まで下りて外に出ればひゅっと昼間にも関わらず風が冷たくてコートを持ってこなかった事を後悔した。
朝、コートを着ようか迷っている間に声を掛けられてそのまま出てきてしまった。
普段なら防寒はきちんとする方なのにやっぱり緊張していたんだろう。
駅までの道を急ぎ写真を撮って領収書のボタンを押せばそれらが出てきてバッグへとしまう。
仕事中なのだからとまた急いで帰れば不意に声を掛けられた。
「すみません」
立ち止まってしまったのはきっと長い事接客業をやっていたからだろう。
振り返ればきちんとした身なりの中年の男の人が立っていた。
よほど困っていたのだろう、眉が下がり額には汗もかいている。
向き直りどうかされましたかと尋ねれば駅までの道を尋ねてきてあまり離れていないからと手振り身振りを加えてそれを伝えた。
「いや、ありがとうございました。そうだ、親切にしていただいたお礼にどうぞ」
そう差し出されたのは全く知らない会社名の入ったボールペン。
黒いプラスチックだけで出来ているシンプルな物。
「いえ、大した事してませんから」
と手を振って断ればまだたくさんあるので大したものじゃないからと押しつけられてしまった。
確かに彼の持った紙袋にはそれがたくさん入っていたのが見えた。
「では急ぎますので。本当にありがとうございました」
頭を下げて去っていく後ろ姿を見ながらそれをバッグにしまって会社へと向き直り足早にそこを去った。