11-9 俺と彼女の初出勤
翌朝、買ってもらったばかりの服に身を包んでしっかりと厚化粧をした。
だいぶ赤みが引いたとは言えまだ痣は顔に色濃く残っている。
「準備出来た?」
その声に開いていたドアから彼が顔を出しすっかりサラリーマンの顔をしている。
こくこくと頷けばじゃあ行こうかとその顔が引っ込んだ。
いつもと違うのは手を差し出して来ない事だ。
すこし寂しい気持ちになりながら部屋から出て低めの黒いパンプスを履く。
「ガス消した?」
とんとんとつま先を入れていればそう言われ、はい、と返事。
それから思い出したように口を開く。
「電気消しました?」
「消した消した。窓のカギは?」
「昨日帰ってきて開けてないから閉まってます」
互いに言い合い顔を見合わせて笑ってしまう。
長年連れ添った夫婦のような会話だ。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい。いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
いつもは見送るだけだったのにそれが見送られると言うと変だけどそう言われれば恥ずかしい気持ちになって誤魔化すように笑いそのまま家を出た。
うちはそんなにかしこまった会社じゃないからと鞄は派手じゃなければなんでも良いらしくいつものエナメルのバッグを持った。
普段持ち歩かないカバのポーチも入れたので少し膨らんでしまっている。
家政婦という仕事を辞めてからずっと彼がくれる生活費+お小遣いで暮らしてきた私には気後れして鞄までは中々手が伸びずにいた。
最初のお給料でもう少し大きいバッグを買おう。
廊下を歩く彼の後を追いそう思いながら少し足を引きずった。
酒井さんの車に一緒に乗り込みこうやって毎日通勤するのだろうかと思う。
けれどそれも少しおかしい。
電車でもそんなに時間の掛からない距離なんだから、交通費を出して貰えるよう頼んで先に行った方がいいかな。
「何考えてるの?緊張してる?」
長く伸びてしまった前髪を後と横に流し洗って髭を剃ったばかりのつるんとした顔をした彼が聞いてきて首を振った。
彼の顔の方がずっと緊張してる。
眉間に小さく皺を寄せているのを多分気づいていない。
「そんなに、初めて伺う場所でも無いですし」
答えながら自分の額に指を当てれば意図が分かったらしくあーと小さく呟いてそれをほどく。
「明日からは電車で行こうかと思うんですが交通費は出ますか?」
そう尋ねれば少し意外な顔をしてけれど出しますよと答え。
それにほっとしてからバッグから手帳を出し携帯で調べて一カ月の定期代を書きこむ。
なんでも書かないと忘れてしまったりするからだ。
「社会人気分味わいたい?」
その様子を見ながら彼が手を握り口に当てて笑う。
ペン先をしまい手帳のペンホルダーにしまってからそれをバッグにしまって首を振る。
「いくら周知の仲とは言え、社長と秘書が一緒に通勤はあまり喜ばしい事ではありません。働くならきちんとそういう点を留意しないと」
「そういう所本当に真面目だよね、誰も気にしないと思うけど」
その言葉にちょっとむっとして少し顔に出てしまう。
みんなそんなに真面目真面目って言うんだろう。
地雷だったか、と彼女のむっとした顔を見て思う。
今日は昨日買った黒いシフォンのスカートと薄いピンク色のレーヨンの襟が丸くなり金ボタンがついているブラウスに黒いジャケットを着ている。
俺があげたネックレスとピアスは外してきたらしい。
「ごめん。馬鹿にしてるわけじゃないよ」
そう告げれば分かってますと一言返ってくるだけだった。
機嫌治らないなぁと眉を下げれば車が止まる。
一人だと暇な時間も二人だとそうでもない。
けれど明日からはまた一人だ。
電車通勤するという彼女の言葉を快く受け入れたわけじゃない。
やっぱり一人にしてしまうのは不安だ。
「さて、行こうか」
酒井が開けてくれたドアから先に出れば小さく頷いてようやく彼女の顔に緊張の色が見えた。
降り立ち俺が先を歩いて社へ入る。
自動ドアの前で立ち止まり、時間外はここにセキュリティカードを当てるんだよとか受付嬢の紹介を改めてし、エレベーターでは大体何階から何階からが何の倉庫になっているかを説明する。
その度に手帳に書き込むその姿に、彼女が苦労してきた事が窺えた。
一度皆が居るオフィスに立ち寄り中に入る。
気付いた者から挨拶をされそれに返しながら祐樹の所へ向かえば彼は立ちあがり涼に握手を求めた。
「お、来たな。改めてよろしくな」
にやっと笑うその手を彼女が嬉しそうに微笑んで握り返す。
それから俺に彼が頷いてみせ手が離れた所で彼女の肩を後ろから掴んで半回転させる。
「皆に改めて紹介するけど、笹川涼さん。今日から俺の秘書になってもらいました」
通るように大きな声で紹介し彼女の肩から手を離せば深くお辞儀をする。
下ろしている髪が肩から前に垂れた。
「ご紹介に与りました笹川です。右も左も分かりませんが一生懸命頑張りますのでご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」
そうきちんと挨拶すれば周囲は暖かい拍手で彼女を迎えた。
階段でひとつ上の彼のオフィスに一緒に向かいほっと息を吐く。
よかったちゃんと噛まないで言う事が出来て。
「やっぱりほんの少しだけ緊張しました」
そう前を歩く大きな背中に言えば肩を震わせて笑っている。
それに恥ずかしくなり俯けば階段の終わりが見えた。
彼がドアを鍵で開けそのまま先に入る。
その後に続きちゃんとドアに向いてから音が立たないように閉めた。
「さて、まずは契約書と雇用条件から決めようか」
机に向かい鞄をその側に置いてからコートを脱ぐ姿にバッグを腕に掛けて歩み寄りそれを受け取ろうと手を出せば脱いだまま渡され急いで衝立の向こうのまるで枯れ木のようなポールハンガーに掛ける。
自分のジャケットもそこで脱いでハンガーをお借りして掛けた。
それからひとつだけ素早く深呼吸をして衝立で区切られた空間から出た。
彼はどこかに電話を掛けていてそれが終わると私にソファに座るように勧めてくれその言葉に素直に従い、彼が向かいに座るのを見届けた。