11-8 二人の決断
漏れて聞こえたその怒鳴り声と言葉にただただ涙が出た。
電話を切りため息を吐いてハンドルに頭を預けた彼から手を離してしまう。
それを横目で彼が見てそれでも笑った。
「ごめんね、恥ずかしい所見せて」
その言葉に首を振れば繋いでいた手で涙をぬぐってくれる。
その手がさっきまであんなに温かかったのにもう少し冷たくなっていて驚いて目を開いた。
「涼が見たのはどんな写真?先に言っておくけど俺も写真を見た」
ハンドルから顔を上げて彼がそのまま真っ直ぐ前を見つめて言う。
視線の先には楽しそうに笑いながら両手いっぱいの荷物を持った恋人達や夫婦。
「私が見たのは二人で一緒に居る所と、手を繋いでいる所と、抱きしめられている所……だったと思います」
涙を自分の手の甲で拭いまだ残る痣を隠すようにタートルネックの袖を引っ張る。
「そう、俺が見たのは涼が……性的暴行を受けた後の写真。辛いだろうから詳しくは言わないけど体の仔細が分かるように写ってた」
あの朝明が私の体を撮っていたのを思い出し身震いする。
じゃあきっと無理矢理キスしている写真も礼は見ているんだ。
「涼が見たのと俺が見たのを合わせて送っていたとしたら、ちょっとまずいね」
そう呟き伸びをして車の天井に両手を着く。
そのまままたため息をつく彼を見ながら口を開く。
「……やめましょうか」
その言葉に彼が腕を下ろして私を見つめた。
その視線から逃れるように俯き二人のシートの間を見る。
ポケット部分には小銭が入っていてぼんやりと数えてしまった。
「何を」
穏やかではない口調で聞かれ百円と五十円を数えた所で目が止まる。
彼の手が私の顎に伸びて上を向かせた。
「ちゃんと、見て。何をやめるの」
唇が震えた。
告げたらきっと彼はそれを否定する。
そして傷つくだろう。
彼が目を細め笑みを止めて口を開く。
二人だけしかいないのに誰にも聞かれないように囁くような声だ。
「秘書をするのを?それとも別れるってこと?どっちも許さないよ。涼と一緒に居ると決めたのは俺なんだから、そんなつまらない俺の家の事情で、涼が俺から離れていくのは絶対に認めない。それとも遊びのつもりで俺と付き合ってたの?」
その言葉に自由にならない顔を横に小さく振った。
震える唇を一度痛いくらい噛みしめてから口を開く。
「私も覚悟してます。礼と付き合う事になった時に隠し通す覚悟も、分かってしまった時に礼が離れていく覚悟も、結婚に反対される覚悟も、貴方に相応しくないと言われる覚悟も、両親に知られる覚悟もしました。佐久間の名が想像以上だったのは認めます。けれど遊びのつもりなんかで付き合ってません。嫌な事も嬉しい事も全部、礼が一緒に居てくれるなら大丈夫だって」
そこまで言って一度口を止めた。
瞬きするたびに流れて鬱陶しい涙を両手で拭う。
じっと待つ彼のその目をしっかり見つめたまた口を開く。
「そう思ったから、私も一緒に居る覚悟を決めたんです。でも、礼が傷つくならそれは私の望む形じゃない。だから、止めた方が良い時だってあると思ってる。それが今なら、今なら……傷つくだけなら今のうちにやめましょう。お母様に仰ったように何も無いただの雇用関係で構いません」
礼の目が見開いてそれからゆっくり閉じた。
こんな風に想ってくれる相手にこんな事を言わないといけないなんてなんて残酷なんだろう。
彼女の言葉は真実だった。
きっとそれは正解だろう。
目を閉じ顎を引いて俯く。
涼と俺は似ているんだろう。
何事も相手の顔色を窺いずっと周りに合わせて生きてきた。
異性に対して良い感情を持っていない点までそっくりだ。
子供を殺した俺と子供を宿していたかもしれない彼女。
いつも作り笑顔を浮かべる俺と無理にでも笑う彼女。
だからこそその言葉の意味がよく分かる。
逆の立場だったら俺が同じ事を言っている。
「……ごめん、即答出来ない」
やっと出たのは煮え切らない答えでそのまま車のエンジンを掛けた。
走り出し暗い道の中響くのはラジオに音だけで、それ以外は何も音がしない。
嗚咽を上げると思っていた彼女は静かにただ泣いている。
ここで関係性を変えても彼女は俺の側に居る。
ただそこには何もない雇用関係だけだ。
側に片時も離れずに寄り添う彼女にその関係だけで満足出来るわけがない。
もし彼女の言う通りにするのならそれはいつか破綻するだろう。
彼女はどうか分からないが俺はきっともう同じように愛する人間は出てこないだろう。
一度ぬるま湯に浸かればそこから出るのは勇気が居る。
それが心地よい人肌と同じならなおさらだ。
彼女はどこまでも自分が傷つくのは構わないと思っている。
傷つき壊れても一向に構わないんだ。
俺が壊した時も友達が壊した時も明が壊した時も全部自分の為じゃなく俺の為に立ち直った。
たった一度の約束を守るためだけに、耐えている。
貴方が要らないと言うまでずっと、側に居ますから。
高速に乗り平坦な道が続き肩の力を抜いた。
よほど強張っていたらしく肩甲骨の辺りが痛む。
彼女をちらりと見れば両手でまた涙をぬぐっていた。
貴方が要らないと言うまでずっと、側に居ますから。
その言葉が繰り返し頭を過ぎり口を開く。
「俺はまだ要らないなんて思っていないから」
小さく告げたその言葉に彼女が顔を上げた。
それをあえて見ないようにして前を見続ける。
息を小さく飲みごくりと喉を鳴らしている。
それから小さく彼女が呟いた。
「分かりました」
その一言にただそれ以上何も言わず帰路を急いだ。