ゼラチン質の夢(下)【探偵は嗤わない、第四話】
探偵は笑わない、第四話の下となります。
まだ読んでいない方は上よりお読みください。
調査二日目、午後三時。私と照月さんは、午前中に入手した水母会の情報をさらに掘り下げるべく、冠城町の端にある水母会冠城町支部に来ていました。好奇心旺盛でスピリチュアル大好きな昨今の若者カップルを演出しつつ、教団内を見学しようという算段です。
到着したのは街中によくある雑居ビル。一階が道場、二階が事務所になっているようです。おそるおそる道場の扉を開けて奥のほうに声をかけますと、にこやかな男性が出てきて丁寧に応対してくれました。
「ここはどんなことをやっているのですか?」
努めて眼をきらきらさせながら質問すると、職員らしき男性は快く道場の見学を許可してくれました。
受付の奥にある道場は三十畳ほどの畳敷きの部屋でした。それがパーテーションによっていくつかの空間に区切られています。背伸びをして中を覗いてみると、信者らしき人が座禅を組んでいます。
「瞑想を行うことによって、自らの魂を宇宙に親和させるのです」
職員の説明も、あらかじめ得た情報と相違ありません。見た限りでは、地味、かつ穏健な宗教団体のようです。私達は、特に目立った成果も得られないまま道場を後にしました。
「やはり表面的な調査だけでは情報は得られないだろう」
照月さんと私は探偵事務所の近くにある喫茶店で休憩を取りつつ、今後の方針を話し合っていました。
「潜入しかないのですかね……」
危険ではありますがそれしか方法が思いつきません。元信者の情報提供者でもいればいいのですが。
しかしまあ、犬塚さんも危険を犯して潜入調査をしていることですし、私もいっちょ体を張ってみるか、と思ったところで、犬塚さんの安否が急に気になりだしました。手元の携帯電話で、犬塚さんの現在位置情報を追ってみます。
というか、この機能を駆使すれば、犬塚さんのプライベートを把握できるのでは? そんな邪な考えがよぎりますが、なんとかその空想から逃れます。そういえば、そもそも犬塚さんは自宅と職場の往復以外に外出はしない人でした。
さて、改めてGPSによって犬塚さんの位置情報を検索します。おや? この町からかなり離れているようです。ここから三十キロほど西、中央道の道路上にいると表示されています。信号を渡っている? いえ、そもそも一切動いていません。どういうことでしょうか。
「妙ですね……」
変な胸騒ぎがしてそれを照月さんに伝えると、彼はハッとした表情をしたまま押し黙ってしまいました。
「……拙いことになったかもしれない」
なんですかその言い方は。不安になるではないですか。
「そのあたりに目立った施設はない。あくまで可能性だが、潜入捜査がばれて拉致されたのかもしれない」
「えぇっ!」
「その位置情報はおそらく途中で捨てられた携帯電話だ。壊れてなかったのは幸いだが……、危険な状況に変わりはない」
なんということでしょうか。照月さんは冷静ですが、かなり絶望的な話です。
「ど、ど、どうしましょう」
私は涙目で照月さんに指示を仰ぎます。我ながら動揺しすぎとは思いますが、そんなことを言っている場合ではないのです。
「俺は赤間所長に連絡する。有羽さんは竜胆という女性に連絡してみてくれ。なにか有益な情報が得られるかもしれない。一応警察にも連絡はしてみるが……、あまり期待はできないだろう。俺達が行くしかない」
「は、はい」
私は竜胆さんから貰った名刺を頼りに電話をかけます。早く出てと祈りながら数コール。
ハキハキした女性の声が電話口から聞こえてきました。幸運なことに電話番号はフェイクでなかったようです。
「はい」
「竜胆さんですか? 有羽です。拙いことになりました」
急いで事情を話そうとする私を、竜胆さんは冷静に押しとどめます
「落ち着いて頂戴。何があったの?」
私は焦り、つっかえながらもこちらの状況を伝えます。
潜入している犬塚さんの位置情報がおかしいこと。潜入捜査がバレて拉致された可能性があること、恥を忍んでサポートをお願いしたい、ということ。
「そういう次第で、私達はこれから犬塚さんを助けに行きます。行き先はおそらく、山梨県にある水母会本部だと思われます」
「待って……。私も行くわ。甲府駅で落ち合いましょう」
これは意外な助力の申し出です。彼女には彼女なりの目的があるのでしょうが、手伝ってくれるというのならやぶさかではありません。
「ありがとうございます。では、急ぎますので」
お礼を言って電話を切ります。助力は心強いですが、切迫した状況に変わりはありません。
「照月さん、どうでした?」
「所長も方々に連絡をとった後追いかけるといっていた。警察は……、一応伝えたがあまり早急な行動は望めないだろう。管轄の違いもある」
「では、やはり私達が……」
「向かうしかない。せいぜい、犬塚さんに普段の恩返しをするさ」
◇
暗闇。目を開けようとしたが、どうやら目隠しがされているようだ。猿轡もかまされている。手足はガムテープのようなもので縛られ、身動きが取れない。もぞもぞ芋虫のように動いていると、強く太ももを蹴られた。感触からして、どうやら死体袋のようなものに入れられているらしい。また音と振動から察するに、車に乗せられているのだろう。
その場で殺されなかったのは幸運だった。本部に移送するといっていたから、少しは猶予があるわけだ。詠子君や照月が、異変に気づくといいのだが。
しかしその希望は、この絶望的状況に立ち向かうにはあまりに小さい。冷たい恐怖を喉に挿し込まれたような感覚に陥り、本能的な危機感から、全身に鳥肌が立っている。
パーカーの男が言っていた通りなら、向かうのは本部、つまりは山梨県だ。おそらく俺が尋問した、あの金をちょろまかした男のように暴行され、必要な情報をしゃべった後は山にでも埋められるのだろう。あまりに悲惨な最期だ。
ただ現状、出来ることはほとんどない。俺は身体がいざというときすぐに動くよう、指先や全身の筋肉を少し動かし続けながら、状況が変わるのを待つことにした。
目を覚ましてから三十分ほど経っただろうか。一時間かもしれない。なにせ暗闇では時間の感覚がはっきりしない。俺を載せた車はカーブの多い道に入ったようだ。ごろんごろんと体が転がって不快である。そういえばずっと下になっていた部分が痛い。随分と長いあいだ横になっていたに違いない。
それからまたしばらくすると、車が減速し、やがて完全に止まった。車のドアが開く音がして、俺は荷物よろしく運搬される。よもやこのまま焼却炉に放り込まれ、火葬されるのではあるまいかと戦々恐々していたのも束の間、どうやら屋内に入ったらしい。数回ドアの開け閉めが繰り返されたあと、俺は乱暴に床に放り出された。
「じゃあ、あとはこっちで」
男の声が聞こえた。そしてジッパーが開く音がする。新鮮な空気が冷や汗で湿った頬を撫で、死体袋から出されたのだとわかった。次いでドアが閉まる音がして、俺は部屋らしき空間に残された。いや、気配からすると先ほど声を出した男がそのままだ。しばらくの沈黙。
「お兄さん。大丈夫?」
男が声をかけてきた。お前はこの状況が大丈夫に見えるのか、と問い詰めたいところだったが、いかんせん猿轡をかまされているせいで、うめき声しか出せない。第一目隠しをされているので相手を見ることもできない。
「ああ、ごめんごめん。今外すからね」
と男は言い、俺の後頭部にある目隠しの結び目を解いた。屋内の光が目に痛い。
しばらく目を瞬かせてから、部屋を見渡し、俺に声をかけたらしき男の方を見る。部屋は特筆すべきところのない、コンクリート打ちっぱなしの個室。男の方は長髪をポニーテールにし、不精髭を生やした清潔感のない風貌をしている。しかしその肉体は細身ながら実用的な筋肉を備えているように見える。もっとも、防刃ベストらしきものを装着しているため、詳しくはわからない。拷問が好きな狂人には見えないが、密売組織の小諸然り、得てしてこういうタイプの人間が、残忍な行為を平気で行ったりするものだから油断はできない。
俺がその男を睨んでいると、彼は困ったようににへらと笑った。
「で、君は誰で、どうしてここに来たの?」
名乗るならまずそちらから、と言いたいところだが、両手両足が拘束されている状況ではそうも行くまい。しかし、この男に本当のことを話したものか、どうか。
まあ、下手に隠しだてをして暴行されるのも面倒なので、正直に名乗ることにしよう。どのみち潜入調査は見破られている。
「犬塚猟一。探偵だ」
「探偵? 探偵がなんでこんなところに?」
男は驚いたように座っていたパイプ椅子から身を乗り出す。どうやら詳しい事情は伝えられていないようだ。
「聞いてなかったのか?」
「聞いてなかったから訊いてるんじゃない。で、ここに連れてこられた心当たりは?」
演技かもしれないが、なんとなく無邪気な感じのする男である。とりあえずすぐに危害を加えてきそうな雰囲気はない。
「『シャチ』の潜入調査をしていた。下手をうって、このザマだ」
その言葉を聞くと、男の眉がぴくりと動いた。しかしすぐにニヤニヤと表情を戻し、パイプ椅子に座り直す。
「なるほど、なるほど。つまり君は一般人か。そういうことならば……、拘束を解いてあげるのもやぶさかじゃない」
全く意外な申し出だった。この男は俺を尋問するためにここにいるのではないのか?
「ああ、早くしてくれ」
「おねがいしますは?」
「……頼む」
「まあ、いいか」
男はニッと笑うと、俺の両手両足を拘束していたガムテープを切断した。数時間ぶりの開放感。関節の節々が痛み、体幹の筋肉がこわばっている。しかし何はともあれ、俺は自由の身となった。
「アンタはここの守衛じゃないのか」
「ついさっきまではそうだった。今は君のお仲間かな」
「探偵……、いや、潜入捜査官か?」
「ご明察。関東厚生局麻薬取締捜査官の風嵐だ。君は実にラッキーだったね」
「麻取? ジェリーフィッシュの捜査か」
関東信越厚生局は、厚生労働省の出先機関だ。麻薬取締捜査官はその名のとおり、麻薬関連の捜査を行う役職であり、おとり捜査や潜入捜査が認められている。つまり目の前にいる風嵐という男は、水母会本部の守衛に身をやつし、潜入捜査を行っていたわけだ。
「そう、今日はなぜだが本部に人が少ない。だから証拠を掴む絶好の機会だと思ってさ。証拠さえ集めれば、こんな山奥からはさっさとオサラバだよ」
なるほど、清潔感のない容姿も、軽薄な口調も、全ては偽装だったというわけだ。
「ジェリーフィッシュはここで生産されているのか?」
俺が聞くと、風嵐は一転、真面目な表情になる。
「ああ、ここに工場がある。原材料は輸入しているだろうが、ここがジェリーフィッシュの生産拠点でほぼ間違いない」
俺は幸運にもドラッグ製造の大元までたどり着いたわけだ。一時は肝を冷やしたが、怪我の功名というヤツか。依然として油断はできないが、同時に密売ルート特定の最大の好機である。俺は風嵐に助力を申し出ることにした。
「ああ、その証拠についてだが」
「?」
「俺も手伝おう。どうやら我々の目的は同じらしい」
◇
山梨県甲府市。私たちは犬塚さんの窮地を救うべく、照月さんが運転する社用車の白いセダンで水母会本部へと向かう途中です。ですが目的地へ直行する前に、竜胆さんをピックアップする必要がありました。
甲府駅のロータリーに近づくと、竜胆さんが待っていました。竜胆さんもこちらに気づいたようで、軽く手を挙げて合図を送っています。
「悪いわね」
「いえ、ご協力感謝します」
やりとりもそこそこに、私達は水母会本部へと急行します。のんびり会話を楽しんでいる余裕はありません。
しかし、私にはどうしても竜胆さんに訊いておきたいことがありました。
「竜胆さん。私達はこれから水母会本部に行きます。多分、潜入して私達の仲間、犬塚さんを救う事になるでしょう。竜胆さんとは別々に行動を取る必要があるのかもしれませんし、もしかしたら互いに協力できるのかもしれません。だから教えてください。あなたが本当は何者で、目的はなんなのか」
後部座席に座る竜胆さんを、助手席からミラー越しに見つめます。考えるような素振り、少しの沈黙。その後竜胆さんは大きく息をつき、足を組み替えて話し始めました。
「そうね。事ここに至っては、私の正体を明かしておいたほうがいいのかもしれない」
そう言うと竜胆さんは懐から一冊の手帳を取り出し、私に渡しました。中身を開いてみると、彼女の顔写真と身分が載っています。
「関東公安調査局、主任調査官、安藤公子?」
「そう、日本ピンカートンの探偵というのは嘘。ただ目的については本当よ。公共の安全のため、水母会の危険性を白日の下に曝す」
関東公安調査局とは、つまるところ国の情報機関である公安調査庁の出先機関です。反社会的組織や危険思想を持つ活動家などを監視し、人的情報収集を中心に活動する組織です。
「公調が、なぜ我々に協力を?」
照月さんが目線を前に向けたまま竜胆さんに問います。道路はくねくねと曲がる山道に入ってきました。
「お嬢さんには言ったけど、我々は数が少ない。警視庁の人員四万に対し、公安調査庁の定員は全国で千五百。関東の調査員、さらに特殊団体の担当はさらに少ない。だから、外部に協力者を獲得する必要があった」
そう竜胆さんは悔しげに言いました。危険な団体であると認識がありながら、それに手を出せない歯がゆさ。そういったものを常々感じてきたのでしょう。
「……俺も公安の端くれだった」
ふと、照月さんがつぶやくように言います。そういえばそうでした。照月さんは三年前に警察組織をやめ、犬塚さんの伝手を頼ってこの探偵事務所に流れ着いてきたのです。退職の理由を私は詳しく知りませんが、なにやら組織に手ひどい裏切りを受け、絶望して警察を去ったのだと、犬塚さんが言っていたような気がします。
「だからアンタの気持ちは良くわかる。俺の独断では決められないが、できる限り協力しよう」
「……ありがとう。えーと」
「照月だ」
そのようなわけで、探偵と公安調査官という、奇妙な協力関係が成立したのです。
そして山道を走ること二十分、私たち三人は道の先に、三階建ての白い建物を認めました。ごく最近搭載したカーナビによれば、あれが件の宗教団体本部で間違いなさそうです。少し離れたところに車を停め、警備に注意しながら敷地の前まで、てくてくと歩を進めます。
外から見る限り、敷地の中には二つの建物があります。私達から見て右側に角ばった三階建て、向かって左には工場のように見える平屋の建物。敷地内には三台ほどのバンが停まっています。
さて、道場破りよろしく正面から訪問するわけにはいきません。敷地内へ侵入した私達は、まず警備状況を確認します。少なくとも屋外に守衛のたぐいはいないようです。
どこか侵入できるような裏口はないかしら、と思ってキョロキョロしていますと、照月さんが地下へのスロープを発見しました。おそらく物資の搬入口かと思われます
「あそこにスロープがある。鍵が開いているかどうかは判らないが、正面から行くよりはマシだろう」
周囲にひとまず人影はなし。というよりも、随分ひっそりしています。しかし油断は禁物。私達は監視を警戒しつつ、おっかなびっくり水母会本部へのアプローチを開始しました。
◇
「手伝ってくれるのは、ありがたいけど」
風嵐は困ったように少し思案する。どうやら一般人を巻き込んだものかどうか悩んでいるようだ。しかし俺が依頼内容を説明すると、そういうことならと同行を承認した。
「正直心細かったし、まあ、いいか」
そうして我々は個室を出て、行動を開始した。
風嵐の説明によると、俺が囚われていたのは三階建ての建物、その地下だったようだ。このフロアには信者用の道場と、監禁部屋、物置などある、とのことだった。俺の所持品、といっても財布ぐらいしかないが、それらは物置に置かれているらしい。それらを取り戻すために通路を進む。
白く無機質な通路を慎重に歩いていく。建物内は非常にひっそりしており、我々以外の人の気配は感じられない。風嵐によれば、十数名いる出家信者は三階で儀式の真っ最中らしい。なんの儀式かは知らないが、現状は関わらないのが吉だろう。
そして建物の西端、物置。扉の向こうに聞き耳を立ててから、慎重に開ける。すると六畳ほどの空間に、衣服やトイレットペーパーなどの日用品が集積されていた。見回すと近くの棚に俺の財布が置いてあった。回収するも、札が全て抜かれていた。
さらに武器となるようなものがないか見て回る、バールのようなものでもあれば重畳、と思っていたところ、異様なものを見つけた。
俺にとってはある意味懐かしいが、決して日用品には分類されないもの。そのフォルムは芸術的でありながら、目的は凶悪な道具。
「こいつは……」
ホルスター付きの拳銃だ。木製のグリップに、長大な鋼鉄の銃身。回転式の弾倉が特徴のリボルバー。驚きながらも手に取って詳細に観察する。
口径は0.44インチの大口径。銃弾は強装弾。44口径マグナムリボルバーと呼ばれるものだ。日本ではまずお目にかかれない高威力の銃。コルト・アナコンダと刻印されている。
違法に輸入されたものには違いないが、なかなかいい趣味をしている。いざという時の脅迫ぐらいには使えるだろう、と安全装置を確認して、ホルスターを装着、拳銃をその中に突っ込む。
「物騒だねぇ……」
風嵐が半ば感心、半ば呆れたように呟く。拳銃をちょろまかしたことについては黙認してくれるらしい。
首尾よく所持品を取り返した我々は、物置を出る。扉を出てすぐ右側は物資の搬入口になっており、ここから外に出られるようだ。
「外に警備員はいない。ここから地上に戻ろう」
そう言う風嵐の案内のもと、地上への扉が開いた。
瞬間、扉を開けた風嵐が硬直する。
「誰だ?」
どうやら扉の外に人がいたらしい。偶然の遭遇だったようで、外の人間が後ずさる気配がした。
風嵐の脇から扉の向こうを覗き見る。
……おっと?
「詠子君……」
そこにいたのは、詠子君と照月、それに見知らぬ女性だった。
「い、犬塚さん! 無事だったんですね!」
詠子君が風嵐を押しのけて俺に飛びつく。
「な、何? お仲間?」
困惑している風嵐を尻目に我々は再会を喜び合った。詠子君と照月は俺の異変に気づき、危険を冒して助けに来てくれたのだ。
「無事で何よりです。犬塚さん」
「……そっちの女性は?」
詠子君に聞く、しかし状況から見ておそらくは。
「ああ、彼女が竜胆さん……いえ、本当は安藤さんと言うらしいです。公安調査官だとか」
やはり、例の情報提供をしてくれたという自称女探偵か。しかし、正体が公安調査官だとは予想外だった。
「照月、詠子君。それに、安藤さん。先ずはありがとう。今現在の状況だが……」
俺は風嵐のこと、ここがどうやらドラッグ生産の本拠らしいこと、そして現在謎の儀式が進行しており、儀式の場を除けば、ほぼ最低限の人員しか配置されていないこと、などを説明する。
儀式、と言った際に、安藤の表情がぴくりと動いた。
「なにか気になることでも?」
俺が尋ねると、安藤は大きく息をついて話し始めた。
「その儀式とやらが、私がここに来た理由の一つよ。詳細は不明ながら、大規模な人死にが出る可能性がある危険な儀式。魔術的テロリズムと言ってもいい。私はそれを止めに来たの」
俺と詠子君の経験から言って、その儀式がロクな結果を招かないであろうことは、すんなりと納得できた。これで我々には三つの目的ができたわけだ。
一つ、ドラッグ密造の証拠を抑えること。二つ、儀式による魔術的テロリズムの実行を阻止すること。そして三つ目、ここから全員が無事に脱出すること。
俺はその事を全員に確認し、相互の協力を求める。
「こちらとしては願ってもないわ。是非協力させてちょうだい」
安藤は神妙に頷く。
「……まあ、いいか」
風嵐もなし崩し的に協力を承諾した。
そして麻薬取締官、公安調査官、それから探偵が三人、奇妙な組み合わせの集団は、互いの目的を果たすために行動を開始した。
◇
ああ、本当に良かった。犬塚さんは無事でした。助けてくれたという風嵐さんには感謝せねばなりません。
しかし、この宗教団体の本部でドラッグの密造が行われているとは。犬塚さんに拳銃をちらりと見せてもらいましたが、どうやら武器の密売も行っているよう。竜胆さんもとい安藤さんがこの団体を危険視するのも無理からぬことです。
さて、この危険な宗教団体を摘発するための第一歩として、まずはドラッグ密造の現場を押さえる必要があります。また、それは私たちにとって当初の目的でもあります。
麻薬取締官の風嵐さんによれば、ドラッグの密造は別棟で行われているとのこと。私達は物資搬入のためのスロープから地上へ出て、別棟へ向かいます。
「この先には守衛がいるはずだ」
風嵐さんが別棟のドアの前で皆を押しとどめます。
「俺に任せておいてよ」
と、彼は言いました。風嵐さんは見たところ非常に逞しい男性で、比較的長身の風嵐さんよりも五センチほど大きいです。まるでハンマー投げの選手のように筋肉も発達しており、まるで冷蔵庫に手足が生えているように見えます。
そんな風嵐さんですから、きっと守衛を一人制圧することなどきっと簡単なのでしょう。非力な私達はおとなしく彼に任せて扉の手前で待機します。
風嵐さんが扉の向こうへ声をかけながら入っていきます。しばらくの沈黙、と何かが倒れる音。
入ってから三十秒も経たないうちに、風嵐さんが出てきました。
「終わったよ」
私達がそろりと室内に入ると、そこは小さな部屋にパイプ椅子が置かれているだけの部屋でした。足元には特殊警棒を持った守衛が潰れたカエルよろしくノックアウトされています。
「さ、行くとしよう」
守衛室の奥が、おそらくはドラッグの密売工場かと思われます。倒れた守衛を踏み越えつつ、私達は奥の扉をくぐりました。
そこは天井の高い倉庫のような空間でした。部屋の中央に用途のわからない機械があり、中身の分からないドラム缶、袋などが置いてあります。
人の気配はなく、機械も現在は稼働していないようです。
「ここがJの工場なのでしょうか?」
「そうらしいな」
もっと薄暗い部屋でドラム缶やポリバケツなどを使って作業をしているイメージでしたが、案外小奇麗な工場です。あまり機会に詳しくない犬塚さんと私が立ち尽くしていると、風嵐さんは興奮した様子であちこちを見て回ったり、写真を撮ったりしています。
「これは……決定的だな」
安藤さんも興奮しながらあたりを検分しています。
私が所在なさげにウロウロしていますと、一枚のメモが壁に貼ってあるのを見つけました。
J-α 信者配布用 ヘロイン含有量を減らし中毒性を下げること
J-β シャチ納品用。ヘロイン含有量を増やすこと
J-γ 儀式用 意識障害が発生するので取扱注意
「安藤さん、これ」
私が安藤さんにそのメモを見せますと、彼女はふんふん言いながら部屋の奥へと向かいます。私がてくてくついていきますと、そこには透明な袋に包まれた粉らしきものが大量にがありました。
「安藤さん。これは?」
「おそらくヘロインの粉末ね。これだけの量……、末端価格で十億円はくだらない」
十億円! こんな塩みたいな物質が、とんでもない値段です。安藤さんは証拠として一つの袋を回収します。これだけでも二千万円。気が遠くなります。
「とりあえずこれで依頼は完全に達成したわけだ」
私が金銭感覚的ショックを受けていますと、犬塚さんが私の肩に手をかけて言います。
「危ない橋を渡らせてすまない。よくやってくれた」
ああ、犬塚さん。その言葉のためなら、私は火の中水の中です。といっても、今回一番危ない橋を渡ったのは間違いなく犬塚さんなのですが。
「ドラッグの密造現場を押さえたのは結構だが、儀式の妨害もしなけりゃいけないんじゃないか? 風嵐さんによれば、今まさに行われているそうじゃないか」
照月さんが冷静に声をかけます。そういえばそうでした。
「では、そろそろ行きますか?」
私が皆さんに言いますと、全員が神妙な面持ちで頷きました。目的の全ては未だ達成せず。気を引き締めていかねばなりません。
そろりそろりと警戒しながらの移動。私達はドラッグ工場を離れ、再び本館の方に向かいます。一度地下へ戻り、階段を登って一階へ。
「このフロアは、主に出家信者の居住スペースだな」
内部に詳しい風嵐さんが説明します。前情報通り人の気配はありません。扉の開きかけた部屋があったので覗いてみると、二段ベットが二つある居室でした。在家信者は集団生活を送りながら、修行と瞑想の日々を過ごしているのでしょう。
ところで、二階と三階はどうなっているのでしょうか。その疑問を口に出します。
「二階は事務室と幹部の個室。三階は儀式の間と教祖の居室だな。入ったことはないから詳しくは知らん」
では、私達が目指すのは三階、儀式の間ということになります。儀式が現在進行形ならば、急がねばなりません。私達は二階へ続く階段を上ります。踊り場を通過して二階フロアへ。しかし突然、先導している犬塚さんが手を挙げて我々を制しました。
「人がいる」
息を殺して耳を澄ますと、たしかに革靴が床を打つコツコツという足音がします。不運なことに、こちらに向かってきているようです。私達が隠れる間もなく、その男が階段の上に姿を現します。
頭髪の薄い、太った男。スーツを着込んだ姿は、会社の重役みたいに見えます。その男が視界に入るや否や、犬塚さんがホルスターから素早く拳銃を取り出し、男に向けました。
「動くな」
見知らぬ人間が突然現れ、しかも銃を向けてくる。男は驚愕の表情をしたのち、手に持っていた書類カバンを落として両手を挙げます。
「ま、ま、待ってくれ。撃たないでくれ」
「静かにしろ」
犬塚さんが銃を向けたまま男に接近します。風嵐さんと安藤さんも男に接近、腕をねじり上げて拘束します。ぐぅぅと情けないうめき声をあげて、スーツの男は膝をつきます。ぱっと見、やっていることは完全に強盗かテロリストですが、今は体裁を気にしている場合ではありません。
騒がれたり、人に見つかったりしては面倒です。犬塚さん達は男を適当な部屋の一室に押し込めます。
そこはスーツの男の個室だったようで、やや高価な調度が配された部屋でした。スーツの男が纏う雰囲気同様、会社の役員室のようであり、高価そうな机と革張りの椅子が中央奥に配置されています。風嵐さんは男を床に放り出しました。犬塚さんは銃を向けたままです。床に座り込んだままの男を見下ろしながら安藤さんが尋問します。
「あなた、『事務長』ね?」
どうやらそういう通称の幹部のようです。事務長というくらいだから、組織の運営面をになっているのでしょう。
「そ、そうだ。君たちはいったい誰だ?」
「答える必要はないわ。自分の立場を理解していないようね?」
「わ、私を殺してもメリットはないぞ。なにか訊きたいことでもあるのか?」
男はたじろぎながらも冷静さを保っているようです。安藤さんがさらに続けます。
「儀式の詳細を教えなさい。教祖は何をしようとしているの?」
「……あの男の考えることは、私にはよく解らん。なんでも神を降ろすとか言っていた。狂人の戯言だ」
「戯言かどうかは知らないけれど、死者が出る可能性があるなら止めなければならない。教祖は三階の儀式の間ね?」
「おそらくそうだろう」
「オーケー、アンタにもう用はないわ。行きなさい」
「言われなくてもそうするさ。もう十分金は稼いだ。あとは海外にでも高飛びするさ」
厳密に言えば、この男もドラッグ密売に関わっていた犯罪者なのでしょうが、私達は警察官ではありませんし、今は儀式を阻止するという大目標があります。
「その前に、あなたのカバンの中の書類を渡しなさい」
男は渋りましたが、蹴撃一閃、安藤さんのミドルキックがスーツの男の顔面を捉えます。男は情けない声を上げて地面に倒れ伏し、起き上がって書類カバンを差し出しました。
「それでよろしい」
タフな女性です、見習わなければなりません。
さて、事務長を解放した私達は、人気のない階段を上って三階フロアへと到達しました。耳を澄ますと、どこからか呪文のような声が聞こえてきます。
「いよいよだな」
犬塚さんが低く呟き、安藤さんが頷きます。階段を上った先の通路の左側には、なにやら細かい文様が彫られた重厚な木の扉がありました。ここがおそらく儀式の間でしょう。
「行くか」
犬塚さんが私の肩に手を置きます。いよいよ、事態は大詰めを迎えつつありました。
◇
重厚な扉の向こうからは、低い詠唱。全員が扉に張り付き、突入の機会を窺う。警備がいないとも限らない。不意を突いて、一気に制圧するしかない。照月、詠子君、安藤、風嵐に目で合図する。
「行くぞ」
扉を蹴破るようにして開け、我々は儀式の間に踊り込んだ。
その扉をくぐるや否や我々が見たのは、異様としか言えない光景だった。
まず、部屋全体に描かれた大きな文様。それは、人工的な光ではありえない、幽かで、病的で、蠱惑的な輝きを放っていた。
文様の中心近くに三人の人間が立っており、その周囲には十人以上の人間が倒れ伏していた。
中央奥には一段高くなった祭壇のようなものがあり、人間大の丸い鏡が設置されている。
その前に座る老人が唱える奇妙な詠唱は、低い声ながら朗々と室内に響き、この空間全体の異様さを引き立てている。
それは祈りか、願いか、咆哮か、呪詛か。歪な魔術的音階を伴って我々の正気を侵していく。そして詠唱に呼応するように、床面の燐光は脈動するように明滅していた。
空間全体が、現実から乖離した魔術的な粒子を帯び、重力の方向さえ定かではないように感じる。一呼吸ごとに、自らの恃むべき正気が身体から抜け出してしまっているように思える。
論理的な理解を超えて。理性的な思考を介せずに。
我々は肌で、脳で、魂で理解した。
今ここに、何らかの神性が降りようとしている、と。
俺はしばし立ち尽くす。如何なる目的で、いかなる手段で、こんな場を作り出しているというのか、見当もつかない。しかし、止めなければいけないのは本能で解る。
まずは状況を再度詳細に把握しようと、俺は部屋全体を見渡した。
床には直径六メートルはあろうかという巨大な魔法陣。その周囲に倒れ伏す人々。おそらく在家信者たちだろう。そして中心に立つパーカーの男。その容姿は見たことがあった。水母会冠城町支部で、俺を魔術で拘束したあの男だ。そしてその傍らには屈強な守衛が二名。防刃ベストとタクティカルバトンで武装している。
そして部屋の最奥。白い法衣に身を包んだ老人が、朗々と詠唱を続けている。その正面にある鏡は妖しく、青白く輝いており、その向こうにはこの世ならざる深淵が見える。
いち早くショックから立ち直った風嵐と安藤が、二人の守衛に飛びかかった。次いで照月がパーカーの男へ突進する。俺はホルスターから銃を抜き、安全装置を外して構える。
しかし、パーカーの男は動揺した素振りを見せなかった。そして接近する照月に対して、ゆっくりと腕を突き出す。
その瞬間、照月の状態が大きく傾いだ。苦悶の声が聞こえ、床に倒れ伏す。俺が銃を構えたままちらりと見遣ると、顔面に赤い水膨れが出来ている。またしても奇妙な魔術。
風嵐と安藤は未だ守衛と格闘している。奥の教祖らしき老人は忘我の状態で詠唱を続けたまま、動こうとしない。パーカーの男はこちらに向き直ってニヤリと笑う。
仕方ない、少々過剰防衛気味だが、発砲するしかない。俺は男の足に照準を合わせて引き金を引いた。
ボン、という派手な発砲音とマズルファイア。腕を伝わり体幹まで響く反動。音速を超えた銃弾は、確かにパーカーの男、その足元に吸い込まれた、ように見えた。
しかし、男の足元、水に石を落としたような波紋が広がり、銃弾がポトリと床に落ちた。男が負傷した様子もなければ、床に着弾した跡もない。受け止められた? 馬鹿な。
「無駄だ」
男は素早くこちらに腕を伸ばす。マズイ。
突然、腰のあたりが灼熱する。ポケットに入れた財布が発火でもしたのだろうか。何がなんだかわからないが、とりあえずまだ体は動く。視線を動かさず男を睨みつける。男は初めてその表情を動かした。こちらが倒れないのが予想外だったのだろう。
しかし銃が効かないでは此方に成す術はない。……いや。
「『無駄だ』と言ったな」
銃弾を受け止めるという荒業。何のコストもリスクもないはずはない。まして一般的な38口径通常弾の八倍のエネルギー量を誇る、44口径マグナム弾。
「本当に無駄なら、ドラマの悪役よろしくそんなことを言う必要はない。だろ?」
男の眉がぴくりと動く。動揺、と見た。
確かに男の使う魔術は得体が知れない。しかし、人間の殺意の結晶であるこの高威力の拳銃を、全弾防ぎきれるほどの余裕はない、俺はそう確信した。
二発、三発。男の体幹目掛けて発砲。反動が大きいので連射が効かない。一発一発、銃口が跳ね上がらないようにしっかりとホールドする。
四発。男の顔に明らかな動揺が走る。男の前面に広がる波紋は大きくなり、銃弾は防壁に深く食い込んでいるのが確認できる。
五発。わずかに逸れた銃弾が男の肩口に血の花を咲かせる。男が慌てて何かを口走る。
六発目、を発射しようとした瞬間。男の姿が揺らいだ。次の瞬間、男の全身が煙のように霧散したかと思うと、そのまま消えた。逃げたか。
ふう。と息をついて俺は周囲を確認する。照月は呻いているが、命に別状はなさそうであある。風嵐と安藤は守衛を制圧したようだ。詠子君は背後で呆然としている。残るは部屋の奥で詠唱を続ける教祖らしき老人だけである。
屈強な成人男性ならいざ知らず、痩せた老人を制圧するだけなら造作もない。俺は詠唱を止めるべく、部屋を横切って老人に飛びつく。そのまま法衣の襟を使って老人を絞め落とす。
咳き込むように、老人の詠唱が止まった。終わったか、と俺はふと前方の鏡を見遣る。
そして、それを見てしまった。
◇
突入後、私は申し訳程度に催涙スプレーを構え、状況を見守っておりました。犬塚さんと風嵐さん、安藤さんは一分も経たないうちに、その場の人間を制圧してしまいました。私は倒れた照月さんに駆け寄りましたが、少し肌が赤くなっている程度で命に別状はなさそうです。
しかし場を制圧して、犬塚さんが教祖らしき老人に飛びかかった時、私は信じられないものを見たのです。
足元の文様が一際光を増し、奥の鏡からゆっくりと、それが姿を現しました。
それは夢のように朧げな燐光を放つゼラチン質。
しかしそれは私が見たこともないくらいに大きく、美しく、狂おしく、神々しく、それでいて禍々しく。
圧倒的で、かつ不確かで、哲学的で、宇宙的であり、理解を超えた感覚的な、それでいて本能が拒否するような悍ましさを持ち、そしてなによりも、奇妙な母性を感じさせる存在。
その形を表現することにもし意味があるのなら、それはほぼ球体をしており、いくつもの触手を持っていました。
それは揺らぎながらゆっくりと、こちらの世界に顕現したのです。
私は直感します。それはこの教団が儀式で呼び出そうとしていたもの。それは人知を超えた存在。外宇宙よりきたる神。
その出現と同時に、その場にいた全員が苦悶の呻き声をあげます。邪なる神の顕現、空間に満ちる瘴気。場はまさに混沌を極めつつあります。その中で、私一人がなぜか平静でした。
鏡からは青白く輝く球体が、こちらの世界に現れようとしています。犬塚さんがその至近にいます。まずい、助けなくてはなりません。
しかし神と呼ばれるものを前に、矮小な人間である私に何が出来るでしょうか。しかしやるしかないのです。
周囲を素早く確認すると、倒れた安藤さんの近くにヘロインの袋が落ちていました。これを使うしかありません。私はそれを素早く拾って犬塚さんのもとに到達します。
神とはいえ、この世界に現れたならば、目で見ることができるならば、実体を持っていてもおかしくありません。実体を持っているならば、何らかの方法でダメージを与えられてしかるべきです。
ヘロイン。ドラッグの王様と言われる危険な薬物。致死量はたったの1グラム程度と聞きます。手に持っている500グラムの袋であれば、500人分の致死量に匹敵する毒ということになります。
私は犬塚さんを庇うように鏡の前に立ち、ヘロインを梱包しているビニールを破ります。
「たとえ神様であろうと、犬塚さんは渡しませんよ」
そのまま、ヘロインの袋を目の前の存在、その中めがけて突っ込みます。
柔らかいゼリーのような感触。私の腕はほとんど抵抗なく、目の前のそれに吸い込まれていきました。ぴりぴりと皮膚に不快な感触が走ります。まるで冷たい炎に灼かれているかのようです。
しかし引くわけにはいきません。私は眼前のそれを睨みつけながらヘロインの袋をさらに奥に押し込みます。これでダメなら、犬塚さんとともに心中するしかありません。
ヘロインが効いたのか、私の願いが届いたのか、眼前のゼラチン質が奇妙に蠕動します。ぐわっ、と広がったあと、ブルブルと震え、徐々に鏡の中に後退していきます。
そして二、三秒後に、鏡は光るのをやめ、背後にある正常な世界を映すようになりました。神は退散したのです。
ほっとして振り返ってみると、風嵐さんや安藤さん、照月さんが意識を取り戻しつつありました。犬塚さんは倒れ伏したままです。犬塚さん、犬塚さん。揺すっても起きません。ただし呼吸はしているようです。
さてこの状況をどうしたものかしら、と思案していると、突然扉が開きます。
「おい、無事か!」
ヤクザ風の男性が室内に躍り込んできます。アレは確か、鯨組の若頭さんだったような気がします。傍らには赤間所長もいます。二人は何人かの共を連れて、場の制圧と照月さん達の介抱を始めました。
もうこれで大丈夫。そう思った瞬間気が抜けて、私はそのまま地面に倒れて気絶してしまいました。
◇
目を覚ますと病室だった。詠子君が涙目でこちらを覗き込んでいるのが見えた。急に体を起こそうとして、眩暈を起こす。
「あ、まだ無理をしないでください。寝たままで」
どうやらまる二日間ほど意識を失っていたらしい。そう説明を受けた。
あの神がどうなったのかよくは分からないが、詠子君が俺を助けてくれたようだ。その後赤間所長と久慈若頭が部屋に突入、場を制圧して事を収めたらしい。
あの施設と教団は、ドラッグ密造と武器の密輸入で家宅捜索を受け、教団は散り散りになったそうだ。つまり依頼は達成。赤間所長は二千万の報酬を受け取ったとのことだ。
風嵐と安藤は礼だけ言って姿を消したらしい。彼らにとっては後始末の方が大変なのだろう。
照月の怪我は大事ではなかった。というよりほとんど無傷だったそうだ。彼が倒れた原因は、幻術のようなものだったのだろう。
それと、拳銃の発砲はなんだかんだ不問になったようだ。
「また迷惑をかけたな。すまん」
俺が言うと、詠子君はぶんぶんと首を横に振って、俺の手を優しく握る。人の温もりが随分懐かしいもののような気がした。
「赤間所長がよろしくやってくれていますから、心配せずゆっくり休んでください」
ありがたいことだ。実際の福利厚生は雀の涙だが。
詠子君を傍らに置いたまま、今回の事件について振り帰る。
「アレはなんだったと思う?」
「さあ、……ただ、悍ましいもの、としか」
「そういえば、なぜ君は無事だった?」
「あとで見てみたら、以前藤さんからもらったお守りがぼろぼろになっていたんです。たぶん、ご利益があったんじゃないかなぁ、と」
「そういうものか」
「犬塚さんのも、燃え尽きたみたいになってましたよ。霊験あらたかなものだったんですよ、きっと」
「幸運だった」
「いいえ、犬塚さんが勇敢だったからです」
そう言う詠子君は何故か誇らしげだ。
「ふっ」
「ああ、あと犬塚さん。あと二日は様子見で入院だそうですから、慌てずに体を休めてくださいね」
「一人で大丈夫か?」
「所長も、照月さんもいますから。……いえ、本音を言えばやっぱり不安です。できるだけ早く帰ってきてくださいね」
と、詠子君は冗談めかして言ったのち、事務所に戻っていった。
さて、我々は依頼を解決し、もろもろの事件を収束させた。冠城町におけるドラッグの密売、そしてそれにまつわる宗教団体の陰謀。それらからこの正常な世界を守ることができた。
俺が働く街は相変わらず、汚れた欲望とそれに群がる嬌声に満ちている。しかしなんにせよ正常なのだ。今のところは。
この事件に懲りてしばらくは牧歌的な生活を謳歌するか、それとも新しい刺激を求めて闇に身を投じるのか。少し悩みどころではあるのだが、ひとまずは少し休むとしよう。
たとえ次なる狂気が、絶えず我々を見張っているのだとしても。
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