鉤爪
「身体が痛くない……」
それが最初に思ったことだ。
あれほど身体を切り裂かれたのに傷がない。ほぼ致命傷と言ってもいいぐ
らいの攻撃だて受けたのにそれすらも残っていなかったのだ。
「私……どうなったの……?」
状況を確認する。と、わざわざそんなことをしなくても眼に映るのは深きものどもの大群。潮と不浄の臭いが辺りに充満している。
さきほどまでとまるで変わらない光景。
「――うん?」
いや、深きものどもの様子がどこかおかしい。
脅えている。そう脅えているのだ。私の宣戦布告にあれだけ憎悪を滾らせていたと言うのに、今は一変して脅えている。
だが、何に脅えている?
戸惑う私だが、それでも奴らは襲い掛かってこない。まるで最初の状況の焼き直しだ。私に飛び掛かれば命はないと理解している。
しかし、あれほど捨て身だった奴らが、こうも脅えるとは。
それにこの湧き上がる力はなんだろう。限界だった体力は全て回復して、それ以上に力が溢れてくる。
本当に何がなんだかわからないけど、これだけはわかる。
「よくはわからないけど、今ならお前たち――いや、お前たちの神も倒すことができそうだ!」
虚勢ではない。本心だ。
この溢れてくる力があれば、奴らも、奴らが崇める大いなるクトゥルフも、その全てを宇宙の深淵へとぶっ飛ばすことができるはず!
「いくぞ、怪物ども! お前たち全て根絶やしにしてやる」
力が溢れてくる身体はすごいものでいつも通りに踏み込んだはずなのに、私の身体は想像を絶する速さで深きものに近づいた。
これに奴らは驚いた。
あれほど切り裂いたというのに立ち上がり、あまつさえ速さが増している。動きが鈍い奴らにとってはそれは驚異以外の何ものでもないだろう。
私自身だって驚いているんだもの。
しかし、私に起きた現象はそれだけではなかった。
深きものへと放った拳は顔に直撃する前に深きものの頭を吹き飛ばした。頭部を失った身体はそれが理解できないのか、暫く立ち尽くした後、力を無くして地面へと倒れた。
「――っえ?」
理解できないのは同じだ。
どういうことだ……?
私は何をしたんだ?
何が深きものの頭を吹き飛ばしたんだ?
頭の中が滅茶苦茶になる。状況の処理が追いつかない。だが、私の中の理性とは程遠い存在が囁く。
理解するな、それを受け入れろ。
受け入れろって言われても、これって――
「鉤爪?」
そう、それは誰が見ても――鉤爪だった。
獲物を屠るために僅かに先端部が丸みを帯びているがそれでも鋭く、凶悪の一言である。そんな物騒なものが何故私に?
変化はそれだけではない。
変化は私の左腕から肩にかけて変化が起きていたのだ。乙女特有の球のようだった肌がどす黒い色へと変化して、所々から刃のような物が飛び出ている。
「なっ! なんなのよ、これぇ! なんで、なんでぇ!? なんでこんなのが私についているのよ!?」
頭がどうにかなりそうだった。
普通、こんな状況を受け入れられるだろうか。自分の左腕が怪物のようになっているなんて。倒すべき相手と同じになってしまっているなんて!
発狂寸前だが、それをギリギリのところで抑えたのは敵の攻撃だった。私が取り乱したのを好機と見て、深きものの一匹が襲い掛かってきた。
「ギィッ――」
爪の一閃は私の首を跳ね飛ばす絶妙なコースだったが、
「くっ――」
なんとか躱すことができた。が、
「おわッああ」
先の踏み込みでとんでもない速さを発揮したのを忘れていた。今度も力の加減がわからず、奴らとの距離が一気に離れる。
「クソッ! この腕になってから、いつもと勝手が全然違う。どうなってるんだ私の身体は!?」
混乱しながらも、私の変化の原因はだいたいわかってきた。私の人生の中でさっきまで一度もこのような変化は起きていなかったのだ、だから、原因はほぼ間違いなく左目のトラペゾヘドロンだ。
つまり、私に起きている変化は師匠が言っていたある一定の領域に達したってことだろうか。
しかし、死にかけて起きる変化というのはどうにも都合が良すぎる気もする。まるで、計ったかのような感じだ。もし、計った者がいるならどのような意図があるのか。
一番怪しい者なら師匠だろう。トラペゾヘドロンを私に渡したのも師匠だったわけだし、何か知っているのは確かなはず。
だが、今はこの状況を切り抜けないと。
眼前に広がるは異形の群れ、群れ、群れ。
どこを見ても似たような顔の怪物が私に殺気と脅えの入り混じった視線を向けている。
何か言葉を発しているが、人間から変化――いや、この場合は退化とでも言った方がいいだろう――した口の構造から発せられる言葉は私にはよくわからない。まあ、私への殺意のこもった言葉というのはなんとなく理解できる。
「ごちゃごちゃとわけのわからないこと言っても私には理解できないよ」
奴らとの距離が離れた分余裕もできる。
改めて自分の左腕を見ると、やはり身の毛がよだつ。左腕は禍々しく変化しており、乙女の華奢だった腕が完全に怪物よりになっている。深きものなんかと比べ物にならないくらいに。
ショックも大きいが、嬉しいこともある。私自身がとんでもなく強くなっていることもそうだが、禍々しく変化しているわりには左腕の重さは全く変わっていないのだ。爪までついているというのに普段と変わらない。
いつも通りということが逆に不気味だが、もうそこは割り切るしかない。
それに奴らも動き出した。
私を取り囲んでの集団戦法。
爪が、牙が、憎悪が絶え間なく襲い掛かってくる。その一撃は並みの人間なら容易に寸断されるであろうが、私に取ってそれは脅威ではない。
確かに先ほどは事切れる寸前まで追い詰められたが、今度は違う。
――視える。
飛び掛かってくる深きものども一匹一匹の動き、動作、その全てが私には視える。
そして、その全てを躱し、その全てに反撃ができる。
禍々しく変化した私の左腕は容易く深きものの身体を切断した。それも三体同時だ。自分でもどんな動きをしたのかよく理解できなかった。
さらに左腕から生えている刃に手を掛けると、それを引き抜く。自分でも常軌を逸した行動だと思うが、その行為自体を止めることができなかった。
引き抜かれた刃は私の血で真っ赤に染まっている。それを深きものどもへと投擲した。
その瞬間、到達地点で光が走り、続いて爆発が起きる。
あの刃が爆発したのだ。
爆心地は深きものどもの血肉はおろか、その近くの建物でさえ無くなっている。あまりの熱量で蒸発したようだ。
もう、ないもかもが滅茶苦茶、狂っている。まるで悪夢が具現化したようだ。
この荒唐無稽な左腕は悪夢そのもの。
刃の投擲でかなりの数の深きものは消し飛んだ。
既に集団戦は終わっている。ここからはもう私による殲滅戦でしかない。爆発により深きものどもの戦意も完全に失われている。
戦局は決した。
深きものどもはその瞳に脅えだけを映して、我先にと逃げ始めている。今
度は私を誘い込むための逃亡ではない。邪悪な血と意思に染まってもなお生
に執着する生命そのものの逃亡である。
「こんのぉ! 待――――――ありゃ……?」
私はそれを逃がさんと動く――が、極度の疲労が私の足を止める。おかしい、あれほど動けていたのに。
「あ、あれっ? 身体が言うことを効かない……?」
その間も奴らは逃げる。一匹、また一匹と海へと飛び込んでいく。
「まっ、待てぇ…… クソッ、身体さえ動ければぁ……」
遂には片膝を地面についてしまうが、それでも奴らは襲い掛かってこない。もう、奴らは私を殺す気などないようだ。
「逃がしちゃったかぁ…… でも、師匠ぉ、なんかよくわかりませんが生き残りましたよぉ……」
疲労が頂点に達したのか世界が暗転する。
暗転する世界の中できっとのんびりして私の帰りを待っている師匠に報告した。すると、どこからか師匠の笑い声が聞こえた気がした。
それは疲れから来る幻聴だろうと思った、矢先に私は意識は深い闇へと沈んで行った。