迫り来る深きもの
最初に私の存在に気がついた深きものは倉庫の扉から十メートルぐらいの距離にいた。
淀んだ瞳で私を視界に捉えてもすぐには何の反応もせず、一瞬の間をおいてから驚きの声を上げた。
私はその隙を逃さなかった。
「ふぅん!」
走った勢いを利用して深きもののだらりと垂れさがった腕を掴むとそのまま地面に引きずり倒す。深きものが声を上げたのはそれと同時だった。その声はまだ自分が地面に倒されていることを理解しておらず、先ほどまで存在しなかった者がいきなり現れたことに対する驚きしかなかった。
「やはり、こいつら……」
深きものの身体の重さは人間と同じだった。これなら師匠の下で習った技も通じる。この情報は私にとっては朗報とも言えるだろう。
人型の外見でも重さが違ってくれば、こちらも掛ける力が変わってくる。そうすると予想していた場合よりも体力を使うことになるので、それによる体力の減少はなるべく抑えて起きたかった。
だが、その心配は杞憂だったようだ。
やつらの重さが人間と同じなら、体力のペース配分も狂うことなく計算に入れることができる。考えてみれば、やつらは人間と邪悪な眷属たちの血が混じっているわけだから、吐出した変化はそうは起きないはずである。
「悪いとは思わない、ここで散れ」
私は地面に引きずり倒した深きものに拳で止めを刺す。
次いで、次なる相手を確認する。
いた。
いや、いたというよりも既に集まり始めていると言ったほうがいいだろう。今、倒したやつが上げた叫び声で集まってきたのだ。
「ずいぶんとまぁ、こんなに数がいたもんだ。それでも、まだ予測の範囲だっ!」
集まっている数は倉庫の二回から確認した九体よりも多く、その数は十五体。いくら、やつらが遅いと言っても、それなりに走ったりできるので、ここでもたもたしていたらあっという間に囲まれてしまう。
師匠はこいつらと戦って集団戦闘に慣れろって言っていたが、ナルホド、これは確かに嫌でも慣れるしかあるまい。
じりじりと円を描くように深きものが私を取り囲み始めた。
「魚は鉱物なんだけど、さすがにこの臭いまでは好きにはなれないね……」
それにつられて鼻孔を強い生臭さが刺激する。あまりの悪臭に鼻を摘まみたくなるが、ここは我慢の時である。鼻を摘まんで片方の手が使えなかったら、隙が増えてしまう。
「とぉうりゃっ!」
私は包囲網が完成する前に一番近くの深きものに近寄り、今度は地面に引きずり倒すのではなく、単純に飛び蹴りを放つ。
ノロマな深きものは避ける動作もなく、私の飛び蹴りを真正面から受けて、派手に地面へと倒れた。
この飛び蹴りはやつに当たろうが、外れようがどちらでもよかった。当たれば、倒す相手が一体減って、外れれば、それはそれで包囲網から脱出できるので問題はなかった。
ここから私が執る行動は大きくわけて二つ。
一つは包囲網が崩れた隙をついて、包囲網を作っていた集団を倒していくこと。もう一つはこのままここから離れて狭い路地に入ってそこで待ち構えること。
一瞬よりも短い刹那の時の中で思考する。
考えは決まった。
私が執る行動は最初のここで包囲網を作っていた集団を倒すことだ。二つ目の案では大量の敵が襲ってきた際に一対一で戦うことができるが、逆に逃げ場が無くなってしまうし、何よりも身動きが取れなくなってしまうことはなんとしても避けたい。それに一対一では師匠の言った修行にはならない。
「さあ、どんどんかかってこい化け物ども。私は一人だ。いずれ、お前らの神である大いなるクトゥルフに仇なす者だ! ここで殺しておかなければ、近い未来、お前たちの神は滅ぶことになるぞ」
言ってやった! 化物相手に! それも最も数が多く、大いなるクトゥルフの眷属たちに!
興奮で身体が震える。
私の宣戦布告に深きものたちが吼える。それは怒りを通り越して、自らの神への冒涜に対する憎悪だった。
耳障りな咆哮は次第に街中から聞こえ始める。私の言葉が伝わったのか、それともやつらの咆哮が知らせたのかはわからないが、とにかく、これでこの街の全ての深きものが私の存在、大いなるクトゥルフに対する敵対者の存在を知ったのは間違いない。
憎悪で濁った瞳を光らせる深きものたちが動いた。
――それもさっきよりも速い。
冒涜への憎悪なのか、ノロマと思っていたやつらの動きは先ほどの動きを遥かに凌駕していた。地を蹴り、不規則な動きで私に迫る。
だが――
「遅いっ!」
迫ってきた一体を動きに合わせて迎撃する。不規則な動きとはいえ、結局のところ攻撃の終着点は私なのだから、それに合わせてこちらの攻撃を当ててやればいい。それだけで、こちらは無駄な動きをしないで、最小の動きだけで敵を倒すことができる。
私の拳を顔面で受けた深きものは不浄な音を立てて私とは逆方向へと吹っ飛んだ。自ら加速したぶん、私の拳の威力も上がっていたので、脳髄が派手にぶちまけられた。
また一匹仲間を失った深きものどもは、今度は慎重にならざるを得なく、あれほど殺気を撒き散らしていたのに、今では私に攻撃をすれば命を落とすのを確信して、襲い掛かってはこない。
これはチャンスだ。
戦意が削がれている今こそ、やつらを叩くチャンスだ。
私は走る。
「破ッ!」
たちどころに一匹の頭蓋を拳で粉砕する。そして、その骸をまた身近なやつへと蹴り飛ばす。
意外な攻撃に動けなかった深きものは、仲間の骸にぶつかり耐性を崩した。
私はその隙を見逃すほど甘くはない。
身体を回転さてたことで生まれる威力を武器とした回し蹴りで深きものの身体を捉える。回転により必殺の一撃となった私の足は深きものを死の世界へと運んでいく。
続けざまに仲間を二体もやられた深きものの輪が乱れた。
言葉にならない悲鳴を上げてチリジリに逃げ出したのだ。
「待てッ! 逃げるな!」
私の挑発を含んだ静止の言葉に耳を貸すことなく、四方八方へと逃げていく。一匹ならすぐさま動けるが数が多いとどれから仕留めていこうか判断が揺らぐ。
「ええいッ、どれから倒しても同じことかッ!」
それぞれが路地へと逃げ込んでいく中、私は最短距離にある路地へと向かった。ぐんぐんと速さを上げていく私に対して、深きものどもは必死に逃げるがやはり速さが違う。私の方が速い。
「捕まえッ――ひゃあッ!?」
逃げていく中で一番遅い深きものの首根っこを掴んでやろうと思い手を伸ばすが、途端に衝撃が顔から身体へと走った。
いや、衝撃だけではない。私の身体が後方へと飛んでいく。これって――
「蹴られた!?」
そうだ、私は顔を蹴られて吹っ飛んだのだ。吹っ飛んでいく最中、さきほどの路地を見ると、追いかけていたのとは違う、一匹の深きものが片足を地面に垂直につけて、もう片方の足を私の方へと向けている。あいつに蹴られたのは明白だ。絶対に倒してやる。
だが、それ以上に私を驚かす光景があった。
その路地にはかなりの数の深きものが私を見ていた。見えているだけで、十は超えている。いつの間にあの路地に集まってきたのだ。そんな疑問が頭に浮かぶが、それはすぐに解決した。考えられると答えとしてはやつらの咆哮だ。
私は憎悪の咆哮程度としか思っていなかったが、それは違ったのだ。
やつらは私がただの咆哮と思っているだけと踏んで、咆哮を使って仲間に指示をしていたのだ。
しかし、深きものの吹き溜まりとなっている路地に突撃しなくて助かった。あの深きものの蹴りは悪手だ。あそこで仲間を助けることよりも私を路地へと誘い込むことを優先していれば、路地内で私を袋叩きにできたものを。
内心、やつらの失敗をほくそ笑む私だったが、それがいかに愚かなことだったかと思い知らされるのに時間は掛からなかった。
街のあちこちの路地から深きものどもが大量に姿を現し始めたのだ。その数のすごいこと、百は超えているだろう。いや、百どころかまだまだ数を増し続けている。街にいたやつだけではない。海の中にいた連中も上がってきたと言ったところか。潮の臭いと生臭さがさきほどの比ではない。
やられた……
時すでに遅しとはこのことか。
ようやく、修行らしくなったというか、むしろこれはピンチだ。さすがにこの数は想定外、予測の範疇を大きく超えている。
既に戦意を削がれていたやつらも仲間が大量に集まったことから、再び憎悪をその濁った瞳に滾らせている。
敵の中には鉄パイプや角材を持ったやつが何匹かいる。こいつらは深きものの中でも比較的知能が高いやつらだ。どんな攻撃をしかけてくるのかわからないので注意が必要となるだろう。
まるで激流だ。私への怒りと憎悪が渦巻いている。
それらが空気を伝わって、ピリピリと肌を刺激する。
これは非常にまずい……
最悪でなくても、命の保証がない。
ここで死ぬかもしれないと言う気持ちが脳内に広がる。ダメだ。ダメだ。 そんな気持ちは捨てろ。師匠の言葉を思い出せ。一瞬の油断が命取りになるぞ。
私は拳を軽く握り、足を肩幅に開いて左足を少し後ろに下げる。いつもの構えだ。心臓の鼓動はいつもよりも若干早いように感じる。これだけの大群が相手だ。平常心を装っていても心臓は誤魔化しきれない。
やつらの数は増える一方だが気にするな。
そう自分に言い聞かせる。
そして、やつらの先陣が動くよりも早く――
私は動いた。