修行開始
私はとある港町に来ていた。
もちろん、観光ではない。今の世の中、観光している余裕などなく、生きてい聞くためにみんな必死なのだ。
それもこれも全て邪神たちのせいだ。奴らが現れてから世界は危うくも平和だった世界は一変した。邪神とその眷属たちの存在はそれだけで地球にも人類にも猛毒であり、瞬く間に環境、生活を蝕んでいった。
クトゥルフの影響で海の水は腐り、海の生き物たちの形は歪になったし、ハスターの眷属たちの腐臭は風に乗って大気は汚れ始めた。宇宙からやって来た色を奪い取る存在によって様々な土地が生物の存在を拒み、死んだ人々の死肉を食屍鬼が食い漁った。
人類もただ黙っていたわけではない。それまで、平和的な牽制を繰り返してきた人類もこの時ばかりは手を組み、邪神とその眷属への攻撃を開始した。
最初の頃は人類の最新兵器により、眷属相手に多大な戦果を出した。例えば、深きものが占領する港街へ自衛隊が奪還作戦を起こったときは即座に街を奪還した。いくら街一つが占領されていようと、所詮やつらは陸地ではノロマであり、銃器の火力の前では敵ではなかった。
さらにアメリカの対邪神組織の協力も得ることができ、後手に回っていた人類はじょじょに劣勢を跳ね返していた。
だが、その勢いも長くは続かなかった。
これまでは眷属の中でも数が多い存在がそのほとんどであったが、邪神たちも本腰に入ったのか、より上位の存在を送り込んできた。深きものが長い年月をかけて成長した大型の怪生物などが現れて奪還した街を再び奪われるようになってしまったのだ。
それだけではない。
敵は人類の中にもいた。
それが魔女だ。
魔女たちも邪神の眷属の出現に同調するように、古より伝わるその姿を現した。その力はまさに一騎当千であり、最新鋭の装備で身を固めた人類にも引けを取らなかった。中でも魔導書を持つ魔女の力は凄まじく、その強さは並みの化物よりも強いと言われている。
そして、人類に圧倒的な絶望を与えたのが大いなるクトゥルフとの戦いだった。クトゥルフの眷属は何よりも数が多く、深きものに至っては世界中に存在していた。なので、こいつらの士気を下げるためにも、頂点であるクトゥルフを叩くのが有力と思われて、世界中の強力な戦艦や戦闘機が戦いに投入された。
しかし、戦いの結果は散々たるものだった。クトゥルフに有効打を与えることなく、連合軍は壊滅した。この結果は逆に人類の士気を下げることとなってしまった。
これが響いたのは明白であり、それ以降の大きな戦いも人類は負け続けた。今では世界中の軍隊の機能は麻痺しており、ろくな戦闘をすることさえ難しい状況となっている。
だが、まだ人類は負けたわけではない。
今でも世界中では戦っている人たちがいる。今はまだ勝てなくても、きっといつか勝利できると思っている人たちもいる。そんな人たちがいる限りまだ人類は負けていないのだ。
だからこそ、私が邪神の一匹でも倒せたら、人類の士気は高まるはずである。そうすれば、この絶望的な世界を変えることだってできるはずなのだ。
話は港町に戻るが、確認できる範囲では私の他に人の姿は見えない。もう一度言うが人の姿は見えない。見えるのはノロノロと街を徘徊する深きものの姿だけである。
師匠の話では人口密集区では敵の数が多いが、そこから離れると敵の数もそれに比例して少なくなってくる。なので、今回私が訪れた街でやることはこの街の深きものを手当り次第に倒していくことである。街の解放は厳しいが、後々、自衛隊の残りやレジスタンスのような人々が戦っていくのが楽になるようにするためである。
「さて、まずはどうするかな……」
私の隠れている倉庫から見える範囲でも深きものがけっこういる。どいつもこいつも動きこそ鈍いが囲まれてしまっては不利なのは間違いない。
奴らはほとんどが全裸であるが、中には服を着ているやつもいる。服を着ているのは大抵は深きものになりたてのやつで、深きものになってから時間が経っているやつとは違い、まだ人間だった頃の知能が備わっている。
だが、こいつらに協力を求めてもダメである。人間の頃の知能があると言っても、基本的にはこいつらはクトゥルフを神と崇めていて、敵対する者には容赦はない。つまり、人間の知能を持った敵でしかないのだ。
この知能というものが厄介で、普通の深きものの攻撃は単調と本で読んだが、なりたては例外で武器を使ってくる者がいるらしい。鈍器や刃物ならまだいいが、銃器を使うようなやつがいたらさすがに厄介としかいいようがない。
陸地と海中を行き来するから銃器を使ってくる確率は低いと思われるが、可能性はゼロではない。警戒しておくにこしたことはない。
倉庫の扉をそっと閉めて、二回へと移動する。人が出入りしなくなってから相当な字癌が経っているらしく、倉庫の中は埃っぽくてカビ臭い。あまり長くは居たくはないが、それはやつらも同じこと。好んでこんな場所に入ってくる者などいない。だからこそ、隠れるのに向いているのだ。
二回から見える景色も同じだった。街のいたるところに深きものが徘徊しており、ときたま海へ飛び込んだり、逆に上がってきたりをしている。やはり、どいつもこいつも動きが鈍いことは変わらなく、一匹一匹では驚異にはならなそうだった。
ここでの戦いかたはとにかくスピードでやつらをかく乱することが重要だ。
師匠の下である程度の修業はしてきた。こんな鈍いやつらには後れを取るなんてことはない。
左目に触れてみる。
トラペゾヘドロンと一体化しているのか、宝石に覆われているような状態でも視力は失ってはいない。前と変わらずだが、逆に言うとトラペゾヘドロンによるパワーアップは起きてはいないということ。
師匠の言った通り、もっと私自身が強くならないといけないということか……
だが、今はここでジッとしているわけにはいかない。
もう一度、窓から外を確認する。倉庫に近いやつだけを数えるだけでも深きものの数は九体。多いのか少ないのかはわからないが、倉庫から離れるにつれて数が多くなっていく。
街は入り組んではいないが、どの道にも深きものが徘徊していて、隠れながら進むのは難しいだろう。ここの倉庫は街の中心からはやや離れた位置にあるが、それでも深きものがうろついていることを考えると進めば進むほど戦闘の回数も増えていくだろう。
隠れることができないなんて悲観することはない。ここには修行に来ているのだ。むしろ、隠れることは愚考だ。最悪の場合、逃げ道を塞がれることだってある。だからこそ、移動しながら戦ったほうがいい。
一階に下りて、軽く身体を動かす。特に違和感はない。いつも通りの身体。
いや、むしろいつもよりも動きが良くなっているかもしれない。これから始まる修業への気持ちが精神を高揚させているだけなのかもしれないが、それがひどく心地よい。
今なら、どんなことだってできそうな気がする。
それが例えどんな怪物を相手にしようとも。
軽く拳を握る。
そして開く。
それを何度か繰り返す。
僅かにだが、身体が震えている。
だが、恐怖からではない。武者震いだろうか。しかし、そんなことはどうでもいい。
倉庫の扉に手を掛ける。ちょっとでも押せば扉は開く。そうしたら、もう後戻りはできない。そこから後はただひたすら強くなるためだけの修羅の道である。
後戻りする気などない。この世界はこうしてる間も滅びへと向かっている。それはつまりやつらの祈願が成就するということ。その祈願が成就するということは人類の終焉。それだけは絶対に阻止しなけらばならない。
――カンッ
倉庫内にラップ音が響く。
その音で私は我に返った。
らしくない。
私らしくない。
高揚感からなのか、私らしくないヒロイックな気分になっていた。
落ち着け。
心を静めろ。師匠が言っていただろう。一瞬の油断が命取りだと。
再度、左目に触れる。
固いが冷たくて、熱くなった心の熱が消えていく。
行ける!
そうして、私は扉を勢いよく開いた。