バイアクヘー召喚
師匠が境界線を操ることで、庭の空間に歪みが生じ出口ができた。その出口は陽炎の様に揺らめいている。
「では行くとしようかのう」
「はい!」
師匠が先導する形で私はその後についていく。
出口となっている歪みの内部はまるで霧に覆われているように視界が悪い。だが、歩いていると霧の向こう側で音が聞こえてきた。進むにつれて、その音はだんだんと大きくなり、ついにはその音の正体がわかった。
「波……? 師匠、波の音です。修行の場は海の近くですか?」
「ほほ、楽しみにしておれ」
その光景はすぐに訪れた。
霧を抜けると、私の視界いっぱいに大海原が広がっていた。
「うっっわ~!! すっごい! こんな海初めて見ました! 師匠! ここ
はどこなんですか?」
「ここはとある無人島じゃ」
「へー、無人島ですか~」
振り返るとすぐ向こうに森がどこまでも続いているのが見える。
こんな文明の文の字も無いような島は確かに無人島だろう。
「でも、本当に綺麗……」
空はどこまでも突き抜けていくような蒼穹。海はクトゥルーの影響が出ていないような程にキラキラと光り輝いている。
「こんな景色は旅行会社のパンフレットでしか見たことないですよ!」
「妾もこのような景色は久々じゃ。じゃが、クトゥルーの影響が全く出ていないというわけではないようじゃのう」
そう言って師匠は波打ち際を指差す。
「ん? うーん? げっ……!」
波打ち際に小さい何かがいた。
それは歪な姿となった魚だった。
クトゥルー復活後、その影響で変異する魚が世界各地で確認されるようになった。特に島国である日本への被害は凄まじく、今では魚は希少な食べ物となっている。もちろん、変異していない魚に限られるが……
「こんなに海は綺麗なのに…… それでも影響は出ているんですね……」
変異した魚は攻撃的で鋭く尖った歯で所構わず噛みつきをしてくる。波打ち際で流されている魚はどうやら死にかけのようだが、それでもその瞳は狂気に憑りつかれたようにギラギラと物騒な光を放っている。こんな美しい景色には不釣り合いだ。
「ほれ、そんなのに見惚れてないで始めるぞ」
おっと、そうだった。人生で初めて見た美しい光景と見慣れた異形に見惚れてしまっていたが、ここに来た目的を忘れていた。
そう、修業だ!
師匠が家から持ってきた黄色い液体の入った瓶の蓋を開けると、一気に喉へと流し込んだ。
「ぷっひゃーー!」
変な奇声を上げる師匠。まるでおっさんみたいだ。
「くぅ~~、なんとも言えない味じゃ」
そんなことを言いながらも師匠の顔はご満悦である。
「――って! 師匠の身体から変な光みたいなのが出てるんですけど!?」
所謂、オーラってやつなのかな?
師匠の身体から私の眼からもはっきりと光が見える。光は師匠の身体を包み込むんでいるが、不思議と嫌な感じはしない。
「この味も何十年ぶりかのう? いつも以上に感覚が研ぎ澄まされておるわい」
「師匠、思い出したのですがバイアクヘーを召喚するには笛が必要ではありませんでしたっけ?」
「大丈夫じゃ、本来なら魔力のある笛が必要と言われておるが、今の妾にはそんなものは必要ないのじゃ」
そんなものなんですかね?
でも、確かに師匠の言う通り、今の師匠はいつにも増して強そうである。身体から溢れている光のせいかな?
「イア! イア! ハスター!」
師匠が呪文を唱え始める。いつもと違って師匠の声は低く濁っていて、地獄の底があるなら、そこに住む者はきっとこのような声をしているのだと思わせるほどだ。
「ハスター クフアヤク ブルグトン ブルクトム ブグトラグルン ブルグトム――」
師匠の声が熱を帯びてくる。それに呼応して身体から溢れる光が強くなってくる。
「――アイ! アイ! ハスター!」
最後の一節を唱え終わる。
私はすぐに身構えた。
どこだ? どこから現れる? バイアクヘー、その姿はいかなるものだ?
だが――
「――出てこないですね?」
そう、出てこないのだ。呪文を唱えたのだ、すぐにでも現れると思ってたのだが…… なぜ?
「いや、そうでもないぞ。ほれ、あれを見てみい」
困惑する私に師匠が語りかける。その声は呪文を唱えていたときと違って、いつもの声に戻っている。
促されるままに空を見上げると、突き抜ける蒼穹に一点の染みが見えた。それがだんだんと大きさを増してくる。
「あれが!?」
「そう、あれがバイアクヘーじゃ」
黒い染みは点となり、徐々に姿がわかってくる。それは――
しかし、具体的な形を理解する前に突然、バイアクヘーは急激な加速をして私たちとの距離を詰めた。
「――っな! 速い!?」
一瞬、硬直した身体を緩ませて臨戦態勢を取る。
だが、その速さは私の想像以上だった。なんとか目で追うことができたが、気を抜けば視界から消えていくだろう。
しかし、何よりも驚愕したのはバイアクヘーは私ではなく師匠を狙ったのだ。
師匠!?
なんて叫ぶよりも速くバイアクヘーは師匠へと突っ込んだ。
派手な土煙が上がり辺り一面を包み込む。
状況が判断できないが、最悪の予感が頭を過る。
いくら、私よりも強いと言ってはいたってあの加速から突撃を受けたら師匠とて無事では済まない。粉微塵になっている場合だってある。
「うん……?」
おかしい。何か引っかかる。何だ? 師匠の安否が気になるはずなのに……?
そうだ。肝心のバイアクヘーはどうなった? 師匠に突撃したのはわかるがそれ以降は姿を現してはいない。仮に空へと上がったとしても、それなら土煙が早く晴れるはず。
だが、煙は晴れてはいない。ならば、答えは一つだ――
――バイアクヘーはまだ師匠の目の前にいる……?
そんなバカな……
現状を脳が必死に理解しようとするが追いつかない。
すると、バイアクヘーが突っ込んだ場所から声が聞こえてくる。
「なんじゃ? その程度の力で妾を仕留められると思っておったのか?」
師匠の声だ! 声の感じからして、怪我はしていないようだが、いつもと声の雰囲気が違う……?
「ハスター復活前なら召喚者の言うことを聞くようじゃったが、ハスターが復活した今となっては召喚者さえも見境なしと言ったところじゃな。じゃが、貴様のような雑魚如きが束となっても妾に傷一つ付けることはできぬぞ?」
「ギィィイイイイイイッ!!」
師匠の言葉に反応するかのようになんとも耳障りで不快な音が響く。私はそれがバイアクヘーの鳴き声だと理解するのに僅かに時間が掛かった。
「悪いが貴様は妾の弟子の相手をしてもらう。なに、案ずるな、貴様が妾の弟子を殺すことができたら貴様は生かしておいてやる」
土煙が晴れてきたとき、私はとんでもない光景を目にする。師匠は確かに私の師匠だ。人間離れした技や魔術を持つと言い、基礎程度にだが私にも教えてくれたりしてくれる。だが、それはいつも適当であり、基礎を超えることはなかった。
でも、私は目にしている。師匠は力の一端を。
土煙が晴れた先で、師匠は手を目の前にかざしてバイアクヘーの突撃を止めていた。いや、止めていると言うよりも完全に停止させている。バイアクヘーがどんなに力を込めて押しても、ピン真っ直ぐ前にかざされた師匠の手は後ろへと押されることはない。
ただの力技ではあのように完全に停止させることは不可能だ。ならば、やはり魔術の類か?
師匠が私に見せたことのない邪悪な表情をする。その顔はこの状況が楽しくて、楽しく仕方がないことを表している。
「貴様はあくまで弟子の練習相手だ。もう一度、言う。貴様はあくまで練習相手だ」
師匠が怪物に宣言する。邪神の眷属にだ。
私が深きものどもに言った挑発や自分を鼓舞したり、勢いで舞い上がっているのとは違う。
それは完全な宣言であり――警告だ。
「ギッ! ギィィィイイイイイイイッ」
バイアクヘーの不快な咆哮が響く。だが、その咆哮に師匠を威嚇するだけの覇気はなく、完全に師匠に脅えている。
「と、言うわけじゃ。聞いての通り後は任せたぞ? こやつはあくまで練習相手じゃ。お主なら負けることはない。存分に戦え!」
師匠が前にかざしていた手を下げると、バイアクヘーの身体に自由が戻った。
そして、再度、不快な咆哮を響かせると新たな獲物として認識された私へと向かって禍々しい翼を広げた。