最後の朝食
「これ! 起きぬか!」
どうにもうるさいなと目を覚ますと、顔の真上に師匠の狐に似た顔があった。ちょうど、私が起きればそのまま互いの唇が触れ合う距離であるが、私にはそのような趣味もない。たぶん、師匠にもない…………はずである。そう信じたい……
「いつまで寝ておる! 早く起きぬか!」
師匠の鉄拳が私に頭に直撃する。
これならまだ接吻の方が乙女チックなのだが、師匠はおかまいなしである。
「師匠~、ずいぶん朝早いですね~ そんなに早いとますますお年寄りに思われちゃいますよ~?」
「うるさい! 誰が年よりじゃ、誰が!」
ゴンっと何か固いものが当たる音がした。あ、また師匠の鉄拳が私に炸裂したのか。
「~~っ、痛いじゃないですか!」
「眠気覚ましにはちょうどいいじゃろ」
そういいながら、師匠は腕をヒラヒラとさせている。どうやら思いのほか痛かったようである。ん? これって私の頑丈さも上がってるってことかな?
「ほれっ」
師匠が私に洗面用具を放り投げる。
「っとっと」
いつも私が使ってる洗面用具一式だ。
「顔を洗ってこい。そしたら朝食じゃ。そのとき今度の相手を教えてやる」
相手!
師匠はちゃんと考えてくれたようだ。
「どんな相手ですか!」
意気込む私だったが、師匠は指で廊下に通じる扉を指す。
「早く、顔を洗ってこい!」
「はーい!」
急かしても教えてくれなそうなので、急いで洗面所へと向かった。
ここで私と師匠が住む家について説明しようと思う。
そもそも、この家はこの世に存在するわけではない。この世の夢の境界が
曖昧になる境界線上に存在しているのだ。境界線はどこにでもあるわけではなく、見つけることも難しい。
師匠は高位の魔女であるから、その境界線を見つけることに長けていて、
自らの術を使い家を建てたのだ。
また、師匠の力で家が存在する境界線を操ることで世界各地の境界線に家が存在する境界線を書き換えることができる。私には凄すぎてそれについてはあまり理解できていないが、きっと、私が強くなればできるようになるかもしれない。ちなみに私は偶然に日本に来ていた師匠に拾われたのだ。
さっきから家と言っているが、その実は家よりも大きく屋敷と言った方が適切である。だが、私は家と呼ぶことにしている。その呼び方の方が私は好きなのだ。家族を失った私にはとって、師匠は唯一の家族。だから、その家族といっしょに住んでいる場所を家と呼びたいのだ。
長く迷路のような廊下を歩くとようやく洗面所が見えてくる。この家は大きいのに洗面所は一つしかなく、それについては大変不便としか言いようがない。
前に師匠に洗面所を増やしてみてはどうかと尋ねたことがあるが、返答はノーだった。その理由は簡単で新しく作るのが面倒とのこと。それを言われたら、こっちはもう何も言いようがない。それに基本的に師匠はあまり身体を清めることはしない。だが、それで臭うということもない。不思議なことだが、身体の清潔さや体臭なども魔術でどうにかしているらしい。
だから、私は師匠が浴場を使っているところは見たことがない。
洗面所に着くと大きな鏡が私を出迎えてくれる。その大きさたるや、私の全身を映すである。
洗面台に水を溜めてる間に石鹸を泡立てる。不思議とこの短い間は心は無心になっていると思う。泡だったら、それをそっと顔につける。力は加えない。卵を扱うよりも繊細に乙女の肌に石鹸をつける。左目を中心としてトラペゾヘドロンによる変化が起きてるが、それでもいつものように慎重に慎重に。
つけ終わったら、水で優しくすすぐ。水が台に飛び散らないように慎重に慎重に。
「ぷはっーー」
すすぎ終わったら、泡を流し忘れてあるところがあるかどうかチェックする。
「……よし!」
流し忘れてあるところはない。
大鏡に映る私の顔は一部を除いていつも通りだ。
しかし、改めて自分の中にトラペゾヘドロンがあることを実感できる光景である。この左目が核弾頭よりも危険とは……
本当に物騒な話だが、私個人はそれについて悲観的にはなっていない。
これまで、生きながらにして怪物になった人々を見たことだってあるのだ、今さら自分の顔の一部が変化したぐらいでは驚かない。……いや、乙女の顔に少し変化が起きていることはやはり少しショックと言った感じだ。
だが、見ようによってはこれはこれでおしゃれ、かっこいいかもしれない。だって、仮面にみたいになってるんだよ! 昔、テレビで見たヒーローだよ!
師匠にはその無駄に前向きで明るいのが私の取り柄と言われたがそれは間違いない。こんな狂った世の中だ。せめて、私ぐらいは無駄に明るく生きていこうと思う。
「さて、戻りますか」
途中まで来た道を戻り、師匠の部屋へと向かう。この家には大きな食堂があるが、私は使ったことがない。師匠に最後に食堂を使ったのはいつだと聞くと、
『百年ぐらい前じゃ』
などと言った。
たぶん、嘘ではないと思う。師匠はよく私をからかうために嘘を吐くが、すぐにばれる。が、食堂はどうやら本当らしい。まるで雪の如く埃が長机や椅子、食器に積もっているのだ。
それも尋常ではない量だ。その量が百年分と言われても疑いようがない。
それに私もあんな長い机だと落ち着かない。食事をするときは程よい大きさで十分だ。この意見には師匠も賛成で、私が拾われてからは師匠の部屋で食事を取るようになった。それなら、師匠はそれまでどこで食事を取っていたかと疑問になるが、それは簡単だ。お腹が空いたら、場所を選ばずその場で食べる。実に簡単なことだ。私が拾われて暫くの間は掃除をするたびに師匠が食べてその場に捨てた。謎の生物の肉なんかが落ちていたりしたものだ。
私はそんな謎の生物の肉なんかは食べず、師匠に頼んで適当に境界線を弄って街へと出て買い物をしている。
私は料理が苦手だが、師匠はもっと苦手だ。これまでほぼ生で食べていたようだから料理なんてもってのほか、まあ最近は簡単なものぐらいなら作れるようにはなったのは喜ばしいことだ。
「やっと来おったか、先に食ってしまうところじゃったぞ」
「はいはい、すみません」
私が部屋に入ると既に師匠が椅子に座って待っていた。机には私が買ってきたパンやベーコン、サラダなどが並べられている。
私も椅子に座ると、
「いただきます」
「いただきます」
と、二人とも手を合わせて言った。
このいただきますも私の影響だ。
「師匠、やはりこの家にもう一つ洗面所作りましょうよ~ いちいち遠くまで歩くのは大変なんですよ」
私の部屋があるのは三階、洗面所は一階にある。どうしても行きかえりに時間が掛かってしまう。
「別に妾は大変ではないぞ」
しれっと言って、口にパンを放り込む師匠。
「そりゃあ、そうですよ。だって、師匠はこの家ならどこでも好きに移動できるじゃないですか」
この家を造ったのは師匠だ。部屋から部屋へと一瞬で移動するなどわけはない。つまり師匠はワープができるのだ。全ての部屋に直通、だから洗面所などは一部屋でよいと言うことだ
「若者は足腰を使え、特に強くなりたいというお主ならなおのこと動け。そうした地味な積み重ねがお主を強くする」
地道ではなく、地味ですか……
だが、師匠の言うことも間違いではない……のかもしれない。まずは強くならないと。
「それで、今日の相手はなんですか? 早く、どんなのが相手なのか知りたいです」
「そう急くな。もしかするとこれが最後の朝食になるかもしれんからのお」
「最後の晩餐ならぬ最後の朝食ですか?」
師匠の言い方に背筋がゾクリとした。そうだ、戦うと決めたが、まだ私は弱い。どんなことで命を落とすかわからない。
「ほれほれ、手が止まっておるぞ? そう固くなるんではない。ほれ!」
師匠が私の口の中にパンを突っ込んでくる。
「ふぎゃ! ふぁふぃふんでふふぁ~」
いきなり口にパンを突っ込まれたから上手く話すことができない。そんな私を見て、師匠は笑っている。
「さて、今回の相手じゃったな」
「ふぁい! ――んぎゅっ、ぷはっー」
ようやく明らかになる相手の正体に私は口の中のパンを全て呑みこむ。どんな怪物と戦うことになるのかと思うとあの震えが私を襲う。これはどちらかと言うと未知の相手を前にしての恐怖の方が強いかな。
「今回の相手はバイアクヘーじゃ!」
「バイアクヘー? それってあのバイアクヘーですか?」
「この世に他にバイアクヘーがあるかどうかは妾は知らんが、今回はバイアクヘーと戦ってもらうぞ」
いきなり相手の強さが跳ね上がってませんかね、師匠?
バイアクヘーとは大いなるクトゥルフの兄弟と言われている黄衣の王ハスターの眷属である。その速さは相当のもので地上を縦横無尽に飛び回る。だが、奴らのホームグランドは地上ではない。奴らが得意としている戦いの場所は宇宙だ。宇宙での奴らの速さは地上の比ではなく、その速さは光速に達すると言う。
「師匠、どうやって宇宙に行くのですか?」
当然の疑問だ。ロケットもなし宇宙に行くなんてことはできない。だが、師匠は――
「何を言っとるか、このバカモノは! 今のお主では宇宙など行けるわけが
なかろう。それにお主では宇宙での戦闘になったら嬲り殺しに合うだけじゃ」
「それじゃあ、戦う場所は――」
「当然、地上じゃ。じゃが、侮るなかれ。地上でもバイアクヘーの速さは並みの人間じゃ捉えることなぞ不可能じゃ」
並みの人間では捉えることは不可能か…… 面白い。私が並みかどうか試してやる。
「だいたいのことはわかりましたが、どうやってバイアクヘーを探すんですか? 深きものとは違って空を飛んでるから一定の場所に留まるってことは少ないと思われますが?」
現在、地球で最も数の多い邪神の眷属は深きものどもと考えられている。奴らは星辰が正しき位置になる前から邪神復活のために暗躍して人類との戦いに備えて長き年月を費やしてきたのだ。そして、邪神復活と同時に侵略を開始して多くの街を支配下に置いている。
だが、バイアクヘーなどは基本的には行動そのものがあまり知られてはおらず、ハスター復活後の行動しか知られていない。だいたいが何匹かのグループで行動して、高度から突撃などを行い攻撃すると言った単調なものである。
「簡単なことじゃ。バイアクヘーを召喚するのじゃ」
「召喚?」
「そうじゃ、召喚じゃ」
確かバイアクヘーの召喚って――
「黄金の蜂蜜酒を使うんですよね?」
「うむ」
黄金の蜂蜜酒とは飲むと精神が高めれれて時間と空間を飛ぶことができると言われている。これを飲んで魔力がある笛を吹きある呪文を唱えるとバイアクヘーを呼ぶことができると前に師匠に習った。だが、それを実際にしたところは見たことがない。本当にできるのだろうか。いや、師匠は魔女だ。それぐらいやってのけるはず。
「準備は既にできておる。後はお主しだいじゃ。少し時間を空けるか? それともすぐに始めるか?」
戦いの時は私に委ねられた。どうする? すぐに始めるか? どうせいつやっても同じこと、なら早く強くなるほうがいい。だが、少しは身体を動かしておいた方がいいか? 深きものどもと戦った際も倉庫の中で一通り身体を動かしてから臨んだからな。それにバイアクヘーは速い。なら、身体をベストな状態にしておいた方がいい。
「軽く身体を動かしてからにします」
「そうか。まあ、速い相手だから気をつけることに越したことはないじゃろう。では、今から一時間後にバイアクヘーの召喚を行うことにしようぞ」
一時間。それがもしかすると私の人生で好きにできる最後の時間かもしれないのか。そう思うと少し寂しい感じがしないでもない。だが、私は無駄に前向きだ。その時間を思い出に浸ったりしない。戦うために身体を動かしてこよう。