トラペゾヘドロンのこと
「このトラペゾヘドロンは邪神の一柱にして、大いなるクトゥルーを筆頭とする邪神たちよりも強大な力を持つナイアルラトホテップを呼び出すことができると言われる代物なのじゃ」
話初めて初っ端からとんでもないこと言う師匠だ。そんな物騒なものを弟子に与えるな。
「破滅と混沌を楽しむ邪神だったがいつしかその姿は誰も知ることなく世界から消えたのじゃ。いくつかの召喚器と言われる物を残してのう」
「その召喚器というのが、このトラペゾヘドロンということですね」
私は左目の周りをなぞる。固い感触が伝わってくる。
「人から人へとトラペゾヘドロンは移り、いつ頃だったか妾の下へとやってきたのだ。妾はそれがどういうものか色々と調べてみのじゃが、ほんの少しのことしかわからなかった」
「ちょ、師匠! それって、まずいじゃないですか! 私の左目に大いなるクトゥルーを超える邪神を呼び出す物騒な物が同化してるんですよ! いつ、呼び出しちゃうかもわかりませんよ」
この師匠はなんてものを弟子に渡してくれたんですか! 自分の左目が核弾頭よりも危険なものに思えてくる。いや、思えてくるなんてものじゃない。これは危険すぎる。生半可な考えは捨てないと、私どころか世界が滅ぶ。
「そのことなんじゃがな」
師匠が私の思考を遮るように話を続ける。
「いくら、調べてもナイアルラトホテップが残したトラペゾヘドロンが発動した記録はないのじゃ。見落としている可能性もあるが、もしそうだったらかなり大規模な事件になっているはずじゃろう?」
師匠の言っていることは確かに一理ある。大いなるクトゥルーよりも強大な邪神なら現れただけで世界を滅ぼすことなんて容易いだろう。でも、そんな事件が起きていないと言うことは召喚されたことはないってことなのか。
「そこで妾は考えたのじゃ、これは召喚器ってよりもむしろ魔術や呪術を強化するためのものではないかと」
「その根拠はなんですか?」
私の質問にニヤリと嗤うと、
「自分で試してみたのじゃ。もちろんそのときは自分に入ってこないようにのう」
こ、こ、コンニャロウーー! 私で実験したってことかーー!
「ま、まあそう恐い顔をしなさんな。……さて、話を戻そう。やはり、このトラペゾヘドロンは召喚器ではなく強化する物だったというわけじゃ。なかなかの物を手に入れたと思ったが、その反面、妾には使い道がないと思ったのじゃ」
どういうことだ? これほど強力な代物だ、魔術師である師匠に使い道がないなんてことはないだろう。
「なんで使い道がないんですか?」
「だって妾は世界のために戦うようなキャラじゃないもーん、ってことじゃ」
うん、そうだ。師匠は確かにそんなキャラじゃない。私が邪神を倒すって言うまで、知らん顔だった。
そもそも師匠は怠惰と惰眠を貪って生きているようなものだ。自分からこの世界をどうにかしようとする者ではない。
私を拾って鍛えたのだって、暇つぶしの一環だろう。
「腹が立つくらいその通りですね」
「じゃろ?」
でも、その性格のおかげで私は今日まで生きることができたし、邪神やその眷属に仇なす力を手に入れることができた。それについては師匠に感謝しなければならない。
「少なくとも妾と同じぐらいの力を持てば、トラペゾヘドロンも力を発揮するはずじゃ。だから、今はせいぜい精進することじゃな」
精進か……
今の私にはそれしかない……か。
「ちなみに今の私が師匠レベルまで強くなるにはどうすればいいのですか?」
「うーむ……」
考えこむ師匠。
「うーーーーむ……」
まだまだ考えこむ師匠。
「ちょっ、そんなに悩むほどなんですか!」
そんなに考えこまれたら不安になってしまう。
「どれくらいで妾ほどに強くなれるかというとじゃな……」
「は、はい!」
いきなり言うものだから、緊張してしまいます師匠。
「とりあえず、今回戦った深きものどもと同じぐらいの数を一度に倒せるようになればいいかのう……」
「……あれほどの数を一度にですか?」
「うむ」
「マジですか?」
「マジじゃ」
……なんていうことだ。あれほどの数を一撃で……?
いやいや、さすがにそれは無理ですよ。だって、師匠の言う暴走状態でも全部は無理だったのに……
「なんじゃ、諦めるのか?」
「…………」
「まあ、妾ほどに強くなるのはそうとう大変じゃからな。諦めるのも一つの手かもしれんな」
諦める……か。
「ふふふっ」
笑いが零れる。
「ん? どうしたのじゃ? 笑いおって?」
「師匠、諦めるって言葉は私には愚問ですよ? 師匠に拾ってもらってから、滅茶苦茶な修行にも耐えてきたんです。ここでそう簡単に諦めてたまるものですか!」
我ながら威勢よく言ったものである。
「ほほー」
師匠も驚きの声を上げる。
「やる気はあるみたいじゃのう。それなら、次の修業相手でも考えるとするかのう」
私が諦めの悪い弟子ということは伝わってみたいだ。
「次の相手はなんですか? 強くなるためにはなんだってやりますよ!」
急かす私だが、対する師匠は手で静止する。
「まあ待て、まずはお主に何が足りていないのかを考える必要があるからのう。じゃが、お主の場合はまだまだ足りていないのが多いからのう……」
「師匠―、はっきり言いすぎですよ。もっとオブラートに包んで言ってくださいよ。いくら私がやる気に満ちて、諦めが悪いって言ってもそうはっきり言われると結構傷つきます」
この場合は半分冗談で半分が本当。弟子なんだから、言い方にも手加減がほしいところだ。しかし、師匠はそんなことをするタイプではないのでこれは無いものねだりと言ったところか。
「一晩考えてみるから、お主もまずは体力を回復させておけ。修行しようには体力がなかったら修行にすらならん。しかも、相手は深きものどもよりも数段強いと思って覚悟しておけ」
「ぶー」
わざと膨れっ面をしてみるが、師匠はすぐに自分の部屋へと戻っていった。
どうやら、一応真剣に私の次の修業の相手を考えてくれるようである。
だが、師匠が真剣ということは次の相手はどれほどの強さを持った怪物なのか……
身体は震えるがその震えははたして恐怖なのか武者震いなのか、自分でもわからなかった。