さよなら信号機
嫌な日でした。
暑くて湿度も高くて、風なんてそよとも吹いてなくて。
何日も雨が降らないから、そこらじゅうほこりっぽくて
アスファルトはしらじゃけていました。
わたしは、信号が青に変わるのを待っていました。
殆ど車なんて通らない、片道一車線の小さな道路でしたが、
歩行者用の信号はずっと赤のままです。
左右どっちを見ても、まっすぐな道路の向こう側には、
車の来る気配すらありません。
わたしは、ここを渡った先の小さな本屋に
時間つぶしにいくつもりでした。
家にいたって暑いだけだし
少なくとも、その店にはクーラーが効いているはすだったから。
どれだけ待ったでしょう。
それとも、まだ1分も待ってはいないのでしょうか。
全身から汗がじわじわとにじんで、不快指数はマックスに近いかんじ。
わたってしまおうか。
どうせ車なんてきやしないんだから。
そう思っても、足が出ません。
だって、赤信号では渡っちゃいけないってルールでしょ?
ルールは、守らなきゃいけないでしょ?
ふと、左のほほに風が当たった気がしました。
あっという間にその人は、赤信号など意も解さない様子で渡っていきました。
さっそうと、髪の毛がなびいて、いかにも涼しげでした。
私は、やるせない思いで、その人の後姿を見送っていました。
そして、自分をばかみたいだと思いました。
あの人のようにすればいいのは、わかりきったことなのです。
車なんて、きやしないんです。
なんてのろまなわたしなんでしょうか。
どうして、状況を見て、そのときに適した判断ができないんでしょうか。
・・・でも、だって、ルールはルールでしょ?
もしどこからか、小さな子供が見ていたら困るし・・・・
知らず知らずのうちに、うつむいていました。
くたびれたサンダルを履いた、ペディキュアのはげかけた
みっともない自分の足がそこにありました。
「あの信号機は、壊れてるんだよ」
くたびれたサンダルが、いかにもダルそうにぼそりといいました。
本当かしら?
一瞬そう思いましたが、まさか、壊れた信号機が放置されているわけがありません。
わたしは、聞こえないふりをして、じっと待ち続けました。
ふいに。
くくくくく。
誰かが嗤ったような気がして。
左右を見回しましたが、相変わらず、ほこりっぽい寂れた道路が
続いているだけです。
アンタ、さあ、ばぁか?
さも、ばかにしたように、わたしにそういったのは
ずっと赤のままの信号機でした。
おれねぇ、おれ
こうやって、人をばかすのがだぁいすきなんだよぉ。
いつまでたったって、青になんてしてやんないんだよぉ
唖然としているわたしにおかまいなく、信号機は楽しそうにしゃべり続けます。
いるんだよねぇ、あんたみたいなやつ、ときどきさぁ。
融通がきかないってゆうの?
臨機応変にできないってゆうの?
たんに愚図ってゆうの?
自分たちが作ったつまんないルールに縛られてさぁ
なんでそのルールが出来たのかも 忘れちゃってさぁ
そのルールが何のためにあるのかも 考えられなくってさぁ
あんた、自分がすっげぇ間抜けなの、わかってるんだろぉ?
なのに、かえられないんだよなぁ、ばぁかだなぁ。
ああ おもしれぇ おもしれぇ
信号機は、さもおかしげに嗤います。
私は、暑さと、怒りと、羞恥で
わけが解らなくなります。
手が震えて、さっさとこの白いまだらの模様の上を歩いていけばいいのに
でもそれもできずに、たちつくしてしまいました。
わざとだったんだ。
わたしを愚図っていった。
わざとしかけて、かかった私を愚図だと嗤っている。
腹が立って、腹が立って、しようがありません。
足元の小石を拾って、投げつけてやろうか。
あの、とりすました赤いライトを壊してやろうか。
いいえ、そんな事をしたら、器物破損で捕まってしまう。
弁償しろって言われるでしょう。
信号機の修理費なんて、一体いくらかかるのか
私には見当もつかない。
でも、腹の虫は収まりません。
どうしてくれよう どうしてくれよう どうしてくれよう
怒りで目が回ります。
喉がからからに渇いて
ますます汗が出てきます。
・・・・・あら? どこかで聞いたことのあるメロディ・・・・
いつの間にか、隣に立っている人がいました。
セミロングの髪をポニーテイルにして
小さなつつみをひとつ、右手に持っていました。
空色のタンクトップに、白いサブリナパンツがさわやかで
まるでそこだけ、涼しい風が吹いているかのよう。
「あの・・・・」
迷った末、私は言いました。
「あの信号機、イジワルをしているんです。青にはなりませんよ」
早口にそういうと、その人はゆっくり私を見て
そして信号機を見ました。
「だから、無視して渡ったほうがいいですよ」
私がそういうと、その人はもう一度私を見て
「そうなんだ」
というと、以前赤いままの信号機に目を向けて
「かわいそうに」と 言うのです。
同情されてしまったようです。
私は、どんどん惨めになっていきました。
「かわいそうに、あの信号機」
その人は、もう一度はっきりとそういいました。
「信号・・・機が??」
私は唖然と聞き返しました。
あんなイジワルな信号機が可哀想だなんて、どうかしてます。
「うん、かわいそう。自分の仕事に誇りがもてないんだね」
相変わらず車は一台も通らず、夏の日差しは過酷でした。
その人につられて、わたしも信号機を見ました。
依然、赤のままの信号機。
私のサンダルの、「壊れているんだよ」といったあの声が思い出されます。
「そういえば、一体なぜこんな交通量の少ない道路に横断歩道が作られているのかしら」
思わずそうつぶやいていました。
ずっとずっと むかしに
さっきとは違う、神妙な口ぶりで信号機が話します。
ずっとずっと昔に ここで 事故があったのさ
耳の不自由だったその子は 珍しく車が来たことに気が付かなかった
運転手のほうは、相手がよけると思っていた
しばらく花束やプレゼントが置かれていたこの場所に
おれがつくられたのは その2ヵ月後さ
べつに 最初っから 意味もなくたっていたわけじゃあないのさ
今は 無意味だと思うけどね おれはね
最後の言葉は、寂しげだったような気がします。
さっきまで、高慢ちきに人を嗤いものにしていた信号機とは思えないくらいに。
「壊れているっていう噂は、本当なの?」
そっと、そうたずねてみました。
もう、なんねんも前からさぁ
青がつかなくなったのはねぇ
でも 誰も困らないみたいだからさぁ
直しにもこないんだよねぇえ
気にもとめてないみたいだからさぁ
あんたみたいに 律儀に待ってる奴なんてさぁ
なんねんに一人ってなもんだよぉ
おれは 青にはしてやれないのにさぁ
ああ
むかつくぅう むかつくぅううううう
すでに私は 信号機がかわいそうになっていました。
そして なぜ自分のサンダルを信じなかったのかと 思いました。
私の一部が 私のためにならないことを 言うはずがないのに。
なんて哀れなんだろう かわいそうなんだろう
信号機も 私のサンダルも。
でも
最初にそういった隣に立つその人は
「ふふん」って笑うんです。
「自覚があるのに、自分ではなにもしないのね」
なんて、言うんです。
立っているしかない信号機に、なんてむごいことを言うのでしょうか。
おれは ここを動けない
どうしようが あるっていうんだぁ
その通りだと思います。
「動けないと思い込んでいるものが 動けたためしは 確かにないわね」
その人は、冷ややかにそういいました。
私には、その人の その言葉の意味は理解しかねました。
信号機は、しばらくなにか考えていたようでした。
が。
ずずず、っと、地面から2本の足を取り出して。
そしてくるりときびすをかえすと
すたすたと歩き出しました。
おれは ここに 必要ないぃ
別のところに いくぅ
「そうね、直してもらうといいね、ついでに」
隣に立つ人は、信号機の後姿にそういいました。
わたしは、信号機になにか気の聞いたことを言いたかった。
だけど
「また、会えたらいいね」
なんて、つきなみな言葉しか。出なかったのです。
信号機は、少しだけ振り返った気がしました。
あんたも、なぁ。
そういうと、すたすたと歩いていってしまいました。
あとには、白いしましまの横断歩道の模様だけ。
「さ、いこうか」
隣に立っていたひとは、そういうと、しましま模様の上を
すたすたと歩いて渡りました。
私もその後を歩きながら
信号機が次にいく場所のことを考えていました。
涼しい木陰のある、公園の側のような
そんな場所がみつかるといいなと思いました。
ほんとうに、思いました。