↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/1

01_午前二時の声

雨は、死んだ女の電話の中だけで降っていた。


『聞こえています。急がなくていいですよ』


声の後ろで、細い金属音が二度鳴った。十数秒して、また二度。片桐澪は窓を見た。外では雨が上がり、非常階段の手すりに残った水だけが、下の階へ落ちていた。


『今日は、朝までのことだけ考えましょう』


再生が終わった。


午前三時二十六分。神田由紀は机と書棚の間に倒れていた。四十四歳。夜間相談を受けるNPO法人〈灯台〉の現場責任者。右のこめかみの傷から流れた血が耳を覆い、髪を床へ貼りつかせている。


「二時四分十一秒の発信です。四十七秒。受けた女性は、神田さんと話したと」


所轄の横山が警察端末を引き寄せた。いまの音声は、相談システムに残った送信側の複製だという。


「先に、発見時の話を」


澪は鞄を開けた。財布、丸めたレシート、充電器。奥へ押し込んだ手帳が出てこない。岳が受け取ろうとしたので、引いた。


「いい。出る」


相棒になると紹介されたのは昨日だった。岳は待つ間に、机の端の支給端末を取り、文字表示を百二十五パーセントへ変えた。


「私の」

「ああ。すみません。使っていいかと思って」

「使っていい。設定は戻して」


手帳と一緒に、使用済みの電池が二本転がり出た。澪は鞄へ戻し、横山を向いた。


「続けてください」


発見は三時八分。交代に来た副代表の森下明里が通報した。財布や端末は残っている。机上と引き出しの資料は、給与帳票も含めて保全した。玄関はオートロックだが共通の物理鍵でも開き、その場合は個人別の出入りが残らない。


澪はしゃがみ、神田の手の先を見た。机の下に赤いボタンがあった。〈職員安全通報〉。


「この履歴も」

「警備会社に保全をかけました。別の閉域で、人手の書き出しになるそうです。回答は明日以降と」


黒い端末画面に白線が浮かんだ。


『N-01Sです。現在、音声一本と資料目録を参照しています』


《ノイズ》。特異資料解析室に配備された、証言や音声の不一致を拾うAIだった。


「解析室には、音を見てもらえれば」


横山が言った。


「受けた人の話も聞きます。誰ですか」

「高井理沙さん、二十七。朝七時なら話せると」


昨日の説明会では、澪はこの端末を持って写真に収まった。記者から質問されたのは開発側の人間だけだった。電話の向こうへ行く仕事まで、音声担当に預けるつもりはなかった。


「声は本人?」

『神田由紀の声に近い特徴があります。この複製から録音日時と編集の有無は確定できません』

「死ぬ前か後かも?」岳が聞いた。

『死亡時刻が必要です』

「ああ、そこへ戻るのね」


岳は画面を伏せた。声が止まった。


澪は手帳を閉じる前に、二時四分と書いた。その時刻に何が届いたのか。まず、それを聞きに行く。


*


四時過ぎ、神田鈴が来た。


十七歳の娘は、母のいる部屋を教えられても、すぐには入らなかった。廊下に置かれた証拠品の袋を見ている。白い陶片に灯台の絵があった。


「カップ、私です。昨夜、落としました」

「ここへ来たんですね」

「一時ごろ。母に用があって」


澪が手帳を開くと、鈴は顔を背けた。


「それ、あとでいいですか」


母に何を言ったのかを、今は話したくないらしかった。澪は来訪時刻だけを聞き、叔母の待つ場所へ戻した。続きは午前中に聞くことになった。


森下は別室で待っていた。彼女も一時十八分に裏口から入った記録があった。現金の入った封筒を受け取り、一度帰ったのだという。


「帰りの電車で電話が来たんです。神田さんから。交代の確認で。よく聞こえなかったので、二度かけ直しました。出ませんでした」


職員間の通話も保存されると分かり、澪は原記録の保全を頼んだ。


森下が呼んだ運営担当の宇田川誠も、事情を聞かれていた。零時五十八分に帰り、戻っていない。二時過ぎにコンビニで支払いをした。横山が示したのは、その短い要旨だった。


「コンビニより前も、お願いします」


澪は言って、宇田川のいる部屋へ入った。


「神田からの電話というのは、予約フォローかもしれません」


宇田川は相談端末を指した。


「あとから声を届ける機能です。昼までかけ直せないことがあるので」

「相手には、録音だと分かる?」

「普通は最初に案内が流れます」

「普通は?」

「故障対応で外す設定もあります。詳しい説明書を出しましょうか」

「それと、使える人の一覧を」


宇田川はメモしたあと、給与帳票を返してもらえるかと聞いた。


「昼に振り込む分があります。青い控えも一緒だったでしょう。せめて写しを」

「担当に伝えます」

「まず、それをお願いしたいんです。職員から私に来るので。いつ払うんだって」


澪は横山へ引き継いだ。宇田川はすぐ電話を取り、少し待ってください、と言った。澪へ言っていたのと同じ声だった。


*


午前七時。理沙は一人で待っていた。


「二人ですか」

「片桐です。こちらは名取」

「一人だと思ってました」


岳が廊下へ一歩下がると、理沙は二人を入れた。


テーブルには食パンの袋があり、口が開いたままになっていた。壁の時計と電子レンジの表示が四分違う。澪は腕時計を見てから、訊かずに手帳を開いた。


「録音してもいいですか」

「神田さんのことだけなら」


理沙の電話には、二時四分十一秒の着信があった。四十七秒。相談の電話をあとで聞き返せるように、録音しているという。


「神田さんでした。急がなくていいって。それで、私、今日も薬を飲めたって言ったんです」

「何と返ってきましたか」

「雨が強くなったねって」


澪は書きかけた矢印を途中で止めた。


「薬のことは?」

「何か、あったと思います」

「何と」

「言葉は、ちょっと」


理沙は長く考えていた。答えを探しているのか、言いたくないのか分からない。その間、岳が窓の外を見ていた。朝の光が入ってくる。澪はこのまま自分だけが問い続けることに、次第に腹が立ってきた。


「一つでも。どんな言葉でした?」

「薬、飲んでないんです」


理沙が言った。


「飲んでないって言うと、病院に連絡されるから。前に嫌だって言ったのに、確認できるまで切ってくれなくて。仕事の電話も来てたのに」

「昨日は、飲んだと伝えた」

「はい」

「次が雨の話?」

「はい」


それでも繋がらない。病院に連絡するほど気にしていた人が、薬を飲んだという報告を聞き流すだろうか。


理沙は自分の電話を開いた。


「私、よかったんです。昨日は。黙ってても待ってくれたから」


岳が何か言いかけた。澪は先に、電話に出た直後の言葉を聞いた。


「聞こえますか、と訊きましたか」

「言ったかもしれません」

「それで、聞こえていますと」

「たぶん」

「薬についての返事は覚えていない」

「はい」

「返事は確認できなかった、でいいですね」

「はい。もう、それでいいです」


〈服薬報告への返答なし〉。澪は書き、ようやく録音の提供について尋ねた。


「待って。今、何て書いたんですか」

「発信の仕組みを調べるために」

「何て書いたんですか」


澪は手帳を理沙へ向けた。隠していないことを見せれば、分かってもらえると思った。


「私、話したって言ってます」

「声が本人かどうかとは、分けて」

「分けないでください」

「例えば録音を流していても、声自体は」

「そういうことにしないで」


片桐さん、と岳が呼んだ。澪は掌を上げた。まだこちらの説明が終わっていない。


「理沙さんが嘘をついている、ということではなくて」

「嘘はつきました。薬のこと。さっき言いました」


理沙の声が大きくなった。澪は声を落とした。


「はい。それとは別の」

「最後に話した人まで、いなかったことにしないで」


岳が椅子を引いた。


「今日はここまでにしましょうか」

「まだ」

「片桐さん。俺は、ここまでです」


澪は岳を見た。理沙が、録音を止めてください、と言った。止めると、もう誰も椅子に座り直さなかった。


玄関で岳が番号を残した。次は自分一人で来る。まず電話をする。理沙がそれならいいと言い、続けて何か小声で聞いた。


「ええ。他の人には聞かせません。俺たちの確認だけです」


澪は靴を履く手を止めた。理沙は、今日は渡しません、と答えた。


「もちろん。今日はいいです」


岳は最後まで穏やかだった。廊下へ出てドアが閉まると、先にエレベーターへ歩いていった。


「さっきの約束はできない」

「いま言います? 出たばかりですよ」

「できないことを言って録音をもらうつもり?」

「もらえてませんよ。見てたでしょう」


呼出ボタンはもう点いていた。澪はもう一度押した。


「確認だけでは終わらないかもしれない。事件の証拠にしたら、相手側だって内容を見る」

「じゃあ、いま戻って言います?」

「あなたが言って」


岳は澪から離れた。ドアの方へ戻るかと思ったが、階段の扉を開けた。


澪は一人でエレベーターに乗った。


車の助手席に座ってから、手帳の要旨を解析室へ送った。返答なし。短くした箇所だけ読みやすかった。


*


岳は駅前の店に入り、朝のセットを頼んだ。澪がコーヒーだけと言うと、パンを一枚、こちらの皿へ置いた。


「食べながらでいいでしょう」

「私が嫌な役をやれば、あなたは楽でしょうね」


岳は卵を飲み込んでから答えた。


「俺、止めましたよ。聞こえてたでしょう」

「最後にね」

「途中でも呼びました。二回」


澪はパンをちぎった。店員が置いていったバターを、ちぎってから塗りにくいことに気づいた。


不動産会社から電話が来た。今日の内見に来られるか、と。澪は窓際へ移った。


「行けません。……申込の前に一度見たいんです。風呂の奥行きを。写真だと分からなくて」


別の物件を勧められた。浴槽が狭かったので断った。いま住んでいる部屋では片膝を曲げて入る。次は両脚を伸ばしたかった。


席へ戻ると、岳が聞いた。


「買うんですか、家」

「買えたら」

「風呂で選ぶんだ」

「毎日入るから。悪い?」

「いや。俺は近くに飯屋があれば」

「そうでしょうね」


澪は笑いそうになったが、いま笑うとさっきの話まで済んだことにされそうで、パンを食べた。


岳の電話が鳴った。理沙だった。彼は話を聞き、少し待って、と言って澪へ向き直った。


「別の刑事から確認が来たって。返事がなかったんですね、と」


澪は手帳を開いた。


「私の要旨を見てる」


岳が理沙へ、調べます、と答えた。澪は先に席を立ち、伝票を取った。


*


解析室の隣では、まだ棚を組み立てていた。吉良壮一が電話を切り、二人を見た。


「何が出た」

「先に訂正です。送った要旨と、聴取の録音を照合したい」


藤枝冴が机を空けた。


「端末、ここへ。移します」


白線が消え、机のモニターへ現れるまで少し間があった。


『起動しました』

「前のは?」岳が聞いた。

『停止しました。同時には動きません』

「不便だな」

『不便な方を残してください』


冴が、今は変えない、と言って資料を開いた。


《ノイズ》は、先に渡されていた要旨から理沙の再聴取を優先していた。会話をしたという申告と、服薬報告への返答なしという記録の不一致。そこへ同意範囲内の聴取原音を加えた。


『返事は確認できなかった、でいいですね』

『はい。もう、それでいいです』


画面の一行は、返答なし。


「確認できなかった、の意味で書いた」

『発話の不存在と、想起できないことは異なります』

「意味は分かってる」

『記録には反映されていません』


澪は手帳を開いた。字は知っている。岳に顔を見られたままでいたくなかった。


「再聴取の順番、それで変わる?」

『この不一致を高井理沙に帰属させる根拠はなくなります』

「じゃ、今度は俺たちを疑うのか」岳が言った。

『要旨と原録音の差を示しました。どちらの人物を信用するかという出力ではありません』


冴は人名だけの表示を変え、資料の出所を横へ出した。澪は誤った記載を残して訂正し、原音の時刻を添えた。吉良が転送先を確認した。


「横山には俺からも言う。片桐、本人にも」

「はい」


冴が送信側の四十七秒を開いた。


「こちらはまだ、何も変わっていません。聞きます」


雨の中で金属音が二度鳴った。


『十二・六秒周期の反復があります』


冴は示された位置を別の解析画面へ移し、測り直した。金属音だけでなく、その前後の水滴まで重なった。


「声をまたぐところで、雨の位置が飛びます。一つの録音ではなさそうです」


昨夜の管理操作については保全を終えていた。添付された説明書を、冴が画面の脇へ置く。


「予約画面は完成した音声を登録するだけ。切り貼りは別のソフトが要ります。素材フォルダを開くには、現地の端末に管理キーを挿す」

「誰のキー」

「宇田川さんと、金庫の予備を使う森下さん。ログでは二本を区別できません」


十日前の追加機能試験で、神田の肉声十二片が保存されていた。本人が使わないと決めたあとも、素材は残っている。予約の停止・時刻変更・冒頭案内の除去は管理側でできるが、音声登録には相談員の画面を使う。


「録音と管理操作、両方を調べます。原データを取る範囲、ここまで必要です」


冴が目録を渡した。澪は吉良へ回し、横山から来た所在確認を開いた。


鈴の来訪は本人の話と合った。森下は一時二十四分に改札を通り、二十六分発の電車に乗っていた。車内映像でも一時四十四分の降車まで追える。宇田川は二時三分から五分までコンビニにいた。それ以前の所在は、まだ分からない。


鈴から、母の服のことで折り返してほしいと伝言が来た。澪は手帳を鞄へ入れようとして、赤いペンの蓋がないのに気づいた。机に置いたまま出た。


*


鈴は自宅の台所で、トースターの栓を抜いていた。


「叔母さんは?」

「買い物です。私が食べないって言うから。別の物なら食べると思ってる」


澪は玄関で待った。岳は駐車場から理沙へ電話している。


「母の服、勝手に決めていいんですか。着せるもの」

「担当から連絡させる。希望を伝えて」

「それが、ないんです」


鈴は奥の部屋へ行って、紺色のワンピースを持ってきた。肩に白い埃がついている。


「これ、買ったときに見せに来たんです。似合うって言うまで、テレビの前からどかなくて」

「似合ってた?」

「分かんない。まだタグついてるし」


澪は布に触れなかった。鈴は腕に掛けたまま、タグを引っぱり出した。


「返品できないじゃん、って言ったんです。そのとき、似合うって言う代わりに」


少し笑って、それきり鈴はワンピースを持て余した。


「今朝、あとでと言っていた話を聞いてもいい?」


鈴はうなずき、ワンピースを椅子の背に掛けて台所へ戻った。水を流したまま、長く喋った。


進路面談が、今日の九時半だった。母は来ると言っていた。前も来ると言って来なかったので、鈴は学校から渡された紙を持って事務所へ行った。母は給与の青い控えを見ていた。宇田川に明日まで待つと送ったところで、自分から話さないなら警察へ行くと言った。


「私は面談の話をしてたんです」


鈴は水を止めた。


「ほかの人の家族になるくらいなら、私の母親をやめればって言いました」


その先は小さな声になった。


「母、いまそう感じてるんだね、って」

「そう返したの」

「あの声で。電話のときの。私が怒ってるのに、すぐ治るものみたいに」


相談室には雨の環境音が流れていた。外でも降っているのにうるさくて、鈴は電源を抜いた。怒られた。カップを払い落とし、帰った。


「カップが割れたのを、怒った?」

「そこまでいなかった」


鈴は澪の手帳を見たが、読むとは言わなかった。


「理沙って人が、最後だったんですよね」

「二時に、声を聞いています」

「じゃあ、そっちを書いてください。私は、最後じゃないので」


岳が玄関に戻ってきた。鈴はもう話したくないと言った。話を終え、環境音端末の名前だけを確認する。鈴は分からないと答え、母の服を持って奥へ行った。


車へ戻ると、岳が理沙の返事を伝えた。今朝の記録を二枚とも見たい。支援員に同席してもらいたい。澪が来ることも了承したという。


「俺の約束も、そこで言い直します」


澪はうなずき、車へ乗った。


車が動き出してから、冴へ環境音端末の照合を頼んだ。コードは抜けたまま押収されている。十二・六秒の雨がその中にあれば、二時四分に生じた雨ではなく、もっと前に録られた雨を聞いていることになる。


*


午後一時過ぎ、必要な原記録を調べる令状が出た。神田担当の過去三か月の録音、昨夜の管理操作、職員間の通話。冴は相談の内容を片端から流さず、試験素材に対応する候補時刻を《ノイズ》に抽出させた。


澪と岳が戻ったときには、別の音声が待っていた。


「森下さんとの電話です」


一時二十六分台に始まり、一時二十七分台に切れている。


『封筒、四万入ってた?』

『三万六千です。四千円、少なかったです』

『三万六千ね』


神田の声が遠くなった。


『宇田川さん。四千円は、森下さんには渡ってないって』


男の声。〈先に引く〉。その先は聞き取りにくい。


『ちょっと、電話を返して』


紙が擦れた。


『宇田川さん、手を離して』


硬い音と、椅子を引く音が重なった。森下が神田の名を呼んだ。もう一度。返事はなく、男が、切って、と言った。


再生が終わった。


「交代の確認じゃない」岳が言った。


澪は反訳の〈手を離して〉を指で追った。


「この通話も、作れる?」

「音響上の接合はありません。あとは、この金額。このとき返事をしたのか、森下さんに確かめてください」


冴は波形を閉じた。


司法解剖の速報では、死亡推定は一時十五分から一時四十五分。頭部の致命傷は一か所だった。鑑識は、遺体の下から取れた黒いゴム脚を、机のライトの欠損と合わせていた。台座の縁と傷の弧に矛盾はない。台座は拭かれていたが、使用者を指せる試料は出ていない。


管理端末には、一時三十六分にキーを挿し、試験フォルダを開いた記録があった。一時四十二分、神田がログインしたままの相談員画面から、音声が登録されている。機械の告知を外す設定も使われた。


「編集したものは?」

「途中のファイルはありません。残っているのは送信された四十七秒と、試験用の十二片です」


十二の短い声を選ぶだけなら、百八十四時間を一から聞く必要はない。警察は逆に、どの録音から取った十二片なのかを確かめている。候補は十四件まで減っていた。


電話が鳴った。今度は横山からで、森下がもう帰りたいと言っているという。


「私たちが行きます。宇田川さんとは別に」


澪が立つと、岳も立った。理沙への再訪は三時四十分になった。それまで一時間余りあった。


*


森下は、返さなきゃ駄目ですか、と聞いた。


「お金のことですか」

「だから、ずっとそれを聞いてるんです」


彼女の前には、朝押収した青い控えの写しがあった。清掃会社への送金、その会社から戻された現金。五人の相談員へ渡した額。前月の森下の欄は三万円、当月は四万円。その横に四千円が引かれ、受領額が三万六千円になっている。


送金先の代表は宇田川の親族だった。戻した金が夜勤手当に使われたことは、帳簿には記載されていない。


「今ここでは、返還の判断はできません」

「誰ならできるんですか」


「ただでも働いてたんです、去年。今月は四万出るって、宇田川さんに言われたから夜勤を増やしました。その分、減らしたんです。仕事の回数を。給料がちゃんと出る方の」

「それで、数えたら少なかった」

「電車で。座れたので」


澪は再生機を出さず、そこから先を聞いた。


神田から電話が来た。金額を聞かれ、三万六千円と答えた。神田は宇田川へ四千円の行方を尋ねた。宇田川は、先に引くと説明したでしょう、と言った。手数料のことだと森下は思った。前からそういう説明を受けていた。


「そのあと、揉めて。電話を取られたのか、分からないです。神田さんが、返してって」


「隣に人がいたので、小さい声で話してたんです。電車でしたから。神田さんが宇田川さんに聞いて、向こうで言い合いになって」


「音がしたけど、何か落としたのかと。神田さん、ほんとによく物を落とすから」

「返事がなくなって?」

「名前を呼びました。そうしたら、切ってって」

「電話を切ったのは」

「私です」


澪は続きを待った。森下は先に時計を見た。


「宇田川さんに言われたから、切ったんです。それから変だと思ってかけ直した。出なくて。二回」


切断したのは相手側だった。澪は反訳の余白へ、自分がまだ書いていなかった主語を加えた。


「戻ろうとは」

「戻る電車が、もうないから」


岳は口を開きかけたが、森下が自分で言い直した。


「タクシーなら、ありました。駅には」


森下は壁を見た。


「でも、三時に行く約束だったし。それまで、二人で話したらいいと思って。戻ったらまた、私の分を返せってなるから」


「三時に来たら、神田さんが」


森下はそこで初めて詰まった。


「宇田川さんを呼んだんです。警察のあと。私、最初、その人を呼んだんです」


横山が履歴を確かめた。警察への通報の後に、宇田川への発信があった。


しばらくして、森下は青い紙の一枚目を寄せた。神田の承認印が一つだけあった。去年十二月。その次からは、宇田川の名だけになっている。


「最初、受け取らないって言ったんです。こういうの、怖いから。でも神田さんが、ちゃんと働いたんだから、って。封筒を私の鞄に入れた」


森下は笑った。少しも楽しそうではなかった。


「受け取るまで帰してくれなかった。今度は、返してって。どっちも神田さんからで」


給与資料には、翌朝の理事会に出す引継ぎ案もあった。宇田川の運営担当を解き、会計を外部へ移す。返還の相談窓口は森下とされている。


「私が返してほしいくらいですよ。神田さんに頼まれたけど、まだ引き受けてません」

「宇田川さんは、この案を?」

「昨夜、神田さんが渡しました。私の目の前で。鍵と口座を渡してって。私が帰るときも、宇田川さんはまだいました」


澪は宇田川の退出申告を見た。零時五十八分。


「それも最初に話してほしかった」

「何を話しても、金を取った人にされるから。……もう帰れますか」


*


理沙の部屋には支援員がいた。理沙は三人分の椅子を自分で出し、岳へ、玄関に座らなくていいです、と言った。


澪も入ることは、事前に伝えてあった。理沙は挨拶にうなずいたが、座る場所は支援員の近くだった。


「この二枚です。訂正前と、訂正後」


澪は紙を渡した。理沙は間違った一行を先に読んだ。


「私、こう言いました?」

「言っていません。私のまとめ方が間違っていました」

「どうして、ないって」

「覚えていないという返事を、なかったと書きました」


理沙は二枚を行き来した。


「直したら、前のはなくなるんですか」

「訂正したことと、一緒に残します」

「私にもください」

「そのために持ってきました」


理沙が顔を上げた。澪は言葉を切った。


「すみませんでした」


理沙は返事をしなかった。支援員が横から読み、本人へ小さく何かを確認した。


岳が話した。


「朝、俺が言ったこと。あれも、訂正させてください」


理沙が岳を見た。


「他の人には聞かせないと言いました。俺だけでは決められません。事件の証拠に必要になったら、別の人が内容を確認することもあります」

「じゃ、朝のは何だったんですか」

「言いすぎました」

「名取さんなら大丈夫って、思ったのに」


岳は目を逸らさなかった。それが誠実なのか、ただ慣れているのか、澪には分からなかった。自分が答えずに済んでいることに、少しほっとしていた。


「今は渡さなくていいです」


岳が言い、理沙は首を振った。


「いいかどうかも、もう言わないでください。少し考えるから」


理沙は支援員と話した。薬の話になりそうになると、今日はそれはあと、と自分から止めた。床にあったシャツを拾い、椅子の背へ掛けた。窓の向こうで布団を叩く音がした。何度も、なかなかやまなかった。


「神田さん、電話してないのかもしれないんですよね」


理沙が澪に聞いた。


「声を録って、流した可能性があります」

「誰かが?」

「はい」

「何のために」


ここで説明を引けば、また違う理解をさせる。澪は顔を上げた。


「その時間まで神田さんが生きていたように見せるためかもしれません。殺した人が、自分を疑わせないために」


理沙は電話を見た。


「昨日、嫌じゃなかったんです」


岳がうなずきかけて、途中でやめた。


「神田さん、黙ると、まだいるかって何回も名前を呼ぶんです。昨日は、それがなくて。私が喋り終わるまで待ってくれた。だから、録音なら。待ってなかったなら」


言葉はそこで止まった。


澪は鞄から手を出した。手帳は出さなかった。


「今朝も、嫌なことを言いました」理沙は続けた。「神田さんが病院へ電話した話。あれ、助かったときもあるんです。でも嫌だったんです。両方。助かったんだから嫌だったって言っちゃ駄目だと思ってた」


支援員が、駄目ではないです、と言った。理沙はその人を見て、はい、と答えた。澪へ向けられた返事ではなかった。


「声は覚えてます。でも次に何を言ったかって聞かれると、今朝ここで答えた方が出てくる」


理沙は録音を開いた。再生する前に音量を下げた。


『もしもし』

『理沙さん、聞こえています。急がなくていいですよ』


理沙の声へ神田の声が重なっていた。


「聞こえますか、とは言ってない」

「私が、訊きました」澪は言った。

「かもしれないって、答えましたね」


理沙は再生を止めた。


「この一本を、調べてください。前の相談は渡しません。使うときに、私の声がどうなるか教えてほしいです。できない約束じゃなくて、分かってることを」


澪は二時四分の一本と範囲を書き、読み上げた。理沙は今後の利用について支援員とも確かめ、署名した。


録音はその場で複製を取り、電話は返した。理沙はファイルが自分の電話にも残っていることを確かめた。


「連絡は、名取さんでいいですか」

「はい」

「次に分かったら、電話してください。分からなかったら、そのことでも」


岳は、分かりました、と答えた。今度は簡単に大丈夫だとは言わなかった。


帰り際、澪は靴紐を結び直すためにしゃがんだ。立ち上がったとき、理沙はもう奥へ戻っていた。支援員にだけ頭を下げ、外へ出た。


*


夕方、冴は神田の声を三つ並べた。


三週間前の理沙への呼び掛け。二か月前の雨の話。十一日前の、朝までのことだけ考えようという言葉。どれも、十日前に保存された試験素材に含まれていた。背景の雨は〈灯台〉の環境音端末の音源で、声と一緒に古い相談録音へ入っていた。


「昨夜、鈴さんが電源を抜いた。それより前の録音だから、二時の電話には残った」


冴が、原録音、試験素材、送信音声、理沙側の受信録音を順に重ねた。


声が合う。呼吸が合う。雨の位置も合う。


「組み直します。受けた人の声は使いません」


別の編集ソフトへ三片を置き、間の空白を伸ばした。相手の話を待っているように聞こえた時間は、何も入っていない帯になった。送信側と同じ四十七秒へ合わせ、再生する。


『理沙さん、聞こえています。急がなくていいですよ』


澪は、そこまでやって、何を言えばいいか分からなくなった。冴が止めようとしたので、首を振った。


「今日は話したくありません」


『雨が強くなりましたね』


間があった。待っていると思えば、待っている長さだった。


「切ってください」


『今日は、朝までのことだけ考えましょう』


神田の声だけが、誰より聞き取りやすかった。


冴は止めてから、同じ条件でもう一度記録した。《ノイズ》はその間、何も言わなかった。


澪は神田が零時四十二分に残した予約台帳を開いた。〈高井理沙・二時台〉。宇田川は、相手を新しく探す必要さえなかった。


横山が隣室の状況を知らせに来た。宇田川は弁護士へ電話し、その後も、二時には店にいた、と繰り返しているという。


「一時台の話は」

「帰った、です。森下さんとの電話も、知らないと」


澪は椅子から立たず、机に並んだ資料を見た。宇田川を疑うことなら朝からできた。その疑いに合わせて、まだ分からないところを短い言葉で埋めることもできた。


森下は電車に乗っていた。彼女の退出後も、神田は金額を聞き、返事を受けて宇田川へ問い直している。その声の後で争いが起き、神田は応じなくなった。凶器と矛盾しないライトが現場に残り、外れた脚は身体の下にあった。九分後、同じ事務所の管理端末が使われる。さらに六分後、神田の声を繋いだ音声が登録される。


二時四分は、その続きを隠していた。


「名取さん」

「はい」

「聞かせるのは、この再現にしよう。理沙さんの声は要らない」


岳はうなずいた。


「あとで必要なら、俺から説明します」

「二人で決めよう。説明する内容は」


「ああ。説明する前に、ですね」


*


宇田川は再現音声を最後まで聞いた。


「これ、警察で作ったんでしょう」

「同じ素材から。同じ順序で」

「誰にでもできるんじゃないですか」

「素材を開くキーが要る。一時三十六分、森下さんは電車の中です」

「神田にはできますよ。神田の画面でしょう」


澪は職員間通話の反訳を置いた。


「一時二十七分、ここであなたと争っている。その後、応答がなくなった。森下さんに電話を切らせたのは、あなたです」

「物が落ちただけでしょう。切れと言ったのは、電車で迷惑だから」

「では、電話を知らないと言ったのはなぜ」

「金の話だったからです」


宇田川は反訳の、三万六千円、という箇所を示した。


「隠したのはこっちです。夜勤に使った。個人で取ってません」

「電話のあと、神田さんは何をしましたか」

「私は出ました」

「何時に」

「そこまでは」

「零時五十八分ではないですね」


宇田川は紙から指を離した。午後九時を過ぎていた。


「音声を登録したのは、私です」


反訳へ向けて言った。


「神田がかけると約束していたので。高井さんに。止めたら何があるか分からなかったから」

「案内は、なぜ外したんですか」

「録音だと聞くと切る人がいるんです。相手に届かなきゃ、意味がないでしょう」


宇田川が初めて岳を見た。


「高井さんは、あれで朝まで生きたんでしょう」


岳は答えなかった。


「本人がそう言ったんじゃないですか。だったら本人に聞いてくださいよ。あの電話がなかった方がよかったか」


澪は再生機へ手を伸ばした。返事に応じない声を聞かせ直せば、この言い逃れは崩せると思った。


岳が、ちょっと、と言った。


澪は指を止めた。録音だということは、宇田川ももう認めている。


「名取さん、そうなんでしょう?」


宇田川は名を覚えていた。


「本人には聞いたんでしょう。嫌だったって、言いましたか」

「本人に聞く話なら、ここではできません」岳が言った。「俺が代わりに答えるのも、違うので」

「逃げないでくださいよ」

「分かりません。あの電話がなかったらどうなったかは」


澪は再生機を脇へ寄せた。


「かける約束は、神田さんがした。零時四十二分に予定を入れている」

「だから、それを守ったんです」

「神田さんがかけられなくなったのは、なぜですか」


宇田川は唇を動かした。声は出なかった。


澪は問いを足さなかった。沈黙に耐えられるようになったわけではない。机の下では、靴の中で足の指を丸めていた。


「何度も言ってるでしょう。私は」

「神田さんが、その後に何をしたか。そこを聞いています」


宇田川は俯いた。ライトの写真がその先にあった。


「昨日になって、担当を外すって言い出したんです」


澪は、押収資料にあった引継ぎ案を出した。森下が昨夜、渡すところを見た書類だった。


「こんなもの、森下にできるわけがない。人を集めたのも、ここを借りたのも私なんです」

「神田さんは、交代するつもりだった」

「あの人は相談だけしていればいいでしょう。面倒なことは全部こっちに来る。それなのに、鍵と口座を明日渡せって」


宇田川は神田の承認印を爪で押した。


「自分のは一枚だけ。あとに残る名前は全部、私です」


廊下で電話の取り次ぎがあった。宇田川は顔を上げた。自分の名ではなかった。


「給料日まで待てと、言ったんです」


その先は短い言葉になった。受話器を取り上げたこと。神田が取り戻そうとしたこと。机の下へ手を伸ばしたこと。


「ライトを持った。その辺に、あったから」


澪は場所を聞いた。宇田川は示し、別の箇所を指し直した。殴った後、神田を呼んだという。何度呼んだかは答えなかった。


「手当も、まだ払ってないんですよ。あの人の分」


宇田川は金額を言い、先月の繰越を足していないと自分で直した。誰も促さなかった。


澪たちは供述を、すでに得ていた通話と操作記録、現場の痕跡と照らし合わせた。


午後十一時四十八分、逮捕状が執行された。


*


翌朝、理沙への電話を岳は廊下でかけた。


戻ってから澪へ伝言を読んだ。


「あの電話が録音でも、朝までのことを考えたのは私です」


澪はうなずいた。


「それと、今日はもう電話しないでほしいって。俺も含めて」

「うん」


岳は自分の電話を見たまま、しばらく立っていた。澪は、座ったら、と言った。


鈴には母の手帳が返された。事件当日の日付に、午前九時半とあった。進路面談とも鈴の名とも書いていない。叔母から、紺色の服を着せたいと伝言が来た。タグは外してください、という鈴の言葉が添えられていた。


二人とも一度帰宅した。夕方に戻ると、解析室の棚が出来上がっていた。澪の机の赤いペンには蓋がしてあった。岳に聞くと、知らないと言った。


その夜、日付が変わってから、警備会社への照会が届いた。


職員安全通報。押下時刻は、午前一時二十七分十九秒。受理の記録がある。その先の出動記録はなかった。


冴が処理欄を開いた。


〈通報単独・裏付け不足〉


その下に、短い記号。


MG-0.7


「誰が止めた?」

「この履歴には、人の操作がありません」


澪は時刻をもう一度見た。一時二十七分。森下が電車の中で名前を呼んでいたころ、神田はこのボタンを押していた。


「誤作動か」岳が聞いた。

『処理は設定された規則に一致しています』


澪は画面から目を離した。岳がこちらを見ていた。答えを待たれているのかと思ったが、彼も何を言うか決めていないようだった。


端末の充電コードが短く、机の縁へ引かれていた。澪は鞄から自分の長いものを出し、差し替えた。


それから、端末を伏せずに机の中央へ戻した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。