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恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜  作者: 月森あや


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2/2

2.甘い午後と、胸騒ぎの予感

 ぽかぽかと温かい日差しが降り注ぐようになった朝の時間。

 真っ暗だったこの時間も、日を重ねるごとに少しずつ明るくなっている。

 まだ寝起きの頭が覚醒しきってないままの私は、少しうとうとしながらキッチンで朝食のフレンチトーストを焼いていた。


 じゅわじゅわ、と焼けた砂糖の香りがキッチン全体を包みこんでいく。

 黎斗さんから教えてもらった作り方をきっちり守りながら、トーストを裏返して確かめては焼き進めていく。

 ちらり、と時計を見ると、もうすでに彼が起きてくる時刻を過ぎていた。


「黎斗さん、寝坊してるのかな……」


 焼け具合を丁寧に確かめたあと、完成したフレンチトーストをお皿に乗せる。

 ――その瞬間。視界がぐらつくような感覚を覚えて、身体を一瞬だけ強張らせた。


「お。いい焼け具合だな」

「うわあっ!?」


 背後から突然聞こえた声に驚いて、私は大きな声をあげた。

 黎斗さんの低音ボイスが私の耳を直撃して、持っていたフライパンを落としそうになったり、キッチン台にお腹をぶつけたりした。

 強張っていた身体が一気に緩くなる。


「黎斗さん……!」

「おはよう、陽菜。朝から元気だなお前は」


 バクバクと、うるさく鳴る心臓を必死でおさえる。

 出来上がったフレンチトーストをまじまじと眺めている黎斗さんを横目に見ながら、調理器具を洗い片付けていく。


「そういう黎斗さんこそ、珍しく寝坊ですか?」


 私の隣に立ち、フレンチトーストを眺めていた彼の視線がこちらを向いた。

 少し寝癖の残っている前髪がさらりと揺れる。


「……まあな。少し夜ふかしし過ぎた」


 ははっ、と砕けて笑う黎斗さん。

 この間とは違って今日はすごく素直だ。


「ほら。朝食にしよう」


 私のぶんのお皿も運んでくれる黎斗さん。

 いつもの定位置に座って、彼からお皿を受け取った。


 小さなテレビから流れる朝のニュースや天気予報を聞きながら、朝食を進めていく私たち。

 黎斗さんは、天気予報の時は必ず食べる手を止めて真面目に見ていた。

 気温や湿度などが関係するお菓子作りだから、こういう細かい部分で仕事に真面目な一面を見ると、胸の奥がトクンと小さく跳ね上がってしまう。


 キッチンは温かな日差しが射し込んでいて、ゆったりとした空気が流れている。

 おばあちゃんはお友達に誘われて数日の旅行へ出かけているので、いまこの家に居るのは私と黎斗さんの二人だけ。

 そのことを改めて意識し始めてしまい、なんだか緊張してきてしまった。


「あ、あのっ、味はどうですか……?」


 なにか話題はないかと必死に捻り出す私。

 もぐもぐと咀嚼していた黎斗さんがそれを飲み込んだあと、目尻をわずかに優しく細めてこう言った。


「美味しいよ。よく出来てる」


 温かくて優しい声色。嬉しくて口元が緩みそうになってしまう。

 料理上手な黎斗さんと違って、料理が苦手な私はたまに一人で練習をしている。

 その甲斐あって、フレンチトーストのような簡単なものなら上手に作れるようになった。


 彼の作るものには到底敵わないけど、褒めてもらえたことがとても嬉しい。

 なにより、私の作ったものを黎斗さんに食べてもらえるのが幸せだ。


「もしよかったら、また作ってもいいですか?」


 少し照れながら、黎斗さんの目を見て質問する。

 私の作ったものを、彼にまた食べてもらいたい。

 その気持を込めて彼の目をじっと見つめる。胸の鼓動が少しだけ早い。


「ああ、もちろんだよ」


 さきほどと同じ優しい目のまま、彼がそう答えてくれた。

 たまにからかうようなイタズラをしてくる黎斗さんは、今そこにはいない。

 私の身体が熱を帯びていくのがわかる。


「……よかったぁ」


 私は、嬉しさで安堵の吐息をもらした。

 私の作ったものをまた食べてほしい。自分の作ったものを食べてもらいたい人がいる。

 料理の苦手な私が、その料理を続ける純粋な動機。苦手だったのものが楽しみになっていく。

 ――それを噛み締めながら、ふたたびトーストへフォークを刺した時。


「……陽菜がたまに作る朝ご飯、実はずっと楽しみだった」


 黎斗さんから告げられた、心を揺さぶる言葉。

 その言葉を聞いた瞬間、私の身体は沸き上がった。

 心臓の鼓動もあり得ないほど速くなり、周りの音が消えてしまったような錯覚を覚えた。


 黎斗さんのほうを見ると、それ以上は口をつぐんでしまっていた。

 私と目が合うこともなく、その視線は逸らされている。

 ……まただ。黎斗さんの耳がほんのり紅潮しているように見える。


 もしかして、今の言葉を伝えることが恥ずかしかったのだろうか。

 普段あんなに私のことをからかってはクツクツと笑っている彼が、恥ずかしいのを堪えて言ってくれた言葉。

 黎斗さん、さっきからずっと素直だし、今日はいったいどうしちゃったの。


「……ほら、あれだ。今日はばあちゃんがいないからな」


 沈黙を割くように彼が言った。

 心を読まれたみたいで少し心臓が跳ねた。


「たまには真面目なことを言わないと、と思っただけだ……」


 それだけ言うと、ふたたびフレンチトーストを食べ始めた黎斗さん。

 黙々と食べ進めている。食べるスピードも早い気がする。

 そっか、黎斗さんっておばあちゃんがいない時は素直になるんだ……。


 黎斗さんのほうをちらと見ると、もうすぐ食べ終わりそうだった。

 素直な彼を心のなかで反芻しながら、私もトーストの残りを食べ始めた。



 おばあちゃんがいつもの常連さんたちと旅行に行っているからだろうか、今日のお店のなかは普段よりとても静かだ。

 それでもお客様がゼロなわけではなく、私も黎斗さんものんびり休む暇なく動き続けていた。


「……ふう」


 私はやっと一息ついて、レジカウンターで店内の様子をぼんやりと眺めていた。

 さすがに普段より静かとはいえ、二人きりでの切り盛りは少しだけ疲れた。

 お昼ご飯の時間はとうに過ぎてしまっている。


 そう思っていたら、厨房から黎斗さんが出てきた。

 店内の様子をぐるりと見渡して確かめたあと、私へ向けて「食べてないだろ。休憩していいぞ」と伝えてくれた。

 お腹ペコペコだった私は、お言葉に甘えて厨房へと入っていった。


 厨房の隅っこへ設置されている小さなテーブルについて、用意しておいた軽めのお弁当を広げる。

 おばあちゃんの家を改装した小さなお店は、厨房と休憩室が一緒になっているおかげで、黎斗さんが仕事してる様子を眺めながら食事ができるのだ。

 ふふふ、と幸せな笑みが溢れてしまう。


(……あれ?)


 黎斗さんにバレないように眺めていた私は、食べていた手を止めた。

 腕まくりをして作業している黎斗さん。その腕に見覚えのない傷があったのだ。


 昨日、仕事終わりの彼を見たけどあんな傷はなかったはず。

 お菓子作りはオーブンを使うから、腕に火傷の痕がついてしまうのはよくあることだけど……。


 なんだろう。すごく胸の奥で引っ掛かる。

 あまり寝坊することのない黎斗さんが最近よく寝坊していたり、お菓子作りで火傷したとは思えない腕の傷。


 このあいだからずっと心のなかに引っ掛かっていた“何か”。

 気のせいだと思っていたものが、そうではないと言われているような気がした。

 引っ掛かるのに彼に聞くのはなぜか怖くて……胸騒ぎがするのを誤魔化すように最後の一口とともに飲み込んだ。



 その日の閉店後も、試作スイーツの改良をしたとこのことで黎斗さんから試食を頼まれた。

 前回のものもすごく良かったけど、さらに美味しさが増した試作品を食べて、知識が無いながらも自分なりに感想を伝えるなどしていた。


「なるほどな」

「あの、私の感想なんかで役に立つんでしょうか……」


 私の問いを聞いて、黎斗さんはメモ帳に走らせていた筆を止めた。

 こちらを向いて、なにを言ってるんだ? とでも言いたげな表情をした。


「俺は専門家からの感想を聞きたいんじゃなくて、陽菜からの感想を聞きたいんだ」


 とくん、と胸が大きく跳ねた。

 黎斗さんの目はすごくまっすぐ私を見ていた。

 じわじわと体温が上がってきて、手のひらに汗も出てきてエプロンをぎゅっと掴む。


 黎斗さんの言った言葉が頭のなかをぐるぐると駆け巡る。

 目の前の彼はふたたびメモ帳に視線をやり筆を走らせていた。

 真面目な職人モードの顔つきだ。


 ドキドキしているのはどうやら私ひとり。

 深呼吸して落ち着かせつつ、エプロンでしっかりと手汗を拭う。

 試食し終えたお皿を黎斗さんの前へ戻そうとした時だった。


「陽菜。口の横、ついてる」

「……え?」


 気づいた黎斗さんの腕が伸びてきて、私の顔へ近づいてきた。

 咄嗟の出来事に、心臓があり得ないほど飛び跳ねて、私は動けなくなった。

 彼の太くて長くて骨ばった指が、私の唇へ……。


「れっ、れれ、黎斗さん……!?」


 これ以上は心臓がはち切れそう! 限界がきた私は大声を上げた。

 私の唇に触れるか触れないかのところで止まった黎斗さんの指。

 彼もまた動きを止めて固まっていた。


「っ、悪い……!」


 何かに気づいて、はっとした表情になった彼がものすごい速さで手を引いた。

 テーブルに両手を置いて頭も垂れてしまっている。

 本っ当にすまない、と重ねて謝っていた。


 私はうるさく鳴り止まない心臓を必死に抑えるので精一杯だった。

 いったい何が起きたのかを理解するのにも時間がかかって、指先が震えていることに気づくのにも遅くなってしまった。


 ふうー、と深く深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 ようやく周りが見えるようになってくると、黎斗さんが顔を赤らめながら唸っている光景が目に入った。


 唇の端についた物を取ろうとしたとはいえ、いちおう年頃の娘というカテゴリである私へ触れそうになったのだ。

 越えてはいけない一線を犯しそうになったことで自責の念に駆られているのかもしれない。


「……黎斗さん、大丈夫なので、気にしないでください」


 誠実が故の自責の念なのか。私の言葉を聞いて、やっと彼が頭を上げてくれた。

 明らかな困り顔で、見ているこっちも困ってしまいそうなほどだ。


 年頃の娘と呼ぶには、私の年齢はそろそろ怪しいところにきている。

 黎斗さんが自責の念に駆られるほどのことではない。

 それでも謝るのが彼の性格なのか。


「私だって、ふとした時に黎斗さんへ触れちゃったことありますよ」


 注文されたスイーツが乗ったお皿を受け取る時に指が触れてしまったこともある。

 忙し過ぎてバタバタと走り回っていた時に、前方不注意で黎斗さんに思い切りぶつかってしまったこともある。

 だから「お互い様ですよ」と伝えると、彼はゆっくりと表情を緩めていった。


「ありがとう、陽菜」

「はい」


 よかった。黎斗さんにちゃんと伝わったようだ。

 ――そう私が胸を撫で下ろした時だった。


「…………っ!?」


 目の前が一瞬、ブレたようにいくつも重なって見えた。

 まるで黎斗さんが何人もいるように見えて、目眩を起こしたように身体をぐらつかせる。


「大丈夫か、陽菜?」


 ほんの一瞬の出来事だっただろう。視界はすぐ元に戻り、目眩も落ち着いた。

 今日は二人きりの切り盛りで忙しかったから、疲れが少し出てしまったのかもしれない。

 そう黎斗さんに説明すると、彼も強張っていた表情を解いていった。


「今日は早めに寝て、しっかり休むんだぞ」

「はい。ありがとうございます」


 後片付けをしている黎斗さんをぼんやり眺めながら、彼が淹れてくれた冷たい水を受け取って喉を潤した。

 このとき、黎斗さんの表情に一瞬だけ影が落ちたのを、私はまったく気づかないでいた。


   ◇


 その日の晩。陽菜はベッドの中で眠れずにいた。

 疲れて眠たいはずなのに、いやに落ち着かない気がして、何度も体勢を変えては寝返りを繰り返していた。


 時を同じくして、下の階ではドアが静かに開かれた。

 黎斗が、出掛けたのだ。

 とっぷりと夜も更けたこんな時間に、一人で。


 眠ろう眠ろうと、必死に目を閉じて暗示をかけ続ける陽菜。

 ――瞳を閉じたその暗闇の中で、それが見えた。


 “何か”に鋭い眼差しを向ける、黎斗の姿。

 陽菜が飛び起きる。呼吸が少しだけ乱れて、じわりと汗が滲み出た。


「……いまの、なに?」


 震えた陽菜の声が、夜の闇へ静かに消えていった。

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