半妖に嫁入り
襖から心地良い風が入ってくる。身を委ねるように目を瞑ると、鼻から空気を吸い込み、息を吐いた。
……まさか、こんなことになっているとは。
手に持っている新聞には、帝都で起きた大火災について書かれている。
前園家で起きた、あの夜のことだ。
前園家は全焼、被害は近隣の家まで及んだが、幸いにも死者は出なかった。
そして、信じがたい事実が明らかになった。前園家は多額の借金を抱えており、銀行は経営難に陥っていたのだ。
前園家は没落したも同然。
自分を早く嫁がせようとしたこと、相手が成金の高場であったこと、その全てが腑に落ちた。何よりも一番の問題は、放火の犯人がまだ捕まっていないこと。犯行現場となった前園家は人通りの多い帝都にある。だが、放火の前後、誰も不審な者の姿を見ていないという。
……奇妙なことだ。
スズメの鳴き声に、視線を手元の新聞から裏庭にある木に向ける。並んでいる二羽のスズメが、首を傾げながら歌うように鳴いている。愛らしい姿に、優子の口元には自然と笑みが浮かぶ。
(……あれ。あの右のスズメ……)
右側にいるスズメの影が、薄く見える。
「あらあら、優子さん、起きてて大丈夫なんですか?」
入ってきたのは、青紫の屋敷の使用人、多江だ。六十代半ばで笑った時に両頬にえくぼがあるのが可愛らしい女性。この屋敷に世話になってから、多江が優子の看病をしてくれていた。
「平気です。寝てばかりいたら、体も鈍ってしまいますから」
多江はおぼんを畳の上に置くと、布団の上で上体を起こしている優子に湯呑みを渡す。
「怪我の具合はどうですか?」
「まだ痛みますが、大したことありません」
体にはあちこちに包帯が巻かれている。見た目は良くないが、体はかなり回復している。額の傷はかさぶたができるまでに良くなった。頬も腫れは引き、笑っても痛くない。手の甲の傷も深くなく、傷跡も残らないはずだ。
「多江さん、あそこの木の上に止まっている、二羽のスズメなのですが、右側のズズメ、影が薄くありませんか?」
「え?」
優子が指差した先を見て、多江は不思議そうに首を傾げる。
「ズズメなら、一羽しかいませんよ?」
「え……」
多江には見えていない。つまり、あのスズメはもう……。
影の薄いスズメは、隣にいるスズメに寄り添うようにしている。
家族……友人…いや、あれは。
その慈しむような寄り添いに、優子は二羽のスズメの深い結びつきを感じ取った。
「さ、冷めないうちに」
多江に促され、優子はお茶を一口飲む。
「美味しい……」
「桜茶です。若様が帝都に行った時に、お見上げで買ってきてくださいました」
多江はここに来て間もないらしく、自宅に住み着く妖怪に悩まされていたところを、青紫が祓ってくれたことがきっかけで、この屋敷に住み込みで働くことになったという。
多江には妖怪は見えていない。ただ、気配を感じることがあるそうだ。
「若様、もう少しでお帰りになりそうですね」
ここ数日、青紫は忙しそうにどこかに出かけていた。早朝や深夜に荷物を抱え屋敷を出て行ったかと思えば、すぐに帰ってきたり、何日も屋敷を空けることもあった。その毎日は、多忙を極めているようだ。
うる覚えだが、青紫は夜中に様子を見に来てくれていた。傷のせいで熱を出し、寝込んでしまった時は、額に置かれた手拭いを変えてくれたり、悪夢にうなされている時には、頭を優しく撫で安心させてくれていた。
優子は無意識に片手で額に触れる。
あのひんやりとした冷たい手には、温もりを感じる。
「あ、若様」
優子が多江の視線の先を追うと、いつの間にか、襖のところに青紫が立っている。
「おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました」
屈託ない笑みで、優子に微笑む青紫。その笑みは、もう長い間、張り付いた仮面のようだ。
なぜ温もりを感じるのか。こんなにも、得体の知れない男だというのに。
「お疲れでしょう、お茶を淹れて参ります」
「ありがとうございます」
多江は優子と青紫に一礼すると、部屋を出ていく。
「だいぶ調子が良くなったようですね」
青紫は優子の顔色を確認しながらそう言うと、目の前に腰を下ろした。
「おかげさまで、もう大丈夫です」
あの夜から、二週間近くが経とうとしているが、青紫は何を語ることなく、優子をこの屋敷において、療養に専念させていた。
何がどうなったのか、目覚めてすぐにでも聞きたかったが、体が本調子ではなかった。何せ、傷を負い、食べ物も飲み物もろくに与えられず、暗闇の中に閉じ込められていたのだから。
「黒羽さん」
優子は布団の上で正座をし、姿勢を正すと青紫を見る。
「改めて、お礼を言わせてください。助けてくださって、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は死んでいました」
二度も、命を救われた。
「あなたが無事で、何よりです」
屈託のない笑みを浮かべ青紫は言う。
掴みどころがなくて、何が本当で何が嘘なのか分からないけど、この言葉は、嘘ではない。
青紫は優子の懐においてある新聞に目を向けると、優子を見据える。
「色々と気になることが多いでしょうが、まずは放火について分かったことがあるので、それをお話ししてもいいでしょうか?」
青紫の問いに優子は頷く。
「まず始めに言っておかなければならないのは、あの屋敷には、結界が張られていたということです」
「結界……?」
予想もしていなかったことに、優子は眉間に皺を寄せ聞き返す。
「前園家の屋敷が建てられたあの土地には、昔、ある陰陽師の家系が住んでいました。彼らは妖怪や霊を呪い祓っていましたが、力が衰え、見えなくなったことで廃業。以来、妖怪や霊からの報復を恐れ、屋敷に結界を張ったのです」
祓い屋に、妖怪と霊からの報復……。
一気に色々な情報が頭の中に流れ込んでくる。優子は混乱しそうになりながらも、冷静に頭の中を整理し、青紫の話に耳を傾け続ける。
「そのうち子孫も絶え、空き家になったあの家の土地を、あなたの養父が買取り、前園家の屋敷が建てられたのです」
「術者が他界しても、術が残り続けることなんて、あるのですか?」
「稀に。祓い屋をしていた者が見えなくなったり、術を使えなくなったりして廃業することは、よくあることです」
妖怪からすれば、祓い屋は天敵。恨みを買ってしまうことは普通のこと。祓い屋は、命の危険が伴う仕事。
「その張られていた結界ですが、かなり強力なもので、簡単には妖怪が中に入れないようになっていたのですよ」
妖怪に追い回されることはよくあった。だが、不思議とあの屋敷まではついてこなかった。それは、屋敷に結界が張られていたから。不憫なものだ。あの屋敷にいたことで、妖怪から守られていたなんて。
「ですが、あの火事は妖怪の仕業かと」
「妖怪が、屋敷に火を放ったのですか?」
青紫は頷くと、話を続ける。
「鎮火した後、屋敷をくまなく調べましたが、妖怪がいた痕跡がありました」
あの屋敷には、ウサギが出入りしていた。妖怪の痕跡があってもおかしくはない。
「それは、あの屋敷を出入りしていた、他の妖怪のものではないですか?」
優子がそう言うと、青紫は何かを思い出したかのように、「あっ」という顔をすると、クスクスとおかしそうに笑う。
「あのような小物では、放火などとても行えませんよ」
「小物って……もしかして、ウサギに会ったのですか? ウサギは……あの子は無事なのですか!?」
前のめりになり、切羽詰まったように問いただす優子に、青紫は冷静に、にっこりとした笑みを浮かべる。
「ええ、無事ですよ。屋敷の前をうろうろしていたので、何か知っているのかと思い声をかけましたが、私を怖がって逃げてしまいました。でも、すぐに戻ってきて、あなたが無事なのかと聞かれたので、無事だと、伝えましたよ」
「……よかった……」
肩に入っていた力が抜け落ちる。
(本当に良かった……)
ウサギが無事だと聞き、優子は心の底から安堵した。
「それと……」
青紫は着物の懐からハンカチを取り出すと、優子に差し出す。
「中を見て下さい」
ハンカチを受け取り、中を見た優子は驚く。
「これ……どうして……」
黒く焼け焦げていたが、優子にはそれが何かすぐに分かった。ハンカチの中にあったのは、切り刻まれたスカーフの破片。
「その小物が、あなたに渡してほしいと。あなたの大事なものだから……と。鎮火した後、瓦礫の下からこのスカーフの破片を探したらしいです」
優子は震えた両手で、スカーフの破片を見つめる。
(ウサギ……)
「そのスカーフ、あの時、探したものですか?」
「……はい。これは、亡くなった母の形見なんです」
あの火事で、全て燃えてしまったと思っていた。もう二度と、戻ることはないと思っていた。だがこうして、手元に戻ってきてくれた。
「っ……」
優子は涙ぐみながら、両手でそっとハンカチを握りしめると、俯けていた顔を上げる。
「ウサギは今どこに」
「さぁ……? ああいう小物は、季節がめぐるたびに、住処を変えますから」
押し込めるようにして、胸にハンカチを抱く優子。
(ウサギ……もう、会えないの? 木を埋める約束も果たせなかった。私こそ、あなたにもらってばかりなのよ)
肩を落とし悲しむ優子を見つめると、青紫は木の上にいるスズメに目を向ける。
「……そのうち、また会えるでしょう。あなたの目には、見えているのだから」
青紫のその言葉に、優子は気付かされる。散々、妖怪に頭を悩まされ続けてきた優子にとって、見えることを良いことだと思えるはずがない。それでも、青紫の言う通り、またウサギに会える。そう考えると、嫌なことばかりではないと。
「そう……ですね」
いつか、もう一度会えたなら、今度はたわいもない話をして笑い合おう。
「では、そうなると、妖怪の痕跡というのは……別の?」
「ええ」
なぜ妖怪が前園家に火を放ったのか。見える自分への嫌がらせとも思えるが、それは考えにくい。妖怪はしつこく絡んできても、襲ってくることはなかった。
__あの妖怪を除いては。
(あの妖怪……?)
ハッとした顔をして自分を見た優子に、青紫はおもしろげにニヤリと笑う。
「お気づきになりましたか?」
「……まさかとは思いますが、あの妖怪なのですか?」
あの老婆の姿をした妖怪は、他の妖怪と違い、優子を食べようとした。
「あの妖怪はヒトツメ鬼と言い、力の強さを求める妖怪です。そしてこれが厄介なことで、ヒトツメ鬼は人間の姿に化けることができる妖怪で、妖力もかなり強い」
「力の強さを求める……それって、私の妖力が強いからですか?」
「私にも、まだ見当がついたわけではありませが、あなたには、何か特別な力があるのかもしれません」
「特別な、力……?」
「その髪色のことなのですが」
青紫の視線は、優子の黄金色の髪に移る。髪を結っていない今は、より輝きが増しているように見える。
「古の時代、黄金色に輝く髪を持つものは、神々を映す鏡だと言われています」
「神々……ですか……。でも、私は普通の人間です。妖怪が、見えますが……」
妖怪が見えること以外、変わったところはない。
「先祖に、同じ髪色を持つ方はいませんでしたか?」
「……分かりません。母はすでに他界していますし、私は父を知らずに育ちました」
昔、一度だけ、小百合に両親のことを聞いたことがあったが、母は一人で優子を産み育てていたということ以外、何も聞かされなかった。もっと血縁関係の近い親戚であれば、何か知っているかもしれないが、どこに住んでいるのかも分からない。
「そうですか……。話がそれましたが、おそらく、あなたのその力を狙って、ヒトツメ鬼はあなたを追い回し、屋敷に火を放った。おおかた、自分はあの屋敷に入れないから、あなたにあの屋敷から出て来てもらおうと火を放ったのでしょう」
ヒトツメ鬼がしきりによこせと言っていたのは、その神々の力。そんな力が自分にあるとは思えないが、青紫の言っていることが本当なら、ヒトツメ鬼はこれからも優子を襲ってくる。
「ですが、あの火事の日、どうして私を襲ってこなかったのでしょうか」
青紫の話だと、ヒトツメ鬼は屋敷の外で優子を待っていたはず。それなのに、どうして襲ってこなかったのか。
「黒羽さん……?」
突然、黙り込む青紫に、優子は首を傾げる。
「それを話すには、私の身の上話を聞いていただかなくてはなりません」
どこか深刻な顔をした青紫。立ち上がり寝室を出て行こうとする青紫と入れ違いで、おぼんに湯呑みを乗せた多江が入ってくる。
「どうかされましたか?」
多江は不思議そうに青紫と優子を見て言う。
優子は布団から出ると、羽織を着る。
「散歩に出かけてきます」
多江にそう言うと、優子は青紫の後を追った。
怪我をしている優子を多江は心配したが、すぐに戻る約束をして屋敷を出た。
人に見られてはいけない。そう言った青紫は優子を森へ連れて来た。森はあの日のように霧に包まれている。優子は青紫の姿を見失わないように、その背中から目を逸さなかった。
そこへ、どこからともなくオッドアイの黒カラスが現れる。黒カラスは離れた位置で低空飛行をし、優子と青紫を横目に見ながら近くの木に降り立った。
黒カラスは様子を伺うように、じっと優子と青紫を見ている。
その片目は赤く光っている。
先を歩いていた青紫が止まる。優子は数十メートルほど距離を取った位置で足を止めた。
「人ならざるものを見るあなたは、私の正体に、薄々気づいていたでしょ?」
青紫の問いかけに、優子は少しの間、沈黙すると、浅く息を吐く。
「……確証はありませんでした」
その独特な雰囲気、体温は低く、気配もしない。
何より、あの左目……。
あんな血に染まったような赤い瞳は、人間味を感じさせない。
左目に片手を当てる青紫。
「やはり、この目を見られてしまったことが運の尽きでしたね」
自嘲気な笑みを浮かべた青紫は、優子の考えを読むようにそう言う。
冷たい風が、優子の頬を掠める。外は気持ちの良い温かさだというのに、急に冷たい風が吹くのはおかしい。
あの時もそうだった。石階段に片足を乗せた瞬間、頬を撫でるように風が吹いた。不可解な現象に、優子はゾクリとする。
目を伏せる青紫。
「あなたの考える通り、私は人間ではありません。正確には……半分は」
霧は更に深まり、青紫を隠すように包み込む。突如、黒カラスが大きな鳴き声を上げ空へ飛び立つ。優子は肩をびくつかせ、空を見上げる。黒カラスは鳴き声を上げたまま、慌てるように落ち着きなく青紫の上をぐるぐると回っている。
何かが起ころうとしている。
優子は無意識に身構えた。
霧の中で赤い瞳が光ったと思えば、次の瞬間には霧と混ざり合うように黒い煙のようなものが青紫を渦巻く。
全身の細胞が小刻みに震え出し、身体から冷や汗が出る。
(大丈夫よ……落ち着いて私)
優子は冷静さを失わぬよう、自分に言い聞かせる。霧が薄くなり、青紫の姿が浮きぼりになる。
「__!」
(これは……)
「人間相手に自らこの姿を見せるのは、あなたが初めてです」
青紫の背には、黒い大きな翼が生えている。顎下あたりだった髪は腰まで伸び、爪は長く、耳は矢のように尖っている。右目は黒く、赤い左目は獲物を捕食するかのように鋭く光っている。
「この姿を見たら、多少の悲鳴は上がると思ったのですが……」
顔色ひとつ変えずに、背筋を伸ばしたまま佇み青紫を見据える優子に、青紫はどこか残念そうな笑みを浮かべた。
思い出した。あの日、助けてくれたのは黒い羽を持つ妖怪。……いや、妖怪と人の二面生を持っていた。その半妖は濃い霧の中をかき分けるように空から舞い降りてくると、何かの術を使い、目の前にいたヒトツメ鬼を撃退した。
「私は、人間と八咫烏の半妖」
「八咫烏……」
聞いたことがある。八咫烏とは、三本足のカラスで、神への道を示すと言われている。
__別名、神の使い。
「ヒトツメ鬼は、私が八咫烏の血を引く存在であることに気づいた。その力に慄き、あなたを襲ってこなかったのでしょう」
八咫烏は神の使いであることから、妖怪の中でも大きな力を持つ存在と言われている。火事の時、屋敷を出られたのも、牢獄を出られたのも、全て妖怪の力だったのだ。
人と妖怪の混血種が存在しているなんて、にわかに信じがたいが、目の前にいるこの男は間違いなく半妖だ。
体は見ることを拒絶している。頭も、知るべきことではないと言っている。だが、立ち去ろうとは思わない。
優子はゆっくりと青紫に歩み寄る。そして、その冷たい頬に、そっと片手を添える。青紫に触れ、優子はとても驚いた。青紫は氷のように冷たかったのだ。
変身して、妖怪の力が強くなったせいなのだろうか。
「……あなたは、私が怖くないのですか?」
躊躇することなく自分に触れる優子に、青紫は訝しげに問う。
「怖くありません。いえ……本当のことを言うと、最初は怖かった」
だけど、その怖さは突然どこかへ消えてしまった。不思議だった。目の前にいるこの男は、ほんの少し自分に触れただけで、息の根を殺してしまいそうだというのに。
「この爪であなたの喉を掻き切り、腹を切り裂くことだってできるのですよ」
青紫は言いながら、脅すように爪で優子の喉からお腹に手を這わせる。しかし、優子の態度は毅然としたまま。
「あなたはそんなことしないわ」
優子の凜とした強い眼差しが、青紫の胸に突き刺さる。
自分はこの男のことなどよく知りもしない。自分を聡明だというわけではないが、確証がある。この男は、自分をぞんざいに扱うことは絶対にない__と。なぜなら、優子の瞳に映る青紫は、獣などではないから。
「やはり、この決断をして正解だった」
青紫の頬から、優子の片手が離される。
「……何の話ですか?」
「あの日、私があなたの屋敷にいたのは、前園夫妻に取引を持ちかけるためです」
「……取引? 一体、何の」
「借金を肩代わりするために、あなたと結婚させてほしいと」
青紫が何を言ったのか分からず、優子は時が止まったかのようにフリーズした。
「……はい?」
「私が屋敷に出向いた時には、火はかなり回っていて、あなたを見つけるのに苦労しました」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
全く理解できていない自分をよそに、話を続けようとする青紫を、優子は手で制す。
「妻って……どういうことですか……?」
「そのままの意味です。私はあなたと、夫婦になりたい」
「いや……夫婦って……」
なぜ自分と夫婦になりたいのか。目の前でカラスになったことも驚きだが、結婚だなんて、本当にどうしたのか。
だが、ずっと気に掛かっていたことが腑に落ちた。療養している間、前園家からの連絡がないのが疑問だった。青紫が借金を肩代わりしてくれるとなれば、二人にとっては好都合。何かあるのかも知れないと思っていたが、青紫が根回しをしていたとは思いもしなかった。
「……名門一族のあなたが、どうして私と婚姻を」
「この歳になると、独り身でいることに怪しまれることもありましてね。何か良くないことがあるのではないかと。変な噂が立ってしまいそうで。妖怪の血を引くことも隠さなければなりませんし、仕事に支障が出るのも避けたい。何より、一門の名を汚すようなことは、これ以上あってはならない」
「だから、婚姻を結んでほしいと……?」
「ええ」
「でも、だからって、どうしてその相手が私なのですか」
事実上、前園家は没落。爵位も剥奪される上に、借金を抱えている。自分と婚姻を結んでも、お荷物になるだけだ。では、好意がある? 莫大な借金の肩代わりをするくらいだ、己に利益がないことをするのも、好意があるというのなら説明がつく。
「あなたは妖怪が見える。故に、私も気を遣わなくて済むし、正体を隠さなくていい。あなたもそうでしょ? 半妖である私が相手だと、気持ちが楽なはずだ」
(ああ……そういうこと)
優子は落胆した。
(そうよね……そうに、決まっている……)
これは、利害の一致だ。好意を向けられているなんて、少しでも思った自分が恥ずかしくて、馬鹿みたいだ。
夢を見すぎた。
青紫にとって、優子は妻にするのに都合の良い存在だっただけ。
自分は、道具になることしかできないのか。
鉛がついたように、心が大きく沈み、顔を俯ける優子。
「それに、私なら、あなたを守ってあげられる」
「……えっ?」
俯けていた顔を上げると、青紫の黒い大きな翼が、音を立て羽ばたく。
「前に言ってたでしょ。翼がほしいと」
その黒い翼に、優子は魅入った。
「ならば、私がその翼になりましょう。私がいれば、あなたは自由だ」
自由……愛し愛される人生と同じように、強く求めていたもの__。
(違う……私は道具などではない。この人は、私をそんな風に見てない、扱わない)
青紫といれば、自分は道具ではなく、人になれる。
前園家のことも、あの二人のことも大嫌いだ。だが、火事のことは自分に非がある。ウサギの住処も奪ってしまった。それに、青紫といる時だけが、優子は幸せを感じられた。
青紫は優子に向けて、そっと片手を差し出す。
「私の手を取ったら最後、もう後戻りはできません。__さあ、選んで」
こんな状況の中、普通の人間はこの手を掴むことはしない。相手は得体の知れない半妖、これはあまり危険なこと、それは分かっている。
だが、何よりも心を突き動かすものがある。
優子は青紫を見つめる。
闇を映すかのような黒い右目には、虚無。血のような赤い目には憎悪と酷い悲しみがある。その瞳には、果たして自分は映っているのか。
(本当に、何を考えているのか分からない人だわ……)
この屈託のない笑みを貼り付けた仮面の下には、どんな顔があるのか。優子はこの男の本当の姿を知りたいと思った。
(彼は私のことなど愛していない。でも、それでもいい)
優子は差し出された青紫の片手に、そっと自分の片手を置いた。青紫は満足げに口の端を上げると、優子の片手をぎゅっと握る。濃い霧が二人を包み込んだかと思えば、光の速さで霧が消える。次の瞬間には、青紫は人間の姿に戻っていた。
「では、契約成立ということで」
この時は想像もしていなかった。この選択が、自分の運命を大きく切り開くことになるとは。
春の終わりに、二人の祝言は挙げられた。緩やかな春風に、桜の花びらが宙を舞っている。
「さあ、目を開けて」
多江の言葉に、優子がゆっくりと目を開ける。化粧台の鏡には、いつも違う自分の姿が映し出された。
「とっても素敵です」
鏡越しに優子を見て、多江はにこやかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
優子は改めて、鏡に映る自分を見る。白無垢を着て、顔はお粉をはたき、頬には血色感のあるオレンジ色の頬紅、唇には椿色の紅をさした。美しく着飾ることには慣れているつもりだったが、どうも今日の自分の姿には落ち着かない。
きっと、この姿を彼に見せるからだろう。優子は密かにそう思っていた。
襖に黒い影が映る。
「入ってもよろしいでしょうか」
気高い声に、優子はドキッとする。
「ど、どうぞ」
優子がそう答えると、少し遠慮がちに襖が開く。袴姿の青紫は優子を見ると、心底驚いたように、目を丸くした。
「……へ、変でしたか……」
微動だにせず自分を見る青紫に、優子は視線を伏せがちに聞く。青紫は我に返ったようにハッとした。
「あっ……いや」
否定するも、その視線はじっと優子に注がれている。優子は何も言わずにじっと見てくる青紫に恥ずかしくなり、視線を右往左往させた。
(どうしてそんなに見るのかしら……やっぱり変だったのでは……)
「すいません。あまりにも綺麗だったもので……」
「えっ……?」
予想外の返答に、優子はゆっくりと顔を上げる。青紫は片手で顔を隠すように、視線を横に逸らす。その頬は、うっすらと赤く染まっているように見えた。
咳払いをすると、青紫は優子を見据える。
「__綺麗だ」
穏やかで優しい、温かさが滲み出ている声に、これも本心だと分かる。青紫の瞳の奥は、慈しみを感じる。それは、真摯に優子に向けられている。
「黒羽さんも……袴、お似合いです」
優子の褒め言葉に、青紫はどこかぎこちない笑みを浮かべた。
「では、行きましょうか」
多江に見送られながら、青紫に手を引かれ屋敷を出ると、二人で神社に向かう。
祝言と言っても、客人を招いて盛大に行うものなどではなく、神社に参拝するだけ。それだけでも、優子は驚きだった。青紫はこういうことに関心を持つようなタイプには見えなかったからだ。
きっと、自分を気遣ってくれているのだろう。優子はそう思った。
紙切れ一枚で始まると思っていた結婚生活だったが、青紫のおかげで、結婚の形を残すことができそうだった。
森は静寂さに包まれているが、ゆったりとした時の流れを感じ、心は穏やかだった。木漏れ日が優しく降り注ぎ、木々が音を立て揺れる。その様は、自分たちの祝言を祝福してくれているかのように思えた。
今日のために青紫と神社を掃除した。青紫は手際が良く、不器用な優子にも丁寧に掃除の仕方を教えてくれた。人気のない神社がいつも綺麗に整っていたのは、青紫が毎日欠かさず掃除をしてくれているおかげだった。
賽銭箱の前に来ると、二人並んで手を合わせ、神に挨拶をする。先に挨拶を済ませた優子が目を開けると、隣の青紫はまだ目を閉じていた。神への導きをする八咫烏だが、その血を引く青紫なら、神と会話できたりするのだろうか。
そんなことを思っていると、青紫の目が見開かれる。
「何を願ったのですか?」
優子がそう聞くと、青紫は少し意地悪そうな笑みを浮かべ答える。
「神との会話は、人には話さない方がいいそうですよ」
最もそうな返答。それに青紫が言うと、説得力がある。
改まった様子で体を向き合わせる青紫に、優子も体を向き合わせる。
「これで私たちは、正式に夫婦となりました。これから、どうぞよろしくお願いします」
(本当に、この人に妻に……)
屈託ない笑みを浮かべ自分を見る青紫を、優子は凛とした瞳で見据える。
「はい、よろしくお願いします」
__これは、妖怪と人の、儚くも美しい最愛物語だ。




