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人形令嬢と半妖のあやかし祓い屋  作者: 黒彩セイナ


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2/14

赤い瞳の男

 カラスの鳴き声で、優子は目を覚ました。

 何度か瞬きをすると、視界が鮮明になる。見慣れない天井が見えたことで、ボケッとしていた脳が冴えはじめる。

(ここは……)

 襖からオレンジ色の光が差し込んでいる。外はすでに日が暮れはじめていた。

 どうやら、しばらくの間、眠ってしまっていたようだ。

 額に違和感を感じ触れると、包帯が巻かれていることに気づいた。

 あの時、額を切った。その手当を誰かがしてくれたようだった。

(一体、誰が……)

「目が覚めましたか?」

 いきなり人の声が聞こえ、優子は驚きビクッと肩をすくめる。

 布団から上体を起こし、部屋の隅に目を向けると、黒髪の男が正座して、こちらを見ていた。

(……この男、気配が全くしなかった)

 男は口元にうっすらと笑みを浮かべ、優子を見ている。

 その不気味な姿に、優子は眉をひそめた。

「……あなたは?」

「名は、黒羽青紫と言います。神社で倒れたあなたを私の屋敷まで連れてきました」

(黒羽……? どこかで聞いたことあるような)

 聞き覚えのあるようなその名前に、優子は思考を巡らせるが、そこであることが気にかかった。

「……えっ、神社?」

「おや、覚えていませんか?」

 疲れ果て、気を失った。それは覚えているが、あの場所が神社だったとは気づかなかった。

 何せ、視界不良になるほどに霧が濃かったし、意識も朦朧していていて、周りを見る余裕などなかった。

「あそこは、神社なのですか?」

 優子の問いかけに、青紫は目を伏せる。

「ええ、五百年ほど前からあの場所に」

(そんなに前から……)

 あの田舎には、幼い頃から足を運んでいたが、神社があることは知らなかった。

 変なものだ。今まで気づかなかったとは。

「黒羽さん……でしたっけ? ここはあなたのお屋敷だとお聞きしましたが、どこなのですか? あなたは、何者……なんですか……」

 人の賑わいが全く感じられない。おそらく帝都ではないはず。それに、この屋敷内からは人の気配がしない。ここには、自分とこの男しかいないような気がした。

「質問が多いですね。ま、それもそうですよね」

 警戒する優子に、青紫はどこか楽しそうに笑いそう言うと、優子を見据えた。

 長い前髪で左目は隠れているが、闇を映すかのような右目に見つめられ、優子は静かに息を呑んだ。

 不思議な感覚だ。怖いとか、不気味だとか以前に、とにかくこの男の存在自体そのものがあやふやで、どこか他の時空にいるかのように、優子の心身はふわふわと浮いているようだった。

「私は祓い屋を生業としている者で、ここはあなたがいた田舎より、森の奥にあります」

「祓い屋……」

【祓い屋】人ならざるものを祓う。つまりは、消し去る者のことを意味する。

 そこで、優子はハッとする。

(……思い出した。黒羽って、あの黒羽一門のことだ)

 妖怪についてはそんな詳しくないが、前に屋敷の蔵にある書物で読んだことがある。黒羽一門は祓い屋の最大勢力で、古の世からあやかし祓いをしている由緒ある祓い屋の家系の一つとして、この地に潜む妖怪から、人間たちを守ってきたと。

「あなたは、黒羽一門の方なのですか」

 優子がそう聞くと、青紫は僅かに目を見開く。

「我が一門をご存知でしたか。そうです、私は黒羽一門の祓い屋です。……と言っても、今は家を出て独立した身ですので、一門とはあまり関係はありません」

 祓い屋などただの言い伝えで、書物の中だけの話だと思っていた。まさか、本当に存在していたとは……。

 信じがたい。だが、自分にはそれが見えるのだ。妖怪__が。

 祓い屋ということは、この男も……。

 優子はごくりと唾を呑んだ。

「……あなたは、見えるのですか。その……妖怪が」

 恐る恐ると言った様子で、聞きにくそうに問う優子に、青紫は少しだけ間を開けると、屈託ない笑みを浮かべ答える。

「ええ、見えますよ」

 心底驚く優子に、青紫は腰を上げると、優子の隣に腰を下ろした。

 ぐいっと顔を近づけられたかと思うと、闇を映すかのような右目に、瞳の奥を覗き込まれる。

「あなたにも、見えているのでしょう?」

 その言葉に、優子の体はゾクリと身の毛がよだつ。

「な、何がですか……」

 何とか絞り出した声は、震えていた。

 屈託ない笑みを浮かべたまま、じっと優子を見据える青紫。逸らしたいのに、視線を逸らせない。

「妖怪ですよ」

 闇を映すかのようなこの瞳には、まるで全て見透かされているようで、嘘をつくことはできなかった。

「……なぜ、それを」

「なぜって、あなたはこれだけの傷を負いながら、何が起きていたのか追求してこない」

「それは……」

 口ごもる優子に、青紫は続ける。

「それに……あなたは何やら、不思議な気配をしている」

 そう言うと、青紫は優子に近づけていた顔を離す。

「おそらく、妖力がかなり強いのでしょう」

「妖力……? それって、妖怪が持つものではないのですか」

「私やあなたのように、見える者は、少なからず妖力を持っているものですよ。……まあ、私の場合は少し違いますけど」

 そう言った青紫の顔に影が差す。

 どういう意味かと首を傾げる優子に、青紫はなんでもないというように、また屈託のない笑みを浮かべる。

「自分以外にも見える人がいたなんて」

「驚きましたか?」

「はい……かなり」

 正直な優子に、青紫は「フッ」と笑みを漏らすと、棚の中から薬箱を取り出す。

「沁みますが我慢してください」

 青紫は布に消毒液を垂らすと、ぎこちなく優子の額に触れ、傷口を消毒する。

 指先から伝わる青紫の体温は低く、そのひんやりとした感覚が、気持ちよかった。

 人にしては、体温が低すぎる気もするが。

 優子が青紫に目を向けると、青紫は集中した顔つきで手当をしていた。

 不気味な笑みを浮かべていたかと思えば、屈託ない笑みを浮かべ、今は、真面目な顔をする。人間らしいその姿に、優子の緊張は和らいでいった。

「何も、妖怪が見えるというのは、不思議なことではありません。この世には解明できない謎が多くある。そうは思いませんか?」

「でも、多くの人には見えないではありませんか。私は……他とは違う」

 見えることで、常に他者から否定され、この世界に自分の居場所がない。そう思って生きてきた。それはとても辛いことで、だから、自分も他の人と同じように普通になれれば、仲間はずれにされることも、邪険にされることもないと、同じになろうと努力した。

(でも、それも全て、ただ悲しくなるだけだった……)

 気づくと、青紫の手がぴたりと止まっている。笑みを消し、俯きかげんでどこか一点を見つめる青紫。

 その表情は、何を考えているのか分からない。

「なぜ人と違うことがいけないのですか?」

「え……」

 怒っている様子の青紫に、優子は戸惑う。

「私からしたら、同じであることの方が気味が悪い。こう思ったことはありませんか。見えない方がおかしいと」

 真剣な眼差しを向けてくる青紫を、優子は何も言わずに視線を向ける。

 青紫の瞳の奥に宿る稲妻のようなもの。怒り、憎悪……だが一番強く感じたのは……酷い悲しみ__。

 この酷い悲しみはどこからやってきているのか。

 優子が戸惑い続けていると、青紫は一転して柔らかな笑みを浮かべる。

 優子の頭に、優しく片手が置かれる。

「あなたは変などではありません。あなたは優しく、思いやりのある人です。自分を卑下するのはやめなさい」

 この男の体温は低く、実態が不確で不気味だ。

 それなのに……。

 この手はとても優しく、その言葉はとても温かかった。

 人に肯定されると、こんなにも気持ちが楽になるものだと、優子は初めて知った。

「傷はそこまで深くありません。跡も残らないでしょう」

 薬を塗ると、新しい包帯を巻いてくれる青紫。

 細長い綺麗な指が、包帯が巻かれた優子の額を軽く撫でる。

「これで大丈夫でしょう」

「……ありがとうございます」

「いえ」

 青紫は他の人たちのように、棘のある視線を送ってきたり、舐めまわしく見てもこない。この髪色を見ても、何も言わない。それは優子にとって、とても心地良いことで、初めて感じた安らぎだった。

(髪……)

 そこでハッとする。急に忙しくなく辺りを見回し出す優子に、青紫は首を傾げる。

「どうかしましたか?」

「スカーフが……」

 焦る優子。

「スカーフ?」

「髪を覆っていたスカーフがないんです」

「スカーフなんて、ありませんでしたが……」

 車を降りた時、確かにあった。あの妖怪ともみ合っているうちに、どこかに落としてしまったのかもしれない。

 あのスカーフは母の形見、あれがないとダメなのだ。

(探さないと)

 優子は立ち上がると、青紫に向かって、できる限り丁寧に腰を折り曲げお辞儀をする。

「助けていただきありがとうございます。私はこれで失礼します」

 そう言い、部屋を出ようする優子の腕を青紫が掴む。

「私も一緒に行きます」


 夕日に照らされ、森は神秘的な輝きを放っていた。その輝きを眺めながら、優子は先を行く青紫に付いて石階段を下りる。

 あの妖怪と遭遇した田舎は、青紫の屋敷から程近いところにあるらしく、青紫の案内の元、二人でスカーフを探し歩いた。

 霧が晴れ見晴らしが良くなって気づいたが、青紫の言う通り、石階段の上にあったのは、確かに神社だった。参拝者の姿もなく、人の手が行き届いていない場所に思えるが、手水舎は綺麗に整っている。もしかして、この男が綺麗にしているのだろうか。

 青紫はゆくっりとした足取りで石階段を降りている。ペースを合わせてくれているのかもしれない。

 さっきはよく見ていなかったが、青紫はとても背が高い。それに細身でスラリとしていて、スタイルも良い。自分を抱き抱えたままこの森を歩いたとは、細いが中身はしっかり詰まっているようだ。

「さっきから、視線が痛いのですが」

 振り向きもせずそう言われ、優子はドキッとする。

 この男は、背中に目でもついているのか。

 青紫が足を止める。優子もそれに倣って足を止めた。

 幅の厚い石階段の数段上に優子がいるが、青紫の方が背が高い。

 優子へ振り向く青紫。

 優子が青紫を見上げると、目が合う。

「何か言いたいことでも?」

 屈託ない笑みを浮かべ、青紫は言う。優子は淡々とした態度を示すように、今一度、背筋を伸ばす。

「いえ、何も」

 そう言い、優子は石階段を下り、青紫の横を通り過ぎる。

「フッ……」

 青紫は小さく鼻で笑うと、優子の後ろを楽しそうに歩く。

(変な人……)

 鳥居をくぐり終えたところで、カラスの鳴き声が聞こえた。振り向き見上げると、鳥居に一羽の黒カラスがとまっていた。

 あれは……オッドアイ?

 黒カラスの片目は赤く、宝石のように光っていた。

 黒カラスは鳴きもせず、じっと優子を見ている。

 監視でもされているかのような視線だが、カラスがそんなことをするはずがないと、優子は黒カラスから視線を逸らした。

 スカーフ探しは困難を極めた。手当たり次第、思い当たる節を探すがどこにも見当たらない。

 こんなに探してないなんて、もう諦めるしかしないのだろうか。

 優子は首を横に振る。

 いや、きっとどこかにあるはずだ。諦めないで探し続けよう。

 優子は腕捲りをして、生い茂った草むらの中に入る。虫がいようとも小さな悲鳴を上げるだけで、探すのを止めることはしない。

 ぐんぐんと茂みの中を突き進む優子。そんな優子の姿に、青紫も茂みの中に入り、一緒にスカーフを探す。

 スカーフ探しに夢中になっているうちに日は落ち、あたりはすっかり暗くなった。街灯もない田舎は、月でも出ない限り明かりはない。

 さすがにこれ以上は探せないか。

 優子が肩を落としたその時。

 カチッと音がしたと思うと、足元がライトで照らされる。見上げると、隣に立っていた青紫の手に、懐中電灯があった。

「これでまだ探せますね」

 そう言い、にっこり笑う青紫。

 懐中電灯なんて、たまたま持っているはずがない。まるで、始めからこうなっても、探すつもりだったかのようだ。

「どうして……どうしてそこまでしてくれるんですか」

 青紫の言動に混乱する優子。

「今日、会ったばかりの私などのために」

 青紫の顔には跳ねた泥、髪には草がついていて、着物も汚れている。

 この男にとって、これはなんの利益もないこと。スカーフがあろうとなかろうと、どうでもいいことのはず。

 それなのに、どうして。

「……さぁ、どうしてでしょうか」

 青紫は真っ暗な空を見上げ、疑問気にそう言う。

 自分でも、なぜこんなことをしているのか、分かっていないようだった。

「でも、そうですね……。一生懸命なあなたに、何かしてあげたいと思ったのですよ」

 掴みどころのない青紫に、優子は翻弄されるばかりだ。

 懐中電灯の灯りを頼りに並んで歩き、右左に視線を巡らせる。

 辺りは静まり、自分たちの足音だけ。まるで、この世界には、自分とこの男しかいないようだ。出会ったばかりの男と暗闇に二人きり。あの妖怪も、またいつ襲ってくるか分からない。だが、不思議と怖くなかった。

 優子は隣を歩く青紫を見上げる。低くもなく、高くもない気高い声に、物腰が柔らかで、口調も穏やか。不気味なところはあるが、この男には、安心感がある。

「あの、聞いてもいいですか」

「なんでしょうか」

「妖怪が見えると言っていましたけど、いつから」

「そうですね、生まれた時からでしょうか」

「それって、区別できていたのですか? 人か、妖怪か」

「ええ」

 さも当然かのように答える青紫。

 祓い屋の家系に生まれたこの男にとって、妖怪が見えることは当たり前。それを否定るする者も、周りにいなかったのだろう。

(……私とは大違い)

「私は、妖怪と人間の区別がつきません。あの妖怪もそうでした。道でうずくまっていたところを助けようとしたら首を絞められて、顔が変形するまで、妖怪だと分かりませんでした」

「……フッ」

「馬鹿にしてます?」

 鼻で笑う青紫に、優子は眉間に皺を寄せ、少しムッとする。

 青紫は目を伏せると、首を横に振る。

「いいえ、していませんよ。あなたらしいなと、思っただけです」

 意外にも優しい返しに、優子は拍子抜けしそうになる。

(……よく分からない人)

「あなたを襲ったあの妖怪は、人に化けることができる妖怪で、そういった妖怪は妖力が強く、タチの悪いものもいます」

「どうすれば、人と妖怪を区別できますか」

 優子のその質問に、青紫は「うーん」と言うように、首を捻らせる。

「人と妖怪を見極める方法は、これと言ってありません。ですが、違いはあるものです」

「違い……? どんな違いですか?」

「これは感覚的なものなので、言葉で説明するのは珍しいですが、力を磨けば、自然と分かるようになります。力を磨くことは、自分を守ることにも繋がりますしね。見たところ、あなたは妖力がとても強い。使い方次第では、妖怪を従えることもできる」

 妖怪を従える……。それは、恐ろしいことのように思えた。

「……よく、分からないですけど、それはしてはいけないことだと思います」

 たとえ妖怪であったとしても、何かで縛ることは、自由と尊厳を損なわせること。

 優子の頭には、前園家の道具として生きている自分の姿が思い浮かぶ。

 そう、縛ることなど、あってはならないのだ。

「そうですか? 使えるものは使った方がいいと思いますけどね」

「そんな物みたいに」

「あなたが珍しいんですよ。それだけ大きな力を持ちながら、欲望というものがまるでない。人間は己の強さをひけらかしたくなる生き物です。……不思議な人もいるものですね」

 青紫は考え深そうにそう言った。

 夜は深まっていく。肌寒さを感じ着物の上から腕を摩ってると、青紫が優子の肩の上に、そっと自分の羽織をかけた。

「えっ……いいですよ、あなたが風邪を引いてしまいます」

 言いながら、優子は羽織を返そうとするが、青紫は受け取らない。

「私は寒さには強いので。それに、こういう時は甘えるものですよ」

 そういうものなのだろうか。優子にはよく分からない。何せ、今まで恋愛という恋愛をしてきたことがないのだから。

 優子は青紫の言う通り、大人しく羽織を肩にかけることにした。

(……温かい)

 両手で羽織を顔の横まで引き寄せ、顔をうずめる。

 人の温もりが、こんなにも温かいものだとは、知らなかった。

 ゆったりとした足取りで進み続けていると、川のせせらぎが聞こえてきた。心地良い音に耳を傾けていると、眩い黄色い光が二人を出迎えた。

「わぁ……」

 思わず感嘆の吐息が漏れる優子。そこには、何百匹もの蛍がいた。

「ほぉ……これは見事ですね」

 隣でその光景を見た青紫も、思わずと言った様子でそう言う。

「私、蛍は初めて見ました。こんなにも美しいものなのですね……」

 蛍に心奪われた優子を、青紫は何も言わずに見つめる。その瞳の奥には、小さな光が灯っているようだ。

「蛍の生涯は一年と言われていますが、そのほとんどは水の中で過ごすそうです。産卵した後は、二、三日でその短い生涯を終えるとか」

「そう考えると、私たち人間の寿命が、とても長く思えますね」

「蛍と比べてしまえば、そうですね。でも、人間の寿命なんてものは、瞬き程度のものですよ」

「ふふっ……まるで自分が人間ではないような言い方ですね」

 優子は冗談めかしてそう言ったことだったが、青紫は不敵に笑うだけで、何を言うでもない。

 蛍は子孫を残すためのパートーナーを探しているのか、翼を羽ばたかせ、宙を舞う。

「……私にも、翼があったらな……」

 思わず漏れた優子の小さな呟きに、青紫は蛍から視線を外し、優子に目を向ける。

「あ、いえ……。翼があれば、自由にどこまでも行けそうだなと思って」

 例えば、雲の上を浮遊できるくらい大きな翼があったとして、そうすれば、あの家を出て、誰にも見つからない場所に行けるのではないだろうか。自由を、手に入れられるのではないか。

「私、いつも家に閉じこもってばかりなんです。たまに外出したかと思えば、身なりを整えるためで」

 白い肌を保つために、外出は控えなさい。外で遊ぶのではなく、家の中でお裁縫や生花をしなさい。気品ある優美な女性になるために、仕草や立ち振る舞いを厳しく叩き込まれ、感情を表に出すことすらも禁じられた。

「こんな風に着物を汚したり、顔に煤をつけるのは初めてで……なんだか、心が解き放たれたような気がしています」

 無鉄砲でも、何か頑張れている自分は、綺麗でいる自分よりも好きな気がした。

「本当の美しさって、外見の美ではなく、こうして、懸命に生きている姿なのではないでしょうか」

 儚くも、短い生涯を生きる蛍は、切なくも美しい。人間の美しさも、そうであってほしい。優子は切にそう願った。

「そうですね」

 青紫は優しく微笑みながら、片手で優子の頬をスッと撫でた。頬についた煤を拭き取ってくれた。

「私も、煤をつけて胸を張るあなたの方が、好きですね」

 胡散臭くもない自然な笑み。そんな青紫に、優子は惹きつけられた。

「ん? あれは……」

 ふと視線を上に動かす青紫。懐中電灯で照らされた先を優子が追うと、高い木の上にスカーフがあった。

「あっ! あれです……!」

 スカーフは木の葉に巻き付くようにしてある。

 あんな高い位置にあったとは、これではいくら探しても見つからないはずだ。

「あんな場所にあるとは……あれは妖怪の仕業かもしれませんね」

「でも、あんな高いところ、どうやって取れば……きゃあ__!!」

 突然、体が宙に浮いたかと思うと、優子の体は青紫の肩の上に。

「な、何を……!?」

 恐怖で叫ぶ優子に、青紫はニコニコとした楽しそうな笑みを浮かべている。

「私が抱き抱えれば、手が届くのではないかと思いまして」

「そんな無理ですよ! 落ちてしまうかもと思ったら怖いですし……」

「私がちゃんと支えます。信じてください」

 青紫は優子の腰を支える両手に力を込める。

 絶対に落とさない。そう言われているような気がした。

 青紫を信じ、優子は懸命にスカーフに手を伸ばす。

(っ……あともう少し……)

 指先でスカーフを掴むと、グッと引き寄せ、スカーフを手に取る。

「取れた……! 取れましたよ!」

 嬉しさのあまり、優子は青紫にスカーフを見せようと前のめりになる。その反動で、青紫はバランスを崩す。優子が青紫に覆い被さるようにして、二人は地面に倒れ込んだ。

「っ……すいません、大丈夫ですか?」

 言いながら、上体を起こした優子は青紫を見て、目を見張る。懐中電灯で照らされた青紫のその左目は、血のような赤かった。

「その目……」

 驚きを隠せない優子に、青紫はサッと前髪で左目を隠す。

「……驚かせてすみません。見て気持ちの良いものではないと分かっているのですが、これは生まれつきなので、どうにもできないんですよ。立てますか?」

 優子に片手を差し出す青紫だったが、一瞬、ハッとした顔をして、手を引っ込める。変わった見た目をしている自分の手などに、触れたくないだろうと思ったかもしれない。

(そんなこと、ないんだから)

 優子は迷わずその手を掴む。青紫は驚いたように目を見開いたが、すぐに何事もなかったかのように優子の手を引き、一緒に立ち上がった。

「戻りましょうか」

 青紫は落ちた懐中電灯を拾うと、来た道を戻る。

「……」

 先をゆく青紫に、優子はどこか一線を引かれたように感じ、虚しくなる。

 優子は青紫の後ろを歩き、そのスラリとした背中を見つめる。

 赤い瞳をした人間を初めて見た。あれは、あのカラスのようにオッドアイ……というものなのだろうか。だが、あの血のように赤い瞳は、他とは逸脱しているように思える……。

 急に足を止める青紫、不思議に思いながら、優子も足を止める。

「……早かったな」

 青紫が独り言のようにそう呟くと、辺りが騒がしくなる。前方から、ランプの灯りが見え、灯はどんどん優子たちに近づいてくる。

「あれは……警察?」

 目を凝らした優子。見えたのは警察だった。その後ろには、前園家の執事長と何名かのメイド、そして、用心棒たちも一緒だ。

「あっ……」

 すっかり忘れていたが、ここに来たのはもう何時間も前のこと。自分がいなくなったと、家では大騒ぎになっていたのだ。

「優子様……!」

 優子に気づいた執事長が、血相変えた様子で駆け寄って来る。

「ご無事で何よりです」

 安堵したのも束の間、執事長は優子の額の包帯、着物の汚れや乱れた髪を見ると青ざめた顔をする。

「一体、何が……」

 そう言うと、執事長は優子の隣に立っていた青紫に気づき、優子と青紫の間に割って入る。

「お前、優子様に何をした」

 警戒した執事長は鋭い目で青紫を睨む。どうやら、執事長は優子が青紫に乱暴をされたと思っているようだった。

「これは心外ですね」

 執事長に疑惑の目を向けらても、青紫は飄々としている。その様子に、執事長の後ろに控えていた、お屋敷お抱えの用心棒たちが青紫を囲む。

 誤解を解かなければ。

 優子は青紫を自分の後ろに隠すようにして、執事長の前に立ちはだかる。

 執事長は驚いた様子で優子に目を向ける。

「違います。この方は私を守ってくれたのです」

「では、なぜそのようなお姿に……そのお怪我はどうされたのですか?」

「この怪我は……転んでしまって、この方が手当てをしてくださいました。着物が汚れているのは、スカーフをなくして探していたからです。それもこの方が手伝ってくださいました」

 優子は手に握られていたスカーフを胸の前に出し、執事長に見せる。しかし、執事長は青紫に疑惑の目を向け続ける。

(どうしよう、信じてもらえてない)

「そのような薄着では風邪を引かれます。早くお車の中へ」

 執事長の目配せで、メイドは優子を車に連れて行く。

「いや、私は……」

 優子が青紫の方へ振り向くと、青紫は警察に囲まれていた。このままでは青紫が誘拐犯にでもされてしまう。やはり自分も一緒に事情を説明した方がいい。

 それに……なぜだかは分からないが、この男と、離れたくなかった__。

 青紫の元に戻ろうとする優子。だが、その足は止まってしまう。

 妖怪に追いかけ回されたなんて、誰が信じてくれるだろうか。自分がそんなことを言えば、青紫がもっと疑われてしまう。

(私は無力だ)

 悔しさと悲しみが込み上げてくる中、優子は大人しく車に乗り込むしかなかった。

 優子を乗せると、車はすぐに発車してしまう。

 窓から外を見ると、青紫がこちらを見ていた。

 その表情は、やはり何を考えているのか分からなかった。

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