兄と弟
薄暗い廃墟の中、雨の音で優子は目を覚ました。
(ここは……どこ……?)
「……え?」
地べたに座らせられた優子は、手を後ろで組まされ、頑丈な鎖でパイプと繋げられていた。
「何これ……っ……」
解こうとするも、手首が痛むだけでまったく解けない。ひとまず落ち着かなければと、優子はゆっくりと大きく深呼吸した。
外は雨が降っているのか、ポタポタと雨が地面に落ちる音が聞こえる。
深呼吸を数回繰り返すと、冷静に状況を整理しはじめた。仕事から帰ってきた青紫を出迎え、庭園を散歩しようと誘われ、一人で先に庭園へと足を運んだ。そこで青紫を待っていて……それで、そこに美月が来た。
「……美月……」
「目が覚めた?」
薄暗い中から美月が姿を現す。
「美月……? ここはどこなの? どうして私は鎖で繋がれているの?」
美月は優子の前まで来ると足を止め、しゃがみ込んだ。
「僕が、優子を拉致したから」
「拉致……? 何のためにそんなこと」
「分からない?」
訝しげにする優子に、美月は両手を広げると散歩でもするかのように、楽しそうに辺りを歩き出す。
そして、足を止め優子を見る。
優子はゾクっとした。
美月は不気味な笑みを浮かべる。その瞳は、真っ黒だった。
「ここに兄さんを誘き出して、殺すためさ」
優子の中に恐怖と困惑が広がっていく。
「こっ、殺すって……どうして、あなたは青紫さんのことを」
「大好きだよ。でも、それと同じくらい憎くもある。兄さんは全てを持っている。お祖父様に愛されて、祓い屋としても優秀。陰で悪く言ってる一門の連中だって、本当は兄さんを尊敬している。何よりも……一番は、お前だよ」
「私……?」
「兄さんは僕と同じだった。誰も愛さず、誰の愛も受け取らない。そんな孤高の存在だった兄さんが、お前を愛したことで、妖怪に情けまでかけ弱くなった」
美月は懐からナイフを取り出す。尖ったナイフの先端が向けられ、優子は息を呑んだ。
頭では冷静にならないといけないと分かっていても、体は目に映ったナイフを見て命の危機を感じ、恐怖でガタガタと震え出してしまう。
「本当はすぐにでもこうするべきだったんだ。少し遅くなったけど、まだ間に合う。兄さんも一人じゃ寂しいだろうから、優子さんに一緒に死んでもらおうと思って」
怯える優子を宥めるように美月は優しく言う。
「大丈夫だよ、痛いのはほんの一瞬だから」
美月はゆっくりとした足取りで優子に近づくと、しゃがみ込み、首元にナイフをあてる。
このまま、喉を掻き切るつもりだ。
「や、やめて……」
優子が涙を浮かべ、そう乞うも、美月は不気味な笑みを浮かべ続けるだけ。
「あの世で、兄さんとお幸せに」
ぎゅっと目を瞑る優子。
涙が頬を伝った。
「青紫さん、愛してます」
そう言った次の瞬間__。
天井のガラスが大きな音を立て、割れた。
驚いた美月と優子が天井を見上げると、漆黒の翼を背にした青紫が、割れたガラスと舞い降りてくる。
青紫は異能で、鎖を溶け落とすと、目にも止まらぬ速さで優子を抱き抱え、美月から引き離す。
「来ると思ったよ兄さん。でも、少し驚いたな、そんな姿を優子さんに見せるなんて……」
「青紫さん……」
優子の呼びかけに、青紫は腕の中にいる優子を見下ろす。血のように真っ赤な左目の奥に宿る優しさに、優子は青紫なのだと実感し、青紫に抱きついた。
「怖かった……」
ここまで全速力で来てくれたのだろう。青紫は肩で息をし呼吸も荒い。その身体は雨に滴っている。
濡れた着物に顔をうずめ、その存在を確認するかのようにすがるように抱きつく優子に、青紫は囲い込むように優しく抱きしめる。
「ほんとイラつく……少しは気味悪がれよ……」
そんな二人に美月は苛立ち、ぼそっと呟く。
青紫の厳しい視線が美月に注ぐ。
「美月、なぜこんなことを。あなたは優子さんを慕っていたはずです」
「勘違いも甚だしいよ兄さん。僕はその女が大嫌いなんだ」
青紫は訳が分からず怪訝な顔をする。
「青紫さん、美月はあなたを殺そうとしています。ここから早く逃げましょう」
優子は焦ってそう言う。
「もう遅いよ」
廃墟の扉が音を立てて開く。入ってきたのは、中年の男だった。
「遅かったか?」
男は不敵な笑みを浮かべ、こちらに近づいてくる。
「いいえ、時間通りです」
美月は親しそうに男と言葉を交わす。
見覚えのある男に、優子は首を捻る。
(この人……どこかで)
そこで優子はハッとする。
「あの人、紅葉さんの夜会にいらしていた方です」
「夜会に……?」
あの時、優子を追いかけてきた、陰湿な祓い家の男だった。
優子を見て、男はニヤリと笑う。
「久しぶりだな。まさか、また会えるとは思わなかった。これも、黒羽のお坊ちゃまのおかげだな」
その意味深な発言に、青紫は目を細める。
「……どういう意味ですか」
「彼はお祖父様が探していた、あの未熟な祓い屋だよ。でも、未熟ってのは少し言い過ぎかな。妖力は強い方だし、そこそこ使える祓い屋だよ」
「嬉しいものだね。名門一族である、黒羽一門のお坊ちゃまに褒めてもらえるなんて」
男は皮肉な笑みを浮かべそう言う。
「グルだったのですか?」
青紫の核心をついた問いに、美月は笑みを浮かべず答える。
「そうだよ。始めから、全部、僕が仕組んだことさ」
(そんな……)
優子は愕然とした。
「でも、あれはテストだったんだ。兄さんが落ちぶれていないか。結果は最悪だったけど。……だから、当初の予定を決行することにした」
夜会にいた男は懐から赤い壺を出す。
その壺を見た瞬間、青紫の表情が怖ばった。
「それは……」
「この壺の中には、厄除けの妖怪が封じ込められている」
「厄除け……?」
「古来より、人間の厄を代わりに受け持ち、その厄を力として、生き長えられてきた。いわば、災いの塊です。そう言った壺があると耳にしたことはありましたが、まさか、本当に実在していたとは……」
そんな恐ろしい妖怪を、壺から出してしまうのは、まずいのでは。
「異能を持つ兄さんは、そこらの妖怪じゃ相手にならない。確実にその息の根を止めるには、こいつが必要だった」
言いながら、男の隣に立った美月は、壺を指で突く。
「だから、この男と手を組んだってわけ。
「俺はこの妖怪の封印は解けないし、協力すれば、一門にも入れてやるって言うからな、願ったり叶ったりさ」
美月は男から壺を受け取ると、あらかじめ用意していたのであろう、陣の中に立つ。
「やめなさい美月……!!」
焦った青紫が、声を荒げる。
「その妖怪を壺から出せば災が起きる。封印を解いたあなたも、無傷じゃいられない……!」
血相を変えた青紫が必死に止めるも、美月は虚な瞳で青紫を見る。
「……もう、何が正解か分からないよ」
美月は持っていたナイフで自分の腕を切ると、陣の中に血を落とし始める。
「美月……!!」
青紫の声など、耳に入らないのか、美月は迷う事なく片手を胸の前に構えると、呪文を唱え始める。
「__この血をもって、我が望みを聞き届けよ__!」
青紫は優子を隠すように、一歩前へ出る。
「優子さん、私の傍を離れないで」
青紫の切羽詰まった声に、優子は頷くと、青紫の傍に寄る。
強い風が吹いたかと思うと、目を開けていられないほどの眩しい光が放たれる。
「きゃあ……!」
「くっ……!」
青紫は優子を守るように覆い被さった。
「申し訳ありません、旦那様と奥様は外出中でして」
玄関先、多江は申し訳なさそうに、紅葉と薊に頭を下げた。
紅葉は隣立ってる薊と顔を見合わせた。
一緒にお茶でもしよう。そんな軽い気持ちで、二人の屋敷を訪れたが、まさかの青紫だけではなく、優子も留守にしていた。
来る途中、偶然会った薊も一緒に連れてきたが、二人のいどころに関して、薊も何も知らないようだった。
多江によると、二人は昨日から黒羽家の本家を訪れているらしいく、今日の夕方頃には帰ると優子から連絡があったが、まだ帰って来ていないという。
突如、稲妻が落ちたかのような邪悪な妖気を察知する。薊も同じ妖気を察知したのか、二人同時に、扉を開けた薊と紅葉は、空に見えた光景に目を疑った。
「おい……」
「ええ……とても嫌な感じだわ」
灰色の空、遠くから得体の知れない何かが、こちらに迫っている。
何かが起こっている。紅葉はそう思った。
薊と一旦、別れ、屋敷に戻った紅葉は、自室で支度を整えると足早に玄関へと向かっていた。
屋敷の中は邪悪な妖気のことで、一門が騒がしくしている。
「どこへ行く」
紅葉の父が進路を塞ぐように、紅葉の目の前に立つ。
紅葉は足を止めた。
「まさか、この邪悪な妖気を追おうとしているのではないだろうな。危険だ、やめろ」
「友人が自宅に戻っていないようなので、探しに行ってきます」
そう言うと、紅葉は父の横を通り過ぎる。
「友人とは、黒羽ではないだろうな」
足を止め、振り向く紅葉。
「ええ、そうです」
「あの見合いで、奴に何を言われたのか知らないが、お前は奴の肩を持ちすぎだ」
父の言う通り、自分は青紫を贔屓している。それは紅葉自身、自覚がある。
「私はただ、友人が心配なだけです」
自分自身を偽って生きてしまいそうになっていた自分を、青紫が背中を押してくれた。おかげで、紅葉は自分が正しいと思える道を選ぶ事ができた。
青紫に、ただ、恩返しのような事がしたいだけなのかも知れない。それに、いじっぱりで、頑固で可愛らしい、あの何かしたくなってしまう愛らしさのある青紫の妻が困っているのなら、助けてあげたいと思ったのだ。
「それに、黒羽が困っていれば、助けるのが同じ祓い屋の務めでは?」
「黒羽のことなど知ったことではない。黒羽が滅びれば、我ら漆原家が祓い屋のトップとなるのだ」
「お父様は、ご自分が何をおしゃっているのか、分かっていられるのですか?」
父が権力と実力主義者であることは変わらない。高貴な身分、純血。強いものは良い。弱いものは悪い。そんな父の考えは、昔から好かなかった。それでも、紅葉がこの漆原一門に居続けるのは、風早のためでもある。だが、理由はそれだけではない。幼い頃から本当の家族のように自分を大切に想い、傍で支えてくれた一門のみんなの元を離れがたかったからだ。
「無論、人々は助ける。お前も一門の者として、力を貸せ」
「人々のことは私も守ります。それが古くからこの地を治る私たちの勤め。ですが、私は私のやり方で守ります」
そう言うと、紅葉は歩き出す。
「紅葉……!!」
父は怒り叫ぶ。
「これ以上、勝手な真似をすれば、風早がどうなってもしらんぞ」
振り向いた紅葉は、怒りをあらわにする。
「そうやって私を脅せば、言いなりになるとでも思っているのですか? 私はもう子供じゃないの。自分のことは自分で決めるわ!」
「待て!」
紅葉を追いかける父親。肩を乱暴に掴むが、そこで唐突に強い風が吹く。
「風早……!」
風と共に現れた風早は、紅葉の肩に置かれた父の手を掴むと、鋭い瞳で睨みつける。
「貴様、頭首に向かってこんなことをしていいと思っているのか」
「我が主人はお前じゃない。言うことを聞く義理もなければ、俺の女に手を出すことも許さん」
風早は紅葉の目掛けて翼を羽ばたかせ風を吹かせると、紅葉を横抱きにして、雨が降る空に飛び立つ。
紅葉の父親は悔しそうに顔を顰めると、空を見上げた。
雨が降る中、風早は紅葉を抱え、空を飛び続けた。
頭首が追ってきては面倒だ。できるだけ遠くに行かなくては。
抱き抱えられた紅葉は険しい顔をしていた。
「そんな顔をしていると、シワが増えるぞ」
風早の言葉に、紅葉はムッとする。
「失礼ね、まだシワなんてないわよ」
「そうか。それは悪かった」
申し訳なさという感情がまったく込められていない風早の謝罪に、紅葉は呆れたような顔をすると、その眉間には、また皺が寄せられる。
初めて会った時も、ああやって、頭首と言い合いをしたのだろう。
険しい顔の紅葉を見て、風早は紅葉と出会った時のことを思い出していた。
紅葉と風早が出会ったのは、まだ紅葉が七つと幼い頃だった。風早が木の上でごろ寝をしていると、めそめそとした泣き声が聞こえていた。
下を見ると、そこには人間の子供がいた。
(なんだ、人間か……)
「うっ……っ…ううっ」
膝を抱え、めそめそと泣き続ける人間に子供に、昼寝を邪魔されて嫌気は差したが、ほっとけばそのうちにすぐにいなくなるだろうと思っていた。
だが、いつになってもその子供は泣き止まず、あまりにも泣いているものだから、つい、声をかけてしまった。
「おい、そこの人間」
風早は木の上に立つと、下にいる子供に向かってそう言う。
「うるさくて、昼寝に集中できん。泣くならどこか他の所に行って泣け」
(あっ……何をしているんだ俺は。人の子などに、俺の声が聞こえるはずもないのに)
風早の声に、その子供はゆっくりと顔を上げる。
緩やかな風が吹き、木の葉が二人の間を舞う。
子供は泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止むと、じっと風早を見つめた。
(この子供……妖怪である俺が見えている。……というか、なぜ、そんなにじっと俺を見る)
「ううっ……」
と思えば、顔をぐしゃりとさせ、また泣き始める。風早が怒ったせいでなのか、先ほどよりももっと大きな声で泣きはじめてしまった。
「え……」
そんな子供に慌てた風早は、木から飛び降りた。
「おい泣くなって」
隣に立った風早に、子供は抱きつき、声を上げて泣く続ける。
(なんでそんなに泣くんだよ……)
めんどくさい。そう思っても、自分の膝に縋り付くこの人間の子供を、突き放すことができなかった。
「……」
かがみ込んだ風早は、子供の背中に腕を回すと、ぎこちなくも、その小さな背中を撫でた。
人間とはおかしなものだ。
「もう泣くのはやめろ、お前は男なんだろ? 人間の男は泣かないんだろ?」
風早がそう言うと、めそめそと泣いていた子供が鼻を啜りながら、顔を上げる。
「紅葉、女の子だもん」
「髪が短いから、男かと思った」
「これは、お父さんがしろって言うから……長いと邪魔だし、か弱く見えるって」
「紅葉が男の子だったら、お父さんは、喜んでくれたのに……」
男とか女とか、そんなものはさほど大事なことではないだろうに。人間はなぜそんなことを気にするのか。
「お前が男でも女でも、髪が短くても長くても、俺は良いと思うけどな」
それから、嫌なことがあって泣きたくなると、紅葉は決まって風早の元へ来た。
人の子の成長は早いもので、何度か季節が巡ると、紅葉は少女へと成長し、あっという間に、大人になった。
そうして、いつしか風早と紅葉は、互いを大切に想うようになった。
「私の家、祓い屋を生業としているの」
木の上、隣に座る風早の肩に頭を寄りかからせていた紅葉はそう言った。
「ああ」
肩から頭を上げ、風早を見る紅葉。
「……もしかして、知ってたの? なんで聞かないのよ」
「別に、お前が祓い屋でも、俺にとっては重要なことでない」
「漆原一門」
「漆原……ああー、あの異能好きで有名な一門か。使役される妖怪の気が知れないな。俺は、自由を奪われるのはごめんだ」
「そうよね……」
紅葉は落ち込んだように黙る。
「でも」
風早は紅葉の腕を取り、自分に引き寄せる。
至近距離で見つめ合う二人。
「お前に使役されるなら、悪くないな」
そう言って、風早は不敵に笑った。
誰にも束縛されず、森で自由気ままに生きていた風早が、宿敵である祓い屋の式神になったのは、紅葉のため。紅葉と、ずっと一緒にいたかったから。
妖怪である自分が、人間と共に生きることを選んだ。その時から覚悟はできているつもりだ。だが、いざ何かを選択しなければいけないとなると、その覚悟が揺らいでしまう。
愛しているから、こそ……。
人間の肉体は弱く脆い。別れは、妖怪が思うより早く訪れる。
(こいつが居なくなることなんて、考えたくもないが……)
しばらく飛び続けると、風早は東屋の椅子に紅葉を下ろした。
「……ありがとう、風早」
紅葉は、静かに微笑み言う。
「濡れさせて悪かった」
そう言うと、紅葉の前にしゃがみ込んだ風早は、着物の袖で紅葉の頬を伝う雨を拭い取る。
「フフッ……あなたもね」
紅葉も自分の着物の袖で、風早の頬を伝う雨を拭い取ってあげた。
(俺はこうして、お前とのたわいもない時間が好きだ)
「黒羽の元へ行く気か」
「あなたも感じるでしょう、この邪悪な妖気。青紫さんたちが屋敷に戻らないことが偶然と思えない。きっと巻き込まれているんだわ」
紅葉の膝の上に置かれていた風早の両手が、
(分かっている。こいつは、紅葉はこういう奴だ。人一倍正義感が強い、だが無鉄砲な奴だ)
「九条さんが先に向かってる。私たちも早く行きましょう」
そう言うと、紅葉は腰を上げ、風邪も立ち上がる。
「それは危険だ。それに、黒羽の奴らを助ける義理なんてない」
「青紫さんたちのためだけじゃないわ。これは一門のみんなも危険に晒すのよ」
(そう言うと思った)
家族を大切にする紅葉の一面も、風早は理解している。
東屋を出ようとする紅葉。
「行くな紅葉」
風早が止めるも、紅葉は足を止めない。
「っ……」
風早は歯を食いしばると、紅葉の背中を追いかけた。
紅葉が東屋を出ると、後ろから力強い腕に抱き寄せられる。
「風早……?」
肩とお腹に回された両手。
「行くなっ……!!」
風早は無意識に抱擁を強めた。
初めて見た風早の必死な姿に、紅葉は驚いた。
「家を出て、俺と二人で生きよう」
「私に、一門を捨てろと言うの?」
顔だけ振り向かせる紅葉。その瞳には、小さな怒りが宿っている。
「一門は私の家族よ。家族を捨てることなんてできないわ」
風早は思った。もうこの際だから、自分の本心を言ってしまおう。
「っどうでもいい……!!」
強さを増す雨の音をかき消してしまうほどの腹の底から出た叫び声に、紅葉は更に驚いた。
「黒羽と漆原がどうなろうと、お前が頭首にならなかろうと、俺はお前がいればそれでいい。頼むから、行かないと言ってくれ……」
「風早……」
このまま、崩れ落ちてしまうかと思うほどの弱々しい風早の声に、紅葉はそれ以上、足を前に踏み出すことが出来なかった。
冷たい雨が、二人の頬を伝い続ける。
眩しい光がおさまり、目を開けた優子は、見えた光景に目を疑った。
(これが……妖怪……?)
長く巨大な黒い雲に、顔と思われる前頭部分には、弧を描いたような不気味な赤い唇に、三日月目が描かれた白い面をつけてる。
厄の妖怪の妖気で、辺りは漆黒の闇に包まれ、降り頻る雨すらも消し去る。
「っ……!」
(割れるように頭が痛い……)
凄まじい妖気に当てられ、優子は気を失いそうになる。
「優子さん!」
ふらつく優子を、青紫が支える。
(まずいな……優子さんをこのままここにいさせるのは危険だ)
結界も張れていない今、この妖気はどんどん広がっていっている。妖気はいずれ邪気へと変わり、それはやがて災いとなる。
災いが起きるのだけは、なんとしても食い止めなければならない。
「美月……!!」
美月は力を使い果たし、その場にばたりと倒れ込む。
「すごい……これが、厄の妖怪の力……」
男は厄の妖怪の力に魅了され、心を奪われてしまっている。
「おい、妖怪! お前の壺の封印を解いたのはこの俺だ! 俺にその力を分け与えろ!」
厄の妖怪は男を一瞥すると、男に向かって体から黒い煙を放つ。
男は厄の妖怪の妖気で一瞬にして気を失い、その場に倒れる。
「っ……うっ」
苦しむ優子。青紫はしゃがみ込み、優子の体を横に倒させる。
(どうすればいい、どうすれば……)
青紫が頭をフル回転させていたその時。
「青紫……!」
廃墟の扉が開き、薊が入ってくる。
「薊……? 薊! ここだ……!」
薊は闇の中を掻き分け、青紫の元に辿り着く。
「青紫! 無事か!?」
「私はなんとか。でも、優子さんが」
薊は青紫が支える優子を見ると、険しい表情をする。
「妖力が強い分、あてられたか。こいつは俺たちみたく、修行してねぇーからな。それより、なんでこんなことになった」
「……美月の仕業です」
「美月が……? なんで、どうして」
……気づいてやれなかった。
いや、本当は薄々、気づいていた。美月が闇を抱えていることに。だが、あの子ならきっと大丈夫だと青紫は思っていた。その過信が、今を招いてしまった。
「なんでもっとちゃんと、見てやらなかったんだろう……」
たった一人の、弟なのに……。
「青紫……」
自分を責める青紫の肩に、薊は片手を置く。
「今、紅葉が、紫苑に結界を張ってもらえるように、頼んでくれている」
青紫「……紅葉さんが?」
頷く薊。
紫苑が結界を張ってくれれば、もしこの妖気が邪気に変わったとしても防げる。災が起きるのも遅らせることができる。
「では、今のうちに、あの妖怪を壺に封じ込めることができれば」
「俺たちの勝ちだ。だがどうする……あんな妖怪、流石の俺たちでも手に負えないぞ。黒羽も漆原も、他のところに応援にいっちまってるし……」
この混乱の中、一門は戦力を上げ、帝都を守ろうとしている。祓い屋のように妖力のない一般人は、少しでもこの妖気に触れてしまえば命が危ない。
「私も……私にも、何かさせてください」
「優子さん……! 大丈夫ですか」
優子は青紫に支えられながら、ゆっくりと上体を起こす。
「私は、妖力が強い。また囮でもなんでもいいですから、私を使ってください」
優子の言葉に、青紫は心苦しそな顔をする。
「優子さんのような体質の方は、あの妖怪とは相性が悪いです」
多大なる妖力を持っている優子は、すぐに命の危険にさらされることはない。薊や優秀な一門の者も同じ。だが、人間である以上、もし邪気に触れて仕舞えば、命の危険が伴う。
「私が一人で片をつけます」
青紫のその言葉に、薊はハッとした顔をする。
「まさか……青紫、お前」
「どうしたんですか」
優子の問いに、薊の顔は険しくなる。
「こいつ、完全に妖怪化して、あの妖怪を一人でどうにかする気だ」
「えっ……」
優子が青紫を見ると、青紫は何も言わない。
「こいつは半妖だ、半分は人間の生のエネルギーで生きている。そんなこいつが、完全に妖怪化して異能を使ってしまえば、人間の姿に戻れなくなっちまうかもしれない。それに……」
「それに、なんですか」
間髪入れず問う優子に、薊は深刻そうな顔で言う。
「……命を、失うこともある」
薊の言葉に、優子は驚愕する。
「そんな……」
以前、誠一郎の屋敷で異能を使った時も、青紫はかなり辛そうにしていた。青紫が完全に妖怪化したとなれば、その力は最大限に発揮されることになり、厄の妖怪と戦うことができるのかもしれない。しかし、半妖である青紫が異能を使うことは、薊の言う通り、命を削っているのと同じこと。青紫だって、命の危険が伴う。
「あの妖怪と対等に戦えるのは、半妖である私だけです」
「何言ってるんですか」
優子は青紫の両腕に掴みかかる。
「死ぬかもしれないのですよ……?」
緊迫した優子に、青紫は笑みを浮かべ、優子を見る。
「私がどんな姿になっても、優子さんは、私を愛してくれるでしょう?」
「当たり前です!」
人間であろうが妖怪であろうが、手足がなくなろうとも、優子が青紫を愛することは変わらない。
「でも、死ぬなんてダメです……! 絶対にダメ……!!」
たとえそれが世界を救うことになったとしても、優子は否定する。青紫の命と引き換えにある世界など、優子には何の意味もないのだ。
(私のこの考えが悪だとしても、それでも……それでもいい。あなたが生きてくれるなら、この世界が滅んでしまってもかまわない)
青紫の両腕を掴む優子の手に、力がこもる。
「約束したではありませんか……二人で、生きていこうと」
青紫が優子にスカーフをプレゼントした日の夜。手を取り合い、幸せそうに、互いを見つめ合った夜、約束した。
青紫を失うことへの恐ろしさで、優子の腕はカタカタと震える。青紫は真摯な眼差しで、じっと優子を見つめると、静かに伝えはじめた。
「優子さん、私はね、愛するあなたを守れるなら、化け物になっても構わない。この命を捧げられる。あなたは私の世界そのもの。私の全てなんです」
優子は唇を噛み締め、涙を堪えながら青紫を見上げる。青紫はそんな優子に優しく微笑むと、そっと優子を抱き寄せる。
優子は青紫の着物を両手できつく握った。
凛とした瞳から、大粒の涙が溢れる。
しばらくの間、優子を抱きしめると、青紫は離れがたそうに優子から体を離す。
「薊、優子さんをお願いします。私はこのまま、あいつを外に引き摺り出す」
覚悟を決めている青紫に、薊も覚悟を決める。
「ああ、任せろ」
立ち上がった青紫は、優子の横を通り過ぎていく。一歩一歩、自分から離れてゆく青紫。その光景が、スローモーションのように見えた。
「青紫さん……!!」
涙を流し叫ぶ優子に、止まらず足を進める青紫。
胸が、引き裂かれる思いだ。
そんな青紫に、優子はたまらずと言った様子で、青紫を追いかけようとするが、薊に後ろから抱き止められ動けなくなる。
「嫌……! 青紫さん嫌! 死なないでっ……!!」
手を伸ばし、泣き叫ぶ優子。
青紫の周りを漆黒が包み込む。
青紫の体は全身黒い毛に覆われる。瞳の色は両方とも血のように赤くなり、口からは大きな牙が二本はみ出て、足は三本になる。
(あれが、青紫さんの妖怪化した姿……)
青紫の完全な妖怪化に、優子は薊に押さえつけられたまま魅入る。
漆黒の翼が青く光る。青紫は少しだけ顔を横に向かせ、その赤い瞳に優子の姿を映し出した。
そして厄の妖怪を咥えると、天井のガラスから空へと飛び立った。




