不運な養女
自分のことを心底不運だと思った。
前園優子は持っていた鞄を床に落とし、その光景を前に立ち尽くした。
男女がベッドの上でもつれ合うようにしている。女の方は見知らぬ者。男の方は、祝言をあげる約束をした、優子の婚約者である長沼誠一郎だ。
婚約者である誠一郎の屋敷に来たのは、ついさっきのこと。メイドに、誠一郎は寝室にいると言われ、部屋を訪れてみればこの有様。女に夢中になり、自分に気づかない婚約者に、優子は嘆くことなくただ静かに問う。
「これはどういうことですか」
優子の声に、女の唇を奪っていた誠一郎がビクッと肩を揺らす。動きをピタリと止め、恐る恐ると言った様子で首だけこちらに向けた誠一郎は、優子を見て顔を青ざめさせた。
「優子さん……! ど、どうしてここに……」
酷く焦りながらそう言い放つと、女から体を離す誠一郎。
「ご、誤解だ。彼女とは何もない。彼女はただの友人で、今日は家に遊びに来ていて……その……っ」
誠一郎は必死に弁解しようとするが、顔色ひとつ変えず自分を見る優子に黙ってしまう。
「そんな姿を見せられて、私が信じるとでも?」
「あっ……」
誠一郎ははだけている自分の着物を忙しなく直す。
誠一郎に下敷にされていた女は上体をお越し、優子から自分の顔を隠すようにして俯く。
女の頬は桃のようにピンク色に染まっている。優子に一部始終を見られ、羞恥しているようだ。
察するに、誠一郎がこの女に迫り、女もそれを受け入れたのだろう。
女は小柄で、瞳は丸く、小動物のように愛らしい。
(……ああ、やっぱり、私のような女では、満足できなかったんだわ)
「明日の祝言は取りやめに。この結婚もなかったことにしましょう。ご両親にも、そうお伝えください」
優子は淡々とそう言うと、背を向け寝室を出て行こうとする。
「ま、待ってくれ優子さん!」
後ろからドタンっと大きな音がする。優子が振り向くと、誠一郎がベットから落ちていた。
「っ……」
膝を打ったのか、誠一郎は苦痛そうにその場に蹲っている。
数分前までは、この男のこんな姿も、愛しく思ったのかもしれない。
「誠一郎さんっ」
鶯のように高く甘美な声で誠一郎の名を呼びベットから降りた女は、心配そうに誠一郎に寄り添う。
睦まじい二人の姿に、優子は胸を締め付けられたかのように息苦しかった。
部屋を出ると、優子は真っ直ぐに玄関に向かって歩いた。
ふと、奇妙な気配を感じ、足を止める。
「……」
(まただわ、この感じ。ここに来ると、いつも誰かに見られている気がする……)
ゆっくりと首だけ後ろに振り向かせる。だが、そこには誰もいない。
変な感じだ。
(……まさか。いや、そんなことないわよね。だったら、私に見えているはずだもの……)
屋敷を出た優子が車に乗り込もうとすると、屋敷の中から執事長が駆け寄って来た。
「お忘れ物でございます」
執事長から差し出されたのは、優子が持っていた蝶柄の鞄だった。
「あっ……」
(いつの間に……)
落としていたことにも気づかなかった。
蝶の着物には夫婦円満という意味がある。呉服屋の主人からそう聞き、着物と合わせこの鞄も買った。着物を着るのは今日が初めてだった。自分の門出を祝ってくれるであろう着物を誠一郎に見てほしくて着て来た。
夫婦円満、その願いは無意味に散ったが。
「……ありがとうございます」
お礼を言い鞄を受け取る優子に、執事長は控えめな笑みを浮かべ、会釈をして後ろに下がる。
ふと優子が視線を後ろに向けると、寝室まで案内してくれたメイドの女と目が合った。メイドの女はいつもの如く気に食わなさそうに優子を見ながら、隣にいるメイドとヒソヒソと話している。
「あんなところを見ても平然としていられるなんて、いくら美人でも、あれでは誠一郎様が可哀想よ」
「それにあの噂……」
もしかしたら、メイド女は、あの女性がいるのを分かっていて、自分を寝室に通したのかもしれない。
誠一郎の屋敷の使用人に好かれていないことは分かっていた。昔から愛想もなく、顔の表情が一つしかないと言われている。こんな女が嫁に来て、自分たちの女主人になるのは嫌だったのかもしれない。
人に良く思われないのはいつものこと。
優子は自分にそう言い聞かせ、車に乗り込んだ。
「行ってください」
優子の声に、運転手がハンドルを握る。車はゆっくりと動き出し、徐々に加速していく。
優子は深くため息をついた。家に帰れば待っているであろうことを思うと、気が重かった。
窓の外に目を向けると、黒髪の男がこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。男は黒い着物姿で、背には白い包みを背負っていて、片目は長い前髪で隠れている。
ここらではあまり見ない、珍しい風貌だ。そんなことだけを思い、優子は黒髪の男から視線を外し、外の景色を眺めた。
(忘れよう……。もう二度と、あの屋敷を訪れることもないのだから)
優子を乗せた車と黒髪の男がすれ違う。その瞬間、黒髪の男の視線が優子に向けられ、その足が止まる。しかし、二人の視線は絡むことなく、車は男の横を通り過ぎた。
遠ざかっていく優子が乗る車を黒髪の男は立ち止まり見ていた。
前園家は江戸時代に金融業で財を成し、帝から子爵の爵位を与えられた華族。現在は帝都にいくつもの銀行を経営するまでに成長を遂げた。
幼い頃に母を亡くした優子は、遠縁であるこの前園家へ養女として引き取られた。優雅な暮らしに、華やかな社交の場、側から見れば、優子は何不自由なく育ったお嬢様。だが、前園家は優子にとって、幸せな人生を送れる居場所ではなかった。
養父の新之助は、野心の強い男で、上にのし上がるためなら手段を選ばない。妻で養母にあたる小百合は、体裁をばかりを気にしてお金に目が眩む女だった。
優子は帝都でも騒がれる美しい容姿をしている。少し釣り上がった目に、神秘的な色素の薄い瞳。筋の通った小さく高い鼻に、肌は陶器のように白く滑らか。何よりも優子の美しさを際立たせていたのは、黄金色に輝く髪だ。
優子が前園家の養子になったのは、養父母に愛されているからではない。
__家のための道具。
美しい優子は、養父母にとって、さらなる儲け話に役立つモノだった。
「この親不孝もの!」
小百合は怒りあらわにそう叫ぶと、刺すような鋭い目で優子を睨んだ。
二人の前に正座をしていた優子は、部屋の一点を見つめ俯いた。
自宅に戻ってすぐ、優子は誠一郎の屋敷であったことを二人に話した。誠一郎の結婚が破談となったことを知った小百合は激怒。新之助は呆れてものも言えない様子だ。
深いため息をつく新之助。
「苦労して取り付けた婚姻だったというに……優子、お前は一体何がしたいのだ?」
優子はこれまで幾度も見合いをしてきたが、その全て断っていた。理由は単純だ。自分の容姿と家柄しか見ていない除け者しかいなかったから。勝手に縁談を断る優子に、小百合は皮肉を言ってきたが、新之助は人脈を広げられる良い機会だと、優子にお見合いをさせ続けた。そんな中、唯一、婚約した相手が誠一郎だった。
だが、結局、誠一郎も他の人と同じだった。
自分のことなど愛していない。
(私は誰にも愛されない……)
優子は深い孤独を感じた。
「お前も分かっているだろう。前園家にとって、長沼家がどれほど利益となる存在か」
誠一郎は貿易会社を経営する伯爵家の嫡男で、優子より四つ年上の二十二歳。家督こそまだ継いではいないものの、優子が見合いをしてきた中で、家柄、財力、地位、どれを取っても秀でていた。それに加え、長沼家は前園家が経営する銀行の大手取引先。優子が長沼家へ嫁ぐことは、事業のさらなる発展と前園家の繁栄を意味していた。
新之助はこの結婚にかけていたのだ。
「まったく……浮気ぐらい、目を瞑ればいいものを」
呆れたような小百合の物言いに、優子は俯けていた顔を上げ小百合を見る。
(浮気ぐらい……?)
「誠一郎さんが他の女性と関係を持っているのに、見てみないふりをしろというのですか?」
「そうよ」
小百合はさも当然のようにそう言った。
「だいたい、その程度のことを我慢できずにどうするのよ」
(我慢……? 裏切りを我慢しろというの?)
華族の男に愛人の一人や二人はつきもの。地位のある男とはそういうものだ。多くの華族の妻がそう思おうとも、一人の女性を愛せないような男と共に生きることは、優子にとって耐え難い苦痛だった。
何も言わずにじっと見てくる優子に、小百合は気に食わなさそうに目を細める。
「何よその目は。ほんと生意気な子。それにその髪……」
忌々しいものでも見るかのように、小百合は優子の髪に視線を移す。
「ほんと目障り。いっそ染めればいいものを。興味ありませんみたいな顔をしておいて、結局は男の視線を引きたいんでしょ?」
(別に好きでこの髪色で生まれてきたわけじゃない……)
嫌味ったらしい小百合に、優子は悔しさと怒りを感じ、我慢できなかった。
「それは小百合さんの方では?」
蔑んでくる小百合に、優子は冷静に言い返す。
「なっ……なんですって!?」
沸騰したやかんのように頬を赤く染め叫ぶ小百合に、優子は淡々と続ける。
「いつもお化粧をバッチリとされていて、特に男性の訪問がある際には、濃いかと」
優子の嫌味を含んだ物言いに、小百合の顔はみるみる赤くなっていく。
優子はさらに小百合に詰め寄る。
「私の髪も染めようと思えばいくらでもできたはず。そうさせなかったのも、私をより地位と財力のある男性と結婚させ、自分が優位に立ちたかったからでは?」
「っ……あなたね……!」
図星をつく優子に、腹を立てた小百合は立ち上がる。
「親に向かってなんて口の聞き方。誰かあなたをここまで育てたと思っているのよ!」
(あなたを親だと思ったことなんて、一度もない)
小百合は上部だけを取り繕う人間。外では気前の良い養母を演じ、一度屋敷に戻れば、冷ややかな視線を送り嘲笑う。
愛情なんてもの、欠片でももらったことはない。
優子と小百合の言い合いが聞くに耐えなかったのか、新之助が仲裁するかのように咳払いをする。
「……とにかく、この話は決定事項だ。優子、お前は誠一郎くんと結婚してもらう」
そう言うと、新之助は立ち上がる。
「今から謝りに行くぞ」
長沼家へ足を運ぼうとする新之助。だが優子は座ったまま動かない。
「__優子」
新之助の冷えついた声に、優子は身をすくめる。有無を言わせない冷酷な瞳に見下ろされている。
分かっている。この家で自分の意見が通ることはない。今までもずっとそうだった。何をするのも、どこへ行くのも、全て決められていた。自分は前園家の道具で、選択権はない。
結婚すれば自由の身になれるかもしれないと、期待した時もあった。だが、それは本物の自由ではない。かといって、家を出たところで一人で生きていく力などないし、二人に連れ戻されるのがおちだ。
全てを変えることはできないかもしれない。だからせめて、自分に嘘をつく生き方だけはしたくなかった。
優子は顔を上げると姿勢を正し、新之助を見上げる。
色素の薄い瞳が、花のように凛とし、新之助を見据える。
「私は、誠一郎さんとは結婚しません」
キッパリとそう告げると、優子は立ち上がり、小百合と新之助の前を通り過ぎる。
「待ちなさいっ……!」
引き止めるも聞く耳を持たず居間を出ようとする優子に、小百合は悔しそうに歯を食いしばる。
「っ……あんたみたいな気味の悪い女、誰が相手してくれるっていうのよ! 妖怪が見えるなんていう頭のおかしな女、誰も好きになりゃしないわ……!!」
_妖怪が見える。
その言葉に、優子の足は止まる。
(っ……そんなこと、私が一番分かってるわよ……)
優子は両手の拳を強く握りしめると、小百合に何かを言い返すことなく、静かにその場を立ち去る。
急足で屋敷の廊下を歩く優子。すれ違う使用人たちは事の事情を察したようにハッとした顔をすると、廊下の端に寄り、すれ違うまで優子に頭を下げ続ける。小百合との喧嘩で使用人たちには窮屈な思いをさせてしまって悪いとは思っている。だが、あんなことを言われて黙っているほど、優子は寛大にはなれない。
物心ついた時にはそれが見えていた。他の人には見えないそれは、妖怪と呼ばれるものの類だそうで、優子の頭を悩ませる元凶だった。
優子が妖怪という存在を認識したのは、前園家へやって来て少しした頃。新之助が当主となった祝いで行われたパーティーでのことだった。
「ねぇ、あそこにいるの誰?」
窓の外にいる女性と思われる存在が気になった優子は、小百合にそう問いかけた。
「え?」
優子が指差した先、誰もいないのを見て、小百合は首を傾げる。
「誰もいないわよ?」
「そこよ、そこにいるわ」
小百合は目を凝らし、窓の外をじっと見つめるが、その目には何も見えない。
「やっぱり誰もいないじゃない。嘘つかないの」
「嘘じゃないわ。長い髪をした女の人が、こっちをじっと見てる」
訝しげにする小百合の着物の袖を引き、優子は懸命にそう言うが、小百合は頭を抱えるだけ。
「はぁ……お願いだから、今日は私を困らせないで。前園家の者ならちゃんとしなさい」
「でも、本当にそこにいるんだもの……」
確かにそこにいる。だが、それは自分にしか見えないものだった。それからも、妖怪を見ては小百合や新之助、使用人たちにもその存在を伝えてきたが、誰の目にも見えず、信じてくれる者は誰一人としていなかった。
母親を失った幼い子供が大人の気を引きたくて嘘をついている。大人たちはそんな風にしか思わず、手のかかる子供だと、優子を煙たがるようになった。そのうち、優子が妖怪のことを口にすることはなくなかった。言っても誰にも信じてもらえない。理解してもらえない。その事実は子供だった優子にとって、深い傷を残すこととなった。
庭園には、強い日が差していた。優子は日傘をさし、庭園に足を踏み入れた。前園家専属の庭師が手間暇かけ世話をしているこの庭園は、優子にとって唯一、屋敷で落ち着ける場所だ。
「はぁ……」
優子は無意識に深いため息をついた。
養父母に罵られるのは慣れているが、傷つかないわけじゃない。特に、妖怪のことを口に出されると。
「ううっ……」
今にでも消え入りそうな、小さな唸り声のようなものが聞こえる。足元を見ると、袴を着た白ウサギがうつ伏せで地面に倒れていた。
(これは……あの妖怪ね)
少し前から、屋敷に住み着いている小さな妖怪がいる。この庭園を駆け回る姿を優子は度々目撃していた。
特に悪さをする様子もなかったから放っておいたが、この状況はどうしたものか。
ウサギの背には、風呂敷が背負われている。どうやら荷物が重く、運べなくなっているようだ。
「うううっ……くそっ、あともう少しだというのに……」
両手、両足に力を入れ立ち上がろうとしているが、中々立ち上がれないウサギ。日差しはどんどん強くなり、うさぎの体力を奪っていく。
相手は妖怪。厄介ごとに巻き込まれないうちにここを離れた方がいい。
優子はウサギから背を向け歩き出す。
ほっとけばいい。妖怪に関わっても、ろくなことがない。
見える人間が珍しいばかりに、面白がった妖怪に遊ばれ、追いかけられることはよくある。その度に怪我をして、小百合に怒られた。
(自ら厄介ごとに首を突っ込むなんて、ごめんだわ)
そう思うも、数歩進んだところで足が止まる。
「……」
顔だけ振り向かせると、ウサギは弱りながらも必死に体を動かし続けている。
(ああもう……!)
優子は踵を返すとしゃがみ込み、ウサギの頭上に日傘をさす。
日が遮られたことに気づいたウサギは顔を上げると、優子と目が合い叫ぶ。
「うわぁぁぁぁぁぁ……!! 人の子! 人の子だ……!!」
完全にパニックになっているウサギに、優子は風呂敷を指先で摘み上げる。
「あっ! おい! 何をする返せ! それは人の子などにあげるものではないぞ!」
立ち上がったウサギは怒りながらジャンプをしてそう言い、優子を威嚇する。
(なんだ、案外、元気なのね)
「失礼な妖怪ね、別に奪おうとしたわけじゃないわよ」
優子は摘み上げていた風呂敷をウサギの前に置く。
目の前に置かれた風呂敷に、ウサギはポカーンとした顔をする。
「あなたが野垂れ死そうになってたから、助けてあげたんじゃないの」
「ええい! うるさいうるさい! おいらは野垂れ死にそうになどなってないっ!」
(せっかく助けてあげたのに)
聞かん坊なウサギに、優子はやれやれと思う。
「お前、人の子のくせにおいらが見えるとは生意気な」
見たくて見ているわけじゃないが。それは言わないでおく。
「その荷物、重そうね。一体、何が入っているの?」
優子の問いに、うさぎは風呂敷を囲うように抱きしめる。
「これは森から集めてきた木の実だ」
森から集めてきたとは、また随分と遠くから。
ここから森までは車でも少なくとも一時間はかかる。それをこの小さな妖怪が歩いて取ってくるとは、かなりの距離になるはず。この暑さの中となれば、野垂れ死にそうになるわけだ。
(妖怪も大変なのね)
「ねぇ、ここに年中通して木の実があれば、あなたの暮らしは楽になれる?」
「ん? ああ……まぁそうだな」
「今度、他の木を植えられないか、庭師の方に聞いてみるわ」
そう言うと、優子は腰を上げ、屋敷の中へ入ろうとする。
「あっ! おい待て人の子!」
足を止めた優子は、顔だけ振り向かせて言う。
「私は優子。人の子という名前ではないわ」
「優子……優子、お前、良い奴だな」
ウサギは嬉しそうに笑いそう言う。その幼さを感じる無邪気な笑顔に、優子の中に、妖怪に対する初めての感情が芽生えた。
窓の外には、閑静な田舎が広がっている。
「あの……本当にここで降りられるのですか?」
物珍しそうに辺りをキョロキョロと見回す運転手。
「ええ、ここで降ります」
優子の返答に、運転手は車を降りようとする。
「あっ、大丈夫です。三十分ほどで戻りますから」
そう言うと、優子は自分でドアを開け、車を降りる。
外はどんよりとしていて、今にでも雨が降ってきそうな天気だ。
こんな気分には、ちょうどいい天気だ。
優子は持っていた布で髪を覆った。
髪を覆うのは、桜色のスカーフ。このスカーフは、優子の母の形見だ。外に出る時は、煩わしい視線を少しでも避けるために、こうして髪を隠している。それに、母の形見であるこのスカーフを傍に置いておくと、少しは安心できた。
木と草に囲まれた小道を歩く。
田舎は空気が新鮮で、人もほとんどおらず、心が落ち着く。
あれから、誠一郎が屋敷を訪ねてきた。
話がしたい。
誠一郎は強く懇願してきたそうだが、優子は会わないの一点張りだった。それがさらに小百合の怒りを勝ったようで、外出禁止を命じられた。誠一郎に裏切られたショックと、小百合からの罵倒の日々に、心身ともに疲れ切っていた優子は、どこに行く気力もなく、言われた通りしばらくの間、屋敷を出なかった。
(誠一郎さん、追って来てくれなかった……)
あの時、ベッドの上でもつれ合う二人を見て、早くあの場から立ち去りたいという思いはあった。だが、歩くスピードは至って普通、いや、いつもよりはゆっくりとした足取りであの屋敷を出た。使用人にも引き止められた。時間は十分にあったはず。それに、鞄を忘れていることに気づいたのは、きっと誠一郎だ。弁解の余地がなくとも、追いかける理由はあった。それなのに、誠一郎は追いかけてきてくれなかった。
それが、誠一郎の自分に対する想いのような気がした。
そこでふと、足を止めた。
道端で女がうずくまっていたのだ。
「どうかされましたか?」
優子は近寄り声をかけるも、女はうずくまったままで何も言わない。
「あの……ご体調でも悪いのですか?」
言いながら、優子は女の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「……ってる」
「え?」
シワのある口元で、女はぶつぶつ何かを言っているが、聞き取れず、優子は女の口元に耳を近づける。
「なんですか?」
「いいものを……持って……いる」
っと、次の瞬間。
「ぐっ……!」
立ち上がった女は、乱暴に優子の首を掴むと、そのまま体勢を崩し、優子に覆い被さり、優子は地面に押さえつけられる。
「こんな細い首、すぐにへし折ってやるわい……!!」
(妖怪……!!)
女の顔は泥のように溶け出し原型がなく、両目は真っ黒く穴が空いているかのようだ。
「っぐっ……っ!」
首を絞める力はどんどん強まり、優子は息が出来ず、足をジタバタとさせる。
(っ……このままでは殺される……!)
優子は必死に片手を伸ばし、地面の砂を掴み取ると、妖怪の顔に向かって投げる。
「グアアアアッ!」
妖怪は悶え、優子は立ち上がると一目散に走り出す。
「オノレェェ……コムスメ……マテェェ……!!」
逆上した妖怪が、烈火の勢いで優子を追ってくる。運転手に助けを求めようと、車が待機している方向に逃げるも、足を止めた。
(ダメだ……巻き込んでしまう)
人の話し声がする。見ると、若い男女がこちらに向かって歩いて来ていた。
どこか人のいないところに行かなくては。
辺りを見回すと、人気のない生い茂った道を見つけ、優子は両手で草をかき分けながら進んだ。茂みを抜けると、そこには石階段があった。
(あんなところに石階段なんて、あったかしら……?)
石階段は霧に包まれ、不気味な雰囲気を漂わせている。
この先に進んだら、この世でないどこかに消えてしまいそうだ。
「マテェェ……マテェェ……」
声がして後ろを振り向くと、妖怪がすぐそこまで来ていた。
躊躇っている暇はない。
優子は両手で着物の裾を広げるようにして持ち上げると、石階段に片足を乗せた。
その瞬間、どこからともなく冷たい風が、優子の頬を撫でた。氷のような冷たさとは裏腹に、優しく撫でるかのような風に温かさを感じ、優子は息を呑んだ。
それはまるで、自分のことを待ち望んだ誰かが、迎え入れてくれているかのようだった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
息を切らしながら、必死に石階段を上がる。疲れから足はおぼつき、霧は徐々に濃くなり、視界が悪くなる。
あの妖怪はどうしてここまでして自分を追うのか。それに、いいものを持っているとは、一体、何のことを言って……。
「あっ……!」
階段を踏み外し、顔から前に倒れ込んでしまう。
額から刺すような痛みを感じ、顔を歪める。
片手で額に触れると、ペチャっと何かがついた。
血だ。
石で額を切ってしまったようだ。血は頬を通り、顎まで伝う。
「くっ……」
優子は歯を食いしばると、自分を奮い立たせる。
(立つのよ……ここで諦めてはダメ)
立ち上がり、おぼつかない足を引きずり、一歩一歩、石階段を上がる。
なんとか上まで辿りつくと、そこは静寂に包まれ、朝か夜かも分からない、不思議な空間が広がっていた。
どこかに身を隠せる場所はないか。そう思い辺りを見回すも、霧が濃くてよく見えない。
「ヨコ、セ……ヨコ、セ……ソレヲヨコセ……」
霧の中、すぐ後ろから、妖怪の声が聞こえる。
もう追いつかれてしまった。
必死に足を動かすも、上手く歩けない。身体はすでに限界に達している。
引きずっていた足が絡まり合い、優子はその場に崩れるように横倒しになる。
「ツカマエタ」
妖怪はすかさず優子に襲いかかる。
(もう、ダメだ……食われる……)
諦めかけた、その時だった。
空から、漆黒の翼を羽ばたかせた、黒い何かが舞い降りてくる。優子は途絶えそうになる意識の中、朧げな視界で空を見上げ、霧をかき分け舞い降りてくるその様を見ていた。
(……妖怪? いや、人……?)
地に舞い降りた黒い何かは、優子の華奢な肩を掴むと引き寄せる。そして、守るように優子を包み込んだ。
「オ、オマエハ……!!」
黒い何かを見て、大きく気を動転させる妖怪。
「__去れ」
気高い声が聞こえたかと思うと、目を開けていられないほどの眩しい青い光が放たれ、優子は咄嗟に目を瞑った。
「ギャアァァァァァ__!!」
妖怪の苦痛な叫び声が響き渡る。
「……逃げたか。まぁいい」
黒い何かはそう呟くと、腕に抱いていた優子を見る。
優子は気を失っていた。
「……」
力なく目を閉じる優子を数秒見つめると、黒い何かは優子の膝裏に両手を差し込み、そっと抱き上げる。そして、そのまま優子を連れ、深い森の奥へと消えた。




