番外編 エレノア
私は、ずっとこの屋敷にいる。
時間というものが、どこかで止まってしまったような感覚のまま。
昼も夜も、季節も曖昧で、ただ“待つ”という行為だけが、私をここに繋ぎ止めていた。
主人が出ていった、あの日から。
♦︎
この屋敷は広い。
二階建てで、部屋数も多く、廊下は無駄に長い。
かつては使用人もいて、笑い声もあった。
私はその一人で、主人に仕えるメイドだった。
主人は、穏やかな人だった。
声を荒げることもなく、いつも「ありがとう」と言ってくれた。
――だから、待つことにした。
きっと戻ってくる。
仕事が忙しいだけ。
そう思い続けて。
いつしか、外から人の気配がするようになった。
この屋敷を“物件”として見る人間たち。
私は拒んだ。
近づく者には、心を削る霧を。
恐怖と不安を、そっと囁くように送り続けた。
「ここは危ない」
「住んではいけない」
気づけば、それが私の役目になっていた。
♦︎
そんなある日。
久しぶりに、はっきりとした足音が聞こえた。
しかも三人分――いや、四人。
嫌な予感がした。
いつもなら、すぐに逃げ出すのに。
私は、いつも通り“それ”を放った。
精神を侵す波。
恐怖と違和感を混ぜた、拒絶の意思。
ひとり。
またひとり。
三人の精神が、簡単に揺らぐのがわかった。
……だが。
一人だけ、まったく揺れない存在があった。
(……?)
何度、力を込めても、そこだけ“空白”のまま。
心が、ない?
いいえ、違う。
あまりにも薄い。
水面に落とした石が、そのまま底まで沈んでいくような感覚。
私は、混乱した。
♦︎
やがて、その人物が声を発した。
「……いるんだろ?」
誰もいない空間に、話しかける。
それは“賭け”のような行為だったはずなのに、彼の声は迷っていなかった。
私は、腹が立った。
拒絶も、恐怖も通じない。
それなのに、怯えもしない。
――だから、姿を現した。
メイド服の裾を整え、静かに階段を降りる。
彼は、私を見て、驚きながらも目を逸らさなかった。
(……この人、怖がらないのね)
♦︎
話をした。
久しぶりに、誰かと“言葉”を交わした。
主人を待っていること。
屋敷を守っている理由。
誰にも奪わせたくなかったこと。
そして――
彼が、淡々と事実を告げた。
「……その人、もう亡くなってる」
最初は、意味がわからなかった。
「……え?」
声が、かすれる。
亡くなっている?
それは、戻ってこないという意味?
頭の中で、何かが崩れる音がした。
私は、ただ立ち尽くした。
守ってきた理由が、音を立てて消えていく。
長い時間が、急に押し寄せてきた。
(……私は、何を……)
♦︎
気づけば、涙が流れていた。
幽霊なのに。
もう体もないのに。
胸が、痛かった。
隣で、二人の少女が泣いていた。
私の話を聞いて、泣いてくれていた。
「ひとりで、ずっと守ってたんだよね……」
「それ、しんどかったやろ……」
その言葉が、温かかった。
初めて、私は思った。
――もう、待たなくていいのかもしれない、と。
♦︎
「……もう、守る理由はないわ」
そう言った瞬間、体が軽くなった。
消える準備が、整ってしまったのがわかった。
それなのに。
「待って!!」
「成仏とか、まだ早いやろ!!」
二人が、必死に止めてくれた。
「一緒に住もう」
「今度は、みんなで守ればいいじゃない」
……そんな未来、考えたこともなかった。
生きていた頃にも、死んでからも。
♦︎
その日から、私はこの屋敷で“住人”になった。
守るためではなく、
一緒に暮らすために。
メイド服を新しく買ってもらい、
物を動かし、掃除をし、食卓を整える。
彼が、私を見て一瞬固まったのを、私は見逃さなかった。
それを見て怒るミカリさんと、笑うニアさん。
騒がしくて、温かい。
こんな日々が来るなんて、思わなかった。
♦︎
夜。
屋敷の窓から、月を見上げる。
私はもう、待っていない。
代わりに、
ここに「居場所」がある。
――主人。
あなたがくれたこの屋敷は、
今、とても賑やかです。
だから、どうか安心して。
私は、ここで生きています。
幽霊だけれど。




