入学式と密室
始業式
1
ホームドアは無いし電車は一時間に一本。閑散とした駅のホームと年季の入った広告のない看板。メッキは少し剥がれている。スクールバックを提げてまだ足に馴染んでいない新品のローファーの、その踵で地面をトントンと小突く。一つ大きく深呼吸。
電車がフォンと警笛を鳴らして風を切りながら近づいてくる。徐々に減速。そして、停止。アナウンスと共に開くプラグドア。頬を叩き自分に気合を入れて、
「よし、今度こそ上手くやるんだ! 頑張れ、私!」
車窓からの景色は田んぼ、畦道、そして田んぼ。たまに薄汚れた軽トラ。視線を上げると生い茂る山々、その手前には鉄塔から延びた黒い電線。
窓に反射する自分を眺めて口角を上げ下げ。うん。ばっちり。凄く自然な笑顔。
何回経験しても、転校初日はドキドキする。笑顔も所作もぎこちなくなってしまう。だけれども一番肝心なのは最初だし、笑顔は最高のコミュニケーションツールなのだ。『やさしいどうとく・一ねん生』にだってそう書いてあるので間違いない。
「……もしかして、あなたが噂の転校生?」
窓からがらんとした車内へ振り返ると、同じ制服の女子高生の姿。彼女は単語帳を膝に乗せてちょこんと一人、ポニーテールを揺らしている。私の無言を肯定と受け取ったのだろう。柔らかい眼差しを向けながら、
「やっぱり。この電車で見かけない顔だし、入学式は明後日のはずだから」
この車両には私と彼女しか乗車していない。ここら辺の大人は皆、当たり前に一人一台、もしくはそれ以上に車を所有している訳で電車を必要としない。
「私は美作ミカ。同じクラスのはずだから一年間よろしくね。あなたの名前は?」
声が裏返らないように、ううん、と一つ咳払いを挟んで、
「仲真あずさです! よろしくお願いします!」
私はぺこりと頭を下げた。それから美作さんの向かいの座席に腰を下ろして、
「前の学校、スニーカー登校だったの。ローファーって歩きにくいし足痛いしでヤバいね」
昨晩、必死こいて練った他愛の無い切り出し文句。
「一週間ぐらい絆創膏貼っておくといいよ。スニーカーってこの辺りでは聞かないけれど、転校前はどこに住んでいたの?」
「東京の高校。ここら辺は静かで過ごしやすいなって。電車も空いているし」
美作さんは目をちょっとだけ大きく開けて、
「凄い。シティーガールだ。確かにどことなく垢抜けているもんなあ」
私は手刀を横に振りながら、
「全くだよ。こんな感じで都落ちな訳だしさ」
「あはは。それで? どうして転校してきたの?」
この質問は想定済み。きっと誰かに訊かれるだろうと思っていた。
そしてやっぱり昨晩、必死こいて嘘を練っておいた。正直に答える気はない。
「うーんとね、一人暮らしのおばあちゃんが足腰悪くしちゃって。両親は仕事だしお兄ちゃんも社会人で東京を離れられなくてさ」
「受験生なのに大変だ。それでこんな田舎に?」
「それと前の学校の担任の先生に勧められたの。洋学院高校は推薦が豊富だし、なによりも私の気質にも合っていると思うって」
一人暮らしのおばあちゃんは作り話だけれど、この高校を勧められたのは本当だった。私の認識では当たり障りのない受け答えをしたはずなのに、美作さんの表情はにわかに凍り付いた。
「その先生って何期生の卒業生?」
彼女の声のトーンが変わった。何期生……そんなこと言われても私は今年が創立何年度なのかさえ存じない。予想外の質問と剣呑な面持ちに当惑しつつも、
「えっと、確か、ちょうど三十歳だったかな」
「十二年前ってことは八十年度か。第一次の年じゃないの。なのに、うちを勧めるって」
十二年前が八十年度……今年は九十一年度なのか。だからどうしたって気がするのだけれど。
「ねえ、美作さん? 私、何か不味いこと言っちゃった?」
彼女は私の声に反応して顔を上げて、
「あっごめん、ちょっと考え事しちゃっていて。自分の世界に入っちゃった」
そう言って、再び黙る。私は内心オロオロが止まらない。どこかでしくじってしまったのだろうか。彼女の気分を害してしまったのだろうか。
「今からの話は全くの本当なんだけれど」
美作さんはおもむろに口を開く。
「うん。始業式前に出会えてよかった。事情も知らないとびっくりしちゃうと思うから」
と、前置きを付ける。
「洋学院高校はね、現在西生徒会と東生徒会に分かれて一応の内戦状態なんだ。西側のクラスは校庭や化学室が使用不可だったり、反対に東側のクラスは体育館や図書館が利用不可だったり……あ、でも体育祭は皆で仲良く校庭でやるし、部活動にも支障はないよ? 別に本当に喧嘩している訳じゃなくて、ただの負の遺産だから」
「ほうほう?」
普通に反応に困った。……内戦? 私、何か試されている?
「冷たい戦争みたいだね。何て言うか、随分と大変そう」
「そこは大丈夫。文系は西側で理系は東側だから。理系が理科室使わない訳にいかないし。もちろん、ほとんどの生徒が下らないって思っているんだけどね。これがまたややこしくて」
肩に手を置いて美作さんは首をコキっと鳴らす。
「うちの学校、指定校推薦の条件が生徒会に属していることなんだよね。だけれど推薦の枠は勝手に増やせないでしょ? 推薦の権利を持つ生徒会の人数を減らすしかなくなっちゃうんだ」
「うん。……うん?」
「そこで各陣営の定期テストの平均点、体育祭や文化祭など全ての取り組みを総合して決まるの。二学期の終了時点で平均ポイントが高かった方の陣営が推薦の権利を全取りって決まりでね。下らないと思いながらも皆、不承不承に現在の形に従っているの……と言っても分裂したのは去年なんだけれどさ」
平均ポイントっていうのはつまり、内申みたいなものだろうか。そんで負けた陣営の生徒会役員は一切の推薦の権利を剥奪される?
「ちょっといい? もし理系の東生徒会が勝ったら、文学部の推薦どうなるの? 文系の学部は誰もいけなくなっちゃわない?」
「理系の誰かが行くんだよ。確かに文学部卒の年収平均なんて酷そうだけれど、良い大学出ていて損はないから。推薦捨てるのはもったいないし一般受験より確実だし堅実だもの」
洋学院高校はこの県で一番の進学校だし有名大学の推薦も多いとは聞いている。美作さんの話が本当なら、実体はとんでもないけれど。
「そうだ。これお近づきの印に。多分、というより絶対持ち歩いていないでしょ?」
彼女がスクールバッグから取り出したのは、トイレットペーパーだった。
「トイレットペーパーって……町内会のくじでハズレ引いたの?」
「トイレットペーパーは購買で有料だし未設置なの。しかも全部和式トイレだし。もう少し言うとおたまと桶だけ備わっている」
「ケツ拭けないじゃん。東南アジアの激安ホテルかよ」
「ティッシュやハンカチ流すと、トイレ詰まっちゃうから気を付けてね。後、人前でトイレットペーパー持ち歩いちゃだめだよ? トイレ行く時に必要な分だけ千切るの。そうしないとすぐに盗まれちゃう」
もしかしてこれは笑うところなのだろうか、とか逡巡を巡らせていると美作さんが新品のロールを投げて渡してきた。見事にキャッチしてみせる。
「ありがとう。大切に使うね」
もしかして……いやもしかせずとも、私はとんでもない高校に転入したのかもしれない。
2
最寄り駅に近づくにつれて生徒の数も増えだした。そして内苑前駅から徒歩五分。錆びついた商店街のアーケード抜けると、私立洋学院高等学校が堂々と立ち現れる。創立が古い割に随分と綺麗な外見。そこにまず、目が惹かれた。
校門をくぐると何本もの綺麗な桜が、薄いピンクを地面にまき散らしている。その奥には校舎、さらにその奥にはゴムチップ舗装のグラウンド。朝練習の部活動の掛け声が聞こえてくる。
「大きな学校だなあ。こんなに広いと校内で迷子になっちゃいそう」
私が目を丸くしながらそう言うと、
「まあ、阿呆な内戦ごっこのせいで設備の全ては使えないんだけどね」
美作さんは、ため息交じりに肩をすくめる。
「やっぱり田舎は、無駄に土地だけはあるんだね。東京だったら校舎はもっと縦に高いもん」
「そう言えば仲真さんの他にも、もう一人転校生がいるみたいだよ。しかも同じクラス」
「詳しいんだね。よく田舎は情報の出回りも早……」
「それは関係ないかな。うちの学校ぐらいだよ。転校生二人が同じクラスなのは先生方の配慮みたい。田舎とか関係なくさ、一般的に既にできあがっているコミュニティーには入って行きにくいよねってことなんだと思う!」
言葉を遮るように早口で捲し立ててきた。彼女が一息に言い終える間に、私は下駄箱で上履きに履き替える。もちろん新品だ。美作さんはまだ何か言いたそうだけれど私が機先を制した。
「ねえ、この暗証番号ってどうやって設定するの?」
履き替えたまではよいものの下駄箱のロックの掛け方が分からない。四桁の暗証番号とつまみ。初期設定で0000のために開けるのには困らなかったのだけれど、ここで手詰まった。
「解除の状態で好きな数字に設定して、ロック。それから、数字を適当に動かすんだ」
声は背中側から聞こえて来た。
「あんたがもう一人の転校生だろ? 意外とオーソドックスだけれど、初めてだと困惑するよな。アタシも悪戦苦闘したよ」
黒髪を肩まで伸ばした背の高い女の子。ちらりと制服の、その袖からは包帯が見えた。三角巾やギプスは付けていないので怪我という訳ではなさそうだけれど。
「ほら、さっき話したもう一人の転校生」
美作さんがぼそっと耳うち。この子がそうなのか。
「どうして腕に包帯巻いているの? 邪神とか厨二病的なあれ?」
「仲真さん! 尋ね方!」
後頭部を軽く叩かれた。……いや、軽くない。ちょっと痛い。
叩かれる私を見て微苦笑を浮かべながらも、彼女は飄々と答えてくれた。
「これは賭けに負けたみたいだ。私の推しが負けて友達の推しがレースで勝ってしまってな。約束通り、友達の推しのタトゥーを入れたらしい。学校には内緒にしてくれよ?」
みたい? らしい? 二重人格なのかな?
美作さんの注意のお陰で、迂闊な発言は他人を傷つける恐れがあるため、控えるべき(『やさしいどうとく・一ねん生』、30頁、「こーちゃんのけんか」より)って思いだせたので今度は言葉を飲み込む。少し気が緩んでいたのかもしれない。美作さんの叩くという暴力行為は、恐らく禁止の共通項をもっているためのアクションだろう。
成り行きで三人、横一列で教室に向かう。三年五組は三階の左端。
階段を上がって二階、真正面に職員室が見えてくる。洋学院の校舎は三階が三年、四階が二年、五階が一年という構造のようだ。その道のりで彼女は自身のことを教えてくれた。
「アタシは記憶喪失でね。知識とか一般常識は分かるのだけれど、自分にまつわる過去の経験は思い出せないんだ。小中のアルバムを見返しても他人の思い出の気がして」
美作さんは口に手を当てながら、質問をする。
「うわあ。お気の毒というかご愁傷様です。立ち入ったことだけれどそれで転校を?」
「一方的に知られているなんて気まずいだけだからな。まあ、去年の暮れに記憶を失ってそこから不登校だったし、その間に誰も会いに来てくれなかったし。もしかしたら転校したことに清々されているのかもな」
教室に到着。黒板に張り出されている座席表を基に着席。背もたれのないタイプの椅子にちょっと驚く。居眠り対策なのかな。
包帯の彼女は西野茜という名前のようだ。席は男女混合で名前の順。仲真と西野で私達は前と後ろだった。
「なあ、あずさ。アタシ達どっかで会ったことあるっけ?」
座るや否や、頭の後ろで手を組みながら彼女はそんなことを尋ねてきた。ファーストネーム呼びにドキッとして私はぎこちなく首を傾げる。
「いや、私は東京に住んでいたから会ったことも無いと思うよ。袖触れ合うも他生の縁みたくすれ違ったことぐらいはあるかもだけれど」
声が若干、上ずるのが自分でも分かった。
「まあ、そうだよな。すまん、変なことを聞いちまった」
西野さんは眉を寄せて唇をすぼめる。
「……そんなことより、ねえ、あ、茜?」
ファーストネーム呼び。口にした直後、ああ、しくじったかもと思った。これはあの何度も言われた、「お前なんかが図々しい」の範疇かも。
「私も西野さんのことを下の名前で呼んでもいい? 茜って」
「どうして許可をとる必要があるんだよ? 勝手に呼べばいいじゃねえか」
西野さんはきょとんとした表情をみせて、さも当たり前って風に言う。
「……そ、そうだよね、あはは」
私には分からない。その表情が、その言葉がどちらなのか。本当に許可してくれたのか、それとも「あの状況で断れる訳ないじゃないの!」の本当は未許可で許可のフリなのか。
「ええと、西野さんは……記憶喪失前に似た状況を経験していたんじゃないかな? 前の学校でも前の席に転校生がやって来たとか。そういうデジャビュみたいな」
目を伏せて俯きがちに呟く。これは、今日も一人で反省会コースかな。
「茜でいいって。遠慮するなよ気持ち悪い」
一拍おいて、彼女は真顔になる。
「まあいいや。アタシの考察なのだが、これはデジャビュじゃないし出会ったのも初めてじゃない。既に出会っているのさ」
顔を上げてまじまじともう一度眺めるもどうしても見覚えがない。つまり西野さんは私の過去を知らない……はずなのだが。
「このクラスの誰かが世界を何度もループさせているんだ。それも一回や二回ではない。何億回、何兆回って回数だ。その影響でアタシは既視感を覚え始めてしまったんだ」
真剣な眼差しのまま、こいつはさらに言い募る。
「目的は……そうだな。テロリストが襲撃してアタシ達は何度も殺されている。その結末を変えるため? はたまた、好きな異性が自分の思い通りにならなくて無意識のうちにループさせている? アニメだったら八話くらい尺を使っているとみた」
ふっと言い終えて、彼女はどこか満足そうな笑みを浮かべた。
肩の力が抜けて私もニコっと自然に笑う。多分、今日一自然な笑みを浮かべられた。
「茜って気持ちの悪い人間なんだね。前の学校の人達は今頃、清々しているんじゃないかな?」
茜は腕を前に組み直して泰然と、謎に頷く仕草を見せて、
「なあ、そこは遠慮してくれても良かったんだぞ?」
ちょっとだけ悲しそうに聞こえるトーンでそう呟いた。
少し経って教室の扉が引かれた。中肉中背、猫背で眼鏡の男性教師が入って来る。
「おい、チャイム鳴ってんぞー。全員席に着けー。学級委員、号令」
クラスメイト達が席に着くのを確認する前に、号令の指示まで下す。
「起立。気を付け。礼」
全員まばらに「お願いします」とか「おざーす」とか「しゃーす」とか挨拶をして、ばたばたと着席をする。先生の方も態度を咎める様子はない。
「二年からクラス替えはないし、ほとんどの奴は俺のこと、ご存じのはずだけど転校生もいるから軽く自己紹介な」
彼は眼鏡の位置を調整し教卓に手をついて、
「このクラスの担任の岡崎だ。担当は現代文。受験を控えて大変な一年だろうけれど健康にだけは気を付けていこう。ちなみに俺はこの間、たばこを吸っていたら呂律が回らなくなりました。医者には怖くて行っていません」
クラスに笑いが湧くと少し照れくさそうに、
「はい。じゃあ二十分後の始業式に遅れないように。吹奏楽部と放送部は準備があるんだから朝の会が終わったらすぐに向かってくれ。それじゃあ号令……」
「先生、例の募金の話、忘れています」
手を挙げたのは学級委員だった。岡崎先生はいけないって風にハンズをクラップして、
「そうだ。失念していた。ニュースで観た者もいるだろうが、毎年海外研修でお世話になっている某国にて大規模な山火事が起こったそうだ。そこで本校でも募金を募って復興支援の寄付をする。袋を教卓に置いておくから各自勝手に入れておいてくれ。後で取りに来る」
言葉を残して先生は教室を出て行った。今度は号令を忘れたようだが、とにかく朝の会は終了しバラバラに動き始める。朝練の部活の道具をベランダに置きに行ったり、トイレに連なって行ったりと実に様々。
私はおもむろに財布から五百円玉を取り出す。令和の新五百円玉。朝、自動販売機でお茶が買えなかった。田舎の自販機にはまだ未対応らしい。席を立つと裾を茜に捕まれた。ついでに入れてきてくれと頼まれ五百円を渡されて、合わせて千円。
また、茜はトイレに行くと言うのでスクールバッグの中のトイレットペーパーを千切って渡してあげた。彼女は怪訝そうに、
「どういうこと? 何でトイレットペーパー持ち歩いているんだよ?」
その疑問に答えたのは、いつのまにか近くにいた美作さん。
「この学校では何度も暴動が起こっているの。生徒会の分裂も元を辿れば第三次のトイレ騒動だし、トイレットペーパーの撤去は第二次トイレ騒動の際の、当時の校長の報復措置の名残。その時にトイレットペ―パーを購買で販売って形式にしちゃったせいで本校ではトイレットペーパーは持ち歩かないといけないんだ。因みに購買での利益はちゃっかりと全て、学校に入るようになっているよ」
「……全く話が入ってこないんだけれど。トイレ騒動? てか、生徒会の分裂って?」
「この学校は西生徒会と東生徒会に分かれて内戦中なんだよ。惰性で続いているだけだし本当にいがみ合っている訳じゃないんだけどさ。互いに正当性を主張し合っていて私達は西側に所属しているの。まあ、詳しいことは今度教えるよ」
美作さんは生徒会の役員なのと同時に、歴史部の部長でもあるらしい。
「分裂って室町の南北朝時代じゃないんだから」
口をぽかんと開けつつ、茜は私からトイレットペーパーを受け取った。
「あ、あと本校は全部和式トイレなのに注意してね。第一次トイレ騒動発端の原因は洋式トイレの設置を求める所から始まったんだけど、未だに和式だから」
「ウォッシュレットの代わりにおたまと桶が置かれているらしいよ。神社の手水舎で見かけるやつ。さっき美作さんに教えて貰ったんだ」
「一体、誰が喜ぶんだよ。そのウォッシュレット」
気が重そうな茜が教室を出ていくのを尻目に、
「そういえば手紙? みたいなものが机に入っているよ。仲真さんの私物かとも思ったんだけど、今日は始業式だから違うかとも思ったので一応……」
遠慮がちに机の中を指さす。指摘を受けて覗くと女子の丸文字で宛先の書かれた便箋。送り主の名前の記載はない。
「……あー全然関係ないんだけどさ、二年からクラス替えって行われないんだっけ?」
「二年で文系と理系に分かれるからね。クラス数も少ないし」
一、二組が理系で三、四、五組が文系。文系の方が一クラス多いそうだ。
「つまり転校生の私達二人がいなければ、名前の順的にこの席は沼田君だったんだ」
「もうクラスメイトの名前覚えたんだ。そうだね。放送部の沼田君だった訳だね」
手紙の宛先も沼田君。なるほど。本来は彼に宛てた便箋だったのか。
「美作さんのご指摘通り、これ私の私物。机の中にしまっていたのを忘れていた」
誤魔化して、私は机の中の便箋をポケットにしまい込んだ。
3
体育館は目と鼻の先だ。五組の教室から渡り廊下をまっすぐ進むと体育館の二階に(教室は三階だけれど体育館だと二階になる。一階のバスケゴールの位置が高いからだ)到着する。
名前の順に列をなして体育館に。ひんやりとしたフローリングに体育座りをする。
「ごめん。仲真さんから後ろの人、全員立って。トイレ行っていて遅れちゃった」
割り込んで、何度も謝ってくるのは前の席の戸山さんだ。クラスメイトの名前と顔は全員分、暗記した。彼女が座るスペースを空けるべく私より後ろの生徒は全員立ち上がる。私も立ち上がったその時、その戸山さんに両肩をぎゅっと掴まれた。
「ごめんね。だからあれを返してよ」
彼女は顔を赤くしながら鋭い眼光を私に飛ばしている。
「うん? 返すって何のこと?」
私は借り物をしていない訳だし人違いじゃないかな。
「からかわないでよ! 転校生のくせに!」
戸山さんは突然、ヒステリックに叫んでプイっと前を向いてしまった。野次馬の視線が私に集まってくる。呆然とする私。
なんだろう? 生理なのか?
腑に落ちぬまま座り直す。茜が私に耳うち。
「あずさ、弱みでも握っちゃったのか? 戸山……だっけ? 物凄い形相だったけれど」
「生理なんじゃないかな? もしくは家庭環境が悪いか」
「どんな家庭だよ。環境が悪かったとて、原因もなくあんな態度はとってこないだろ」
そう言われてもなあ。いやいや、流石の私でも初日から因縁を付けられる言動は……。
コンマ一秒を経て、合点。そうか、戸山さんは手紙の件を訴えてきたんだ。
戸山さんから沼田君へのお手紙、レター……つまり、そういうことか。
果たし状とか決闘の申し込みとか、そんな感じの超重要ごとに違いない!
式は滞りなく進行していく。放送部のアナウンスに合わせて校長先生のご高説。わざわざ起立を求められない分、前の学校よりリラックスして拝聴できる。
「自粛の解除に伴ってマスクの着用者も、めっきり減った今日この頃ですね。皆さんはこれまで流行り病のために辛苦の青春を送りました。しかしそれは皆さんにしか訪れなかった貴重な体験ともいえます。誇るべきです。経験は皆さんだけの大きな糧です。コロナで培ったハングリー精神によって、皆さんの将来はさらに彩られることでしょう」
辛苦の青春。私達の世代はコロナのために様々な行事、例えば修学旅行を経験していない。
校長先生のお話は続く。お尻が少し痛くなってきた。
「二年生の皆さんは三年生が引退して部活を引っ張っていく立場となります。三年生の皆さんは受験生です。ポイントをたくさん稼いで生徒会を目指しましょう」
でたな、例のポイント制。
定期テストや各行事の成績に応じてポイントが付与されて、ランキング上位者は生徒会参加の権利を得るらしい。ランキング第一位こそが暫定的な生徒会長であり、二学期終了時点での上位者から指定校推薦の選択が可能になる。
指定校推薦の権利は西生徒会か東生徒会のどちらか一方しか獲得できず、それは三年の陣営全員(生徒会役員の全員ではなく、陣営の全員)の平均ポイントによって決まる。つまり、自分の努力だけでは推薦を獲得できないし、反対に「どうせ推薦無理だから」ってやさぐれることも許されない。
東陣営の始業式は校庭のため、ここには西側の生徒しかいない。三年は五クラス(西側が三クラスで東側は二クラス)で二年と一年は四クラスずつ(一応、東西に二クラスずつだが、文理選択がまだのため内戦とは完全に関係がない)。
「校歌、斉唱。全員ご起立ください」
式の初め以来、全く出番の無かった放送部のアナウンス。全員がノロノロと立ち上がり吹奏楽部の演奏に合わせて口パクを始める。私は歌詞を暗記済みだけれど皆が口パクだから合わせて口パクにしておいた。
怠惰で整列して教室に戻ってゆく。ぼんやりと歩いていたら教室の少し手前で戸山さんにぶつかった。手紙を返すチャンスかもと思ったけれど人前だったから止めておいた。
「あれ、おかしいな」
列の先頭、男女二人の学級委員の話し声が聞こえてくる。名前は確か角田君と丸田さん。
「鍵穴、両方とも回したのにドアが開かないや」
「そんな訳ないでしょ。ちょっと貸してみなよ」
ガチャガチャと悪戦苦闘の末、やっと開いたようだ。皆がクラスになだれ込む。私も例に漏れずダラダラとなだれ込んで席に着く。ほっと一息吐いて、便箋の対処について脳内会議を始めていたところ、
「袋の中にお金入れた奴!」
若干上ずった声で角田君が叫ぶ。募金したのは私と茜の二人だけだったようだ。
私は、心の中で舌打ちをする。
ちくしょう。しくじった。募金はマイノリティーだった。誰もが募金すると踏んで率先してチャリティーしたら裏目った! 自ら率先して少数派に身を置いてしまった。
静まり返ったクラスの中、角田君は緊張した面持ちで袋をひっくり返す。
五百円玉は、一枚も落ちて来ない。
「念のために訊くけれど、お金を財布に戻したりは?」
私も茜もかぶりを振る。学級委員は私達の方を見て頷いて、それからクラスに宣告を下す。
「袋のお金が盗まれました」
下校時間のチャイムが鳴って緊急のホームルームが開催決定。
被害総額の安さから不満の声が上がるも、角田君と丸田さんは意に介さない。
「クラスには鍵が掛かっていた。それは俺達二人で確認しているから間違いない」
丸田さんが首を縦に振って肯定の意を示す。
「ベランダの鍵も閉まっていました。教室を出る前に確認したので間違いありません」
丸田さんは言葉を切って、再び接ぐ。
「なので窃盗は、廊下に整列するまでの僅かな時間に発生したはずです。それまでに怪しい行動を目撃した人は? 例えば意味もなく袋に近づいてゆく人とか」
無言でひしめくクラス。誰も証言をしない。
「じゃあ、犯人は仲真さんだよ!」
突然立ち上がってヒステリックに叫んだのは、前の席の戸山さんだった。
「だって、仲真さんは西野さんからお金を預かって一人で募金をしに行ったんでしょ? その後は誰も袋に近づいていない。こんなのもう間違いないじゃない!」
興奮気味の戸山さんを宥めるように丸田さん、
「誰も袋に近づいていないのではなく、誰も目撃はしていないってだけです」
それから角田君が私に、どこか申し訳なさそうに
「仲真さん、ごめんなんだけれど、とりあえずお財布の中身を見せて貰えないかな?」
もちろん私は無実だ。誓って盗みを働いてはいない。けれどもこの時、私は青ざめた。
学級委員に見守られる中、私はスクールバックからお財布を取り出して開く。学級委員二人の顔は強張り、戸山さんは再び叫び出した。
「ほら、やっぱり二枚とも入っているじゃない!」
「いや、違うって! 私じゃないよ!」
またまた退学、再転校なんてまっぴらごめんだ。初日に濡れ衣ドロップアウトなんて冗談じゃない。印象悪すぎて今度こそ、どこの高校も拾ってくれなくなってしまう。
「千円なんてはした金、盗まないよ。ていうか半分は私の募金だし」
クラスのどこかから「はした金ってさあ」って声がした。
「きっと帰りの電車代を忘れたとかそんな理由でしょ!」
電車の定期券はお財布の脇に挟まっているし、そもそも千円では帰れないし。
「理由なんてどうでもいいのよ! 可能なのは仲真さんだけだって言うのが大事なんだから!」
「そんなこと言うんだったら、がっ……」
思いとどまった。「学級委員が最後に袋に触っていたじゃん」って言いかけたけれど、経験的にその一言が悪手なのは理解している。文字通り、無駄に敵が増えてしまう。
戸山さんがさらに畳みかけようとしたのを見越して、学級委員が間に割って入ってくれた。
「一端落ち着こうよ。まだ仲真さんが犯人だと決まった訳じゃないし。何だったら俺の財布にだって五百円玉の二枚ぐらい入っているから」
「学級委員と仲真さんでは事情が違うでしょ! 仲真さんは最後に袋に触っているんだから」
「いや、考えてみれば最後に袋に触ったの俺だし」
決まり悪そうに、学級委員の彼は苦笑い。
私は助け船を求めて茜の方を振り向いた。期待に外れて彼女は難しい顔で、眉根を抑えて唸っている。「うーん?」って独り言ちている。
「私は仲真さんが犯人じゃないと思う」
思わぬ援軍は斜め後ろ、美作さんから飛んできた。彼女は静かに立ち上がって、
「まずさ、転校初日に盗みを働こうと思うかな? うちに転校できるほどの学力の持ち主がそんな迂闊な真似をするとは考えにくいよ」
水が地面を打つようにクラスのひそひそ話が止んだ。
「いや、そんなの人それぞれで……」
戸山さんの反論に上から重ねて、
「人それぞれって言うなら戸山さんが盗んでいてもおかしくないよね?」
とんでもない暴論に私には聞こえたのだけれど、やはりクラスは沈黙を守った。誰もが美作さんから目を反らす。ごくりと誰かがつばを飲み込んだ。
「ねえ学級委員、本当に鍵は閉まっていたの?」
「それは俺達二人で確認しているから……」
「閉めたのは分かっているよ。そうじゃなくて体育館から戻って来た時、教室の鍵は閉まっていたの? 随分と手間取っていたようだけれど」
丸田さんが口を挟む。
「閉めたはずの教室の鍵が、開いていたって言いたいの?」
「戸山さんは予め教室に潜んでいて、クラスに鍵がかかったのを見越してお金を盗んだ。それから学級委員が閉めた教室の鍵を内側から開錠して、何食わぬ顔で列に合流した。よって閉めたはずなのに開いていた。これなら全て上手くいく」
クラスが再び騒然とし始め、皆が好き勝手に喋り始めた。
「そういえば、戸山さんって遅れて体育館に来たよね」
「僕、戸山さんが休み時間にこっそりと掃除用具に入って行くの見たよ。いつもみたいに誰かに命令されたのかと思って、気にしていなかったけれど」
……掃除用具に入るのがいつものことって何だろ。変なの。
「戸山さん、お財布の中身見せて貰える?」
彼女は茫然とスクールバッグから財布を取り出して、学級委員に渡した。
「……五百円玉、二枚入っているね」
私からは五百円玉がよく見えなかったけれど、クラス中が戸山さんを睨みだした。マイノリティーになりたくない私も腕を前に組んで一緒に睨んでみる。
「が、学級委員だってさっき言っていたでしょ! 五百円玉が二枚ぐらい誰にだって……」
「いつも大人しくて成績ワーストのくせに今日はやけに饒舌だね。たくさん喋って、仲真さんを身代わりに仕立てようとしているの?」
美作さんがまた話を遮った。「いや、そうじゃなくて」って蚊の鳴くような声で呟いて戸山さんは小刻みに震えだす。クラスの騒めき声も再びピシャリと静かになる。
「じゃあ、続きは生徒会室で聴こうか」
確定ムードになって、学級委員がホームルームの終了を告げようとしたその時、
「異議あり!」
後ろからの大声に思わず私は身をすくめてしまった。振り向くと、さっきまで一人で唸っていた茜が、背筋をピンと立てて挙手をしている。
「犯人はそいつじゃない。もちろん、あずさでもない」
西日に照らされた茜は、物理的に輝いて見える。起立してわざわざ教卓の前へ赴き、クラスメイトの方へ向き直ってニヤリと笑う。
「真の犯人はお前だっ! 放送部の沼田!」
単刀直入に一切の躊躇なく、茜は沼田君を指さした。
「朝、クラスで一目見たときからお前が犯人だとは分かっていたんだ」
「……西野さん、盗まれたのはホームルームの後だよ?」
恐る恐る、学級委員の彼が茜に申し上げた。後ろの席の沼田君の表情は私からは見えない。
「記憶喪失の代償なのか、アタシは未来が予知できる。いや、もしかしたらループの蓄積記憶なのかもしれないがな」
クラスを一度見渡して、茜は長広舌をふるい始めた。
「犯行は始業式の最中に行われたんだ。放送室の窓から抜け出して給水管をクライミングすれば五組のベランダに到達するのは訳ないんじゃないか?」
……茜は本当に、沼田君には不可能だって気が付いていないのだろうか。
「動機だって分かっている。ホームルームの前にトイレットペーパーを手に持って教室に戻って来たな? つまり購買で購入したってことだ。お財布もトイレットペーパーも忘れたけれど用を催したくなってしまったんだろ?」
クラス中が(多分)冷笑(だと思う。シチュエーション的に)に充ちる中、少しだけ真面目に考えてみた。少数派だとバレないように、表情には冷笑を張り付けておく。
私はポケットの手紙を触りながら沈思する。確かに、犯人は戸山さんではないかもしれない。
犯人が、沼田君だとしたら? 始業式の間に体育館の放送室の窓から脱走。排水管をよじ登って雨除けの上を歩いて三階、五組のベランダに到着。教卓のお金を盗んで何食わぬ顔で放送室に戻って来た……いや、やっぱり無理だ。どう考えても、あの問題にぶち当たってしまう。
「じゃあ西野さん、僕はベランダのクレセント錠はどうやって解除したんだ?」
茜に反論を向けたのは、突然容疑者にされた沼田君本人だった。
「そりゃあ、もともと開いていたんじゃないのか?」
「戸締りは、学級委員が確認してくれているよ」
「どうにかしてサッシをこじ開けたんだろ? その気になれば何とかなるさ……きっと」
「何とかなるのなら、錠の意味がないじゃないか」
サッシは新品ではないが年季物でもない。傷もつけずにこじ開けるのは相当に困難だと思う。
沼田君は鼻を鳴らして、弁を続けた。
「それに自分で言うのもアレだけれど、やっぱり動機が弱いっていうか……無理があるんじゃない? 確かに購買で五百円払ってまでトイレットペーパーを購入したけれども」
「いいや、犯人は間違いなく沼田、お前だね。私には未来が見えている。もしくは過去をループしている。そのお陰で分かってしまうんだ」
沼田君はクラス中に聴こえる程の大きなため息をついて、
「話にならないよ。学級委員。もういいんじゃない? 犯人は頭の悪い戸山さんでしょ? もうそういうことでいいじゃん」
沼田君のざらりとした一言をもってホームルームは終了を迎えた。戸山さんは背中を丸めてシクシクと泣き出す。
ていうかトイレットペーパー、一ロールで五百円もするんだ。
4
購買は一階、下駄箱の脇にある。一階の半分は下駄箱と購買と食堂で占められていて、もう半分が体育館。食堂と購買は横一列に並んでおり、ほとんどセットみたいな扱いを受けている。私は購買に用があったのだけれど隣の食堂の値段の高さに思わず吃驚。明日から早起きでお弁当を決意した。
……まあ、そんなことはどうでもよくて。
購買には人のよさそうな、ふくよかな中年の女性が一人で座っていた。
「見ない顔だけれど、もしかして転校生? 何から何まで高くて嫌になるわよねえ」
券売機に驚く私に「うふふ」って感じで微笑みかけてきた。
私はおばさんに小さく会釈を返して直截に、
「トイレットペーパーを買いにきた男子生徒っていませんでしたか? 三十分前くらいに」
おばさんは一瞬戸惑ったような表情を浮かべて、
「ああ、そういえばさっき一人いたわね。珍しいと思ったのよ」
そりゃあ、五百円も払ってわざわざ買う人は少ないだろう。当たり前だ。
「五百円玉で支払ったと思うんですけれど、その五百円玉を見せて貰えませんか?」
「ええと、何のために? 確かに五百円玉一枚で支払っていたけれど」
「じゃあ、この千円札でトイレットペーパーを一ロール下さい。お釣りにその五百円玉を」
「はあ。まあ、何でもいいのだけれど」
千円札で払って、お釣りの五百円玉と一ロールのトイレットペーパーを受け取る。
「彼の五百円玉はこれで間違いありませんか?」
「ええ、一番上にあった五百円玉だから、絶対に間違いないわよ」
記憶力にはいささかの自負がある。クラスメイトの名前はもう暗記したし、洋学院高校の校歌も、誰も覚えていないであろう三番までそらんじられる。
受け取った平成十五年の五百円玉。私の脳内データベースと照合したところ、茜の募金した五百円玉と同じ年度の鋳造で間違いはない。
「どうもありがとうございました」
私はぺこりと頭を下げて踵を返し軽やかに階段を駆けあがって、教室に戻る。
五組のドアを開けると、すれ違いざまに沼田君と出くわした。
「だから、西野さん。そんなとんでも話を信じられる訳ないでしょ? 第一、僕は盗んでなどいない! 二度と話しかけないで貰いたいね!」
彼は茜に捨て台詞を残しながら足早に教室を去ってゆく。
「まったくもう。予備校の前にゲーセンに寄りたいんだ。こんな下らないことに時間を浪費していられない。イライラするなあ」
大きな独り言の彼を見送って教室に入る。クラスには談笑なり部活の用意なりの生徒数名。
そして自席で頭を抱えている茜。
「ねえ、やっぱりその包帯は邪神を封印しているの?」
「違う。アタシはどうやら未来を予知できる能力に目覚めたらしい」
どうやらループ設定は捨てて、予知の設定に固めたようだ。
「最初は半信半疑だったけれど予知通りに犯行が起きた。朝に沼田の面を拝んだ時に、ベランダから侵入のイメージが頭に浮かんできて実際にその通りになった!」
荒唐無稽な内容のくせして、茜の切れ目は鋭い。
「正味、私も沼田君な気がしてきている。戸山さんの出て行った後にベランダから侵入して、お金を盗んだんじゃないかなって」
「あずさはアタシの話を信じてくれるのか?」
「まさか。スピリチュアルは信じないよ。でも、戸山さんではない気がしている」
いや、断言はできない。もしかしたら普通に盗みたくなっちゃったのかもしれないし。
「戸山さんが用具入れに隠れていたのは別の目的だったんだよ。きっと」
最後に「きっと」と付けたけれど、十中八九、手紙の回収だと考えている。手紙を誰にもバレないうちに回収したかっただけなのに不運にも窃盗事件が起きちゃって容疑者扱い。そんな感じだと思う。
「別の目的……ねえ」
茜は顎を撫でて目を反らした。手紙のことを知らないのだから当然の反応だ。私は茜に話していないし、これから教える気も無い。戸山さんはホームルームで嫌疑をかけられてもなお、弁明の材料に手紙を用いなかったのだ。『やさしいどうとく・一ねん生』において他人の秘密をバラすのは悪の行為だ。私は誰かに教えはしない。
「沼田君だとして、問題はクレセント錠をどうやって突破したか」
「それと動機も不明だ。あいつ財布を持ってきていやがった」
「そういえば、ホームルームの時に「財布忘れたから盗んだ!」って難癖付けていたもんね。本当に勘だけで名指ししていたんだ」
「だから、勘じゃなくて……」
「私はスピリチュアルを信じないんだって」
茜を一蹴してベランダの方へ。無理を承知しつつも鍵の掛かった状態のサッシをガタガタと強く揺らしてみる。クラスメイトは談笑を止めて、奇異の視線を私の背に飛ばし始めた。
「おーい、何やっているんだ」
席で頬杖をつきながら、茜が質問を飛ばしてくる。
「年季の入ったクレセント錠って揺らすとすんなり開いちゃうの。留め具のネジが緩むから」
「この学校のクレセント錠は無理だろ。意外に新しそうだし。……ていうか、よくそんな知識持っていたな」
揺らすのをすぐに諦めサッシを引いてベランダに出る。笠木から顔を出すと沼田君(が犯人だとしたら)の経路は簡単に掴めた。
「笠木を跨ぐと雨避けの出っ張った部分があるだろ? そこを足場に少し歩くとほら、見ての通り排水管。それをロープ代わりに一階へ降りて、窓から放送室へってルートだとアタシは考えている」
教室からの茜の声。返事は返さないが異論はない。
「物は試しに、ちょっくらやってみよっと」
するりと笠木を跨いで雨よけ部分に降り立った。面積は見かけ以上に狭く、壁に貼り付く感じで進む。まあ、狭いには狭いが足場はしっかりしているし落下の恐怖は全くない。
「ていうか、うっすらと沼田君の足跡残っているじゃん」
雨よけの出っ張りは埃が溜まっているために、その上に足跡の痕跡が見える。それをなるべく踏み消さないようにつま先立ちで進んでゆく。排水管をロープの代わりにして、つるりと下る。同じように排水管を上って逆再生にベランダに戻ってみる。予想以上に容易だった。
「クレセント錠さえどうにかなれば、実行は可能だね」
サッシを引いて教室に戻った。さっきまでまばらにクラスメイトは残っていたのに、今は私と茜だけになっていた。茜曰く「あずさの奇行に恐れをなして逃げていったぞ」だそうだ。
「沼田は窓を割ったっていうのはどうだ? ガラスを完膚なきまでに割って張り替えた。割ったガラスはスクールバッグに敷き詰めてお持ち帰り。あらかじめ用意していたガラスを張り付けて一件落着」
「沼田君がそんな大荷物抱えているようには見えなかったけれどな」
「美術部の奴がやたらとでかい荷物背負っていただろ? あれはキャンパスじゃなくてガラスだったんじゃないか?」
「たかが千円のためにここまで大掛かりなことを? 一人の取り分は五百円って、それはもう赤字だし共犯はあり得ないんじゃないかな。まあ、千円ぽっきりを一人で盗んだっていうのも理解に困るんだけれども」
茜は目を瞑って髪を掻いた。そしてゆっくりと目を開いて、首を巡らせてクラスに誰も残っていないかを再確認。それからふーと息を吐いて重々しく口を開いた。
「放課後にさ、沼田の野郎を問い詰める前にクラスの奴らに聴取をしてみたんだ」
廊下に人がいても盗聴されないように小声を意識しながら茜は続ける。
「その聴取を基に考えたんだけれど、沼田の犯行の動機は金銭泥棒ではなくて戸山を嵌めることだったんだと思う。共犯で千円って小銭をわざわざ盗んだのもそれなら、納得がいく」
私が口を挟もうとしたのを手で制して、
「難点は十分に理解しているよ。その一、沼田は戸山がわざわざ今日、掃除用具入れに隠れてクラスに鍵がかかるまで……誰もいなくなるまで籠ると分かったのか。その二、窓を割ったって推理は自分で言っておいてアレだけれど、いくら何でも無いよな。破片の擦れる音だとか、補強された窓を割れないだろとか幾らでもケチを付けられる。つまり、結局どうやってベランダから教室に侵入できたのかが謎」
驚いた。ただのスピリチュアル厨二病クソ女だと思っていたのに。一体、彼女のどこにこの思慮深さを隠れていたのだろう。
「失敬だな。目が口程に物を言っているぞ? アタシだって時間と情報さえあれば考えをまとめられるんだよ」
鼻を鳴らして、茜は話題を戻した。
「何故、戸山が掃除用具に籠ると分かったのか、が一つ目。そしてどうやってベランダから侵入したのか、が二つ目」
指を一つ二つと折り曲げて数えながら、
「それでだ。戸山は沼田のことを好いていたらしい。クラスの周知の事実だったそうだ」
一息に言い終えて、茜はじっと私の顔を見つめてきた。私も「ふーん」と呟きながら、無表情に見つめ返す。……てことは、あの手紙はラブレターなのか。
「あずさは驚かないんだな」
「いや、ほどほどに驚いてはいるよ。顔に出ない質なの。私は驚いている」
「あずさが今、こうやって驚いていないのには体育館の一件が関係しているのか?」
間髪入れずに私の釈明、ガン無視の質問を差し込んできた。茜が指摘しているのは、さっきの始業式で戸山さんが泣きながら私の肩を揺すってきた件だろう。
「ノーコメント。戸山さんのパーソナルなことなので。ただ、根拠は示さないから納得いかないと思うけれど、一つ目の難点は体育館ので解決可能だよ。沼田君は今日の戸山さんの行動を予期できたはず。戸山さんは転校生の私でも分析可能なくらい与し易い性格だし」
激情型の人間は分かりやすい。後先云々よりも近道を好むから。
放送部は始業式の予行練習のために早朝登校だったらしい。誰よりも早く教室に入って、私の机の中の自分宛の手紙を発見。戸山さんが手紙を取り戻すのを見越して、計画を実行……。
「茜、さては気付いているでしょ?」
茜も私の後ろの席だ。つまり、沼田君同様、便箋の存在に気が付けたはずじゃないか。
「背もたれのない椅子だから、覗く気がなくても凄く見えるんだよ」
私の席の謎の手紙。戸山さんの意味深長な体育館でのアクション。そこに戸山さんが沼田君に好意を寄せていたという情報。
茜からすれば戸山さんの好意を知らない私が驚かなかったら、あの謎の手紙の差出人が戸山さんだと確定する。あの手紙が(戸山から沼田宛の)ラブレターであって、それを私が理解している故に驚かないのだって推論が成り立つ。転校生が二人もやってこなければ、あの席は沼田君の席だったのだから。
「茜は意外といい性格しているね」
「私だって人の隠し事を言いふらしたりはしないさ。ただ、確証が欲しかっただけなんだ」
一応、欠片程は理性を兼ね備えているようなのに、証拠もなしにホームルームでスピリチャル発言。あの時は、どんな心理が働いちゃったのだろう。家で考察してみようと。
「聡明な茜のことだから、沼田君の動機にも見当がついているんでしょ? 戸山さんを嵌めようとした理由」
「もちろん。沼田は戸山のことが嫌いだったらしい。それで計画に及んだんだろうな」
「……え? 何言っているの?」
予想だにしない返答だった。やはり欠片程の理性か。
「ええ? おかしいか? 普通に考えてそれ以外になくないか?」
「え? いや、何言っているのっていうか、それだけ? てか、嫌いだったの?」
「いや、それはホームルームの対応見ていれば分かるだろ? 随分と酷いことを言っていたじゃないか。正直、ちょっと引いちゃったぞ」
いや、ざらりとした違和感を私も覚えたけれども……好き嫌いって発想がでなかった。
心の中で馬鹿にしたけれど確かに茜の考えも有り得るのか。戸山さんの好意を逆手に取って……むしろ、そっちの方がしっくりくる? ダメだ。やっぱり私は感情を考えるのが苦手だ。
茜が眉を顰めて口を開いたその時だった。教室の扉が開いて、
「あ、いた! 転校生の子」
闖入者は、購買のふくよかな中年女性だった。
「さっき五百円玉について聞きに来たじゃない? その時に言い忘れたんだけれど、トイレットペーパーを買っていった男子生徒って朝にも買い物に来ていたのよ。その時も五百円玉で会計していたから、もしかしたら興味あるのかもと思ってね」
おばさんは随分とニコニコしている。朝? てことはお金が盗まれる前か。
「いえ、微塵も興味ないですね」
盗まれた五百円玉か否かを調べたかっただけだったし。
おばさんは急にきょとんとして、間の抜けた顔になって、
「あ、あらそう? ごめんなさいね。早とちり起こしちゃったみたい」
ニコニコだったおばさんは、なんだか気前の悪そうにオロオロとしだして、
「ご、ごめんなさいね。あらやだ、一人で騒いじゃって全く馬鹿みたいよね」
中年女性があたふたと帰ろうとしたところを、慌てて茜が呼び止める。
「ちょっと待って! その男子生徒は朝に何を買っていったんですか?」
おばさんは、少しだけ嬉しそうな表情を見せたのも束の間、すぐに頬を引きつかせる。
「ええと、ごめんなさいね。そこまでは思い出せなくて。一日に何人もの生徒が来るから」
申し訳なさそうに、それだけ言い残して去って行った。「やあねえ、物忘れが激しくなって」とか廊下での独り言がここまで聞こえてくる。
「朝に購買で? 少し気になるな」
スマホの地図アプリを出して、茜はゲームセンターを検索する。
「あった。近いのはここのゲーセンか……近所に予備校もあるし。あずさ、自転車を貸すからここまで行ってくれないか? それであいつの買った物を確認して欲しい。アタシがいくと、ほら……角が立つから」
自転車のキーを私に渡して来た。キーにはお馬さんのキーホルダーが付いている。
「アタシはセンコーと交渉して体育館の放送室と校内アナウンス用の放送室を物色してみる。何か見つけたらラインで教えるから」
そう言ってバーコード画面を向けてきた。苦々しい表情を作りながら頷いて、私もスクールバッグからスマホを取り出す。
「友達登録ってどうやるの?」
「アーユー、キディンミー? 記憶喪失のアタシでも分かるのにさあ。うわ、初期アイコンのままだし友達追加は東京の家族だけかよ。いやまあ、現状アタシも同じなんだけれど」
転校に際して、無意識のうちにラインを一度消してしまったらしい。聞いてもいないのに茜はその経緯を丁寧に教えてくれた。まあ、聞いてもいなかったけど。
5
茜のママチャリはシルバーのノーマルなやつだった。
「さっきの話なんだけれどさ、驚いたのは本当だよ。顔に出ない質なのも」
大切なものだとは想像ついたけれど、ラブレターとまでは勘繰れていなかった。
「嘘を付け。誰であろうとラブレターだと勘づくだろ。このご時世に手紙だなんて」
「気が付かない人は気が付かないんじゃないの?」
「机の中。このご時世にわざわざ便箋の手紙。真っ先に思いつくのはラブレターだろ。それとも果たし状ってか?」
私は何も返す言葉をもたない。宛先の人以外読んではいけないっていうのは、分かる。でもラブレターだと直感的に悟るのには私の感性は乏しすぎる。
IQテストならともかく、例えば平和と鳩みたいな二つの類似性を繋げるやつ……ああいうのが昔から大の苦手なのだ。恋愛感情の象徴としての手紙と言われても、人並みにピンとこない(人並みでないっていうのは、経験的な解釈だけれど)。「恋愛感情の保持のために、その旨を手紙の形式で綴った」って風に因果的に説明されないと理解ができない。
何より私の独自の理解可能、不可能の言語化は難しすぎる。他人に上手く説明できない。
「そういえば今更だけど、あずさはどうして協力してくれるんだ? アタシは予知を証明したいからだけれど、お前はこれと言った義理もないだろ?」
……別に乗り掛かった舟くらいの、ふわっとした理由なんだけれど。
「まあ、何だろう……普通の人は誰かが困っていたら助けてあげるものでしょ?」
日が延びてもまだ、肌寒い。
自転車を漕ぐこと五分。私は地図アプリが十五分を示す道でも、五分でつけてしまう。
自動ドアをくぐってゲームセンターの空気を浴びる。沼田君はすぐに見つかった。彼はちょうど店員さんに両替を頼むところで、
「使えない五百円玉なので両替をお願いしたいです」
なんて言っていたものだからダッシュで駈け寄って腕をぱっと掴んだ。
「新五百円玉だね。令和三年」
私の五百円玉で間違いないだろう。彼の本日の出費の五百円玉。二分の二で盗まれた五百円玉と一致する。偶然かそれとも、はたまた。
目が合ったのでニコッとはにかんでみた。自然なスマイル。
肩のスクールバッグを鮮やかにはぎ取る。入店からここまで、約三秒。
彼はここにきてようやく理解が追いついたようで、
「おい、何やっているんだよ! 返せよ転校生!」
沼田君はすごい剣幕で掴みかかって来た。その手をふり払ってしたたかに足払いを放つ。
どしりと尻もちをついて、唖然としている間に有無も言わせず持ち物検査。始業式で荷物の少ない中に、茶色の変な物を一つ発見。その正体はカッターナイフ。
「カッターナイフ? そういえば、購買で同じの見かけたな」
カッターナイフを写真に収めスクールバッグをポンと放擲して、「じゃ」とそそくさと立ち去ろうとした時、彼は急に叫び始めた。
「先輩のオシャレなリーゼントをこいつが馬鹿にしていました!」
沼田君の声に反応してメダルスロットから大男が腰を上げた。ガムをくちゃくちゃ。ネックレスじゃらじゃらの金髪リーゼントであった。
「ああん? なんだあてめえ」
どすの利いた声で私を睨み付けてくる。あまりにもテンプレート過ぎて嬉しくなった。この世界は例外が多すぎる。テンプレートな人間との遭遇は無性に心が躍る。
「ジャンプしてみい。ほれ、女だからって舐めんじゃねえぞ」
私は眉を寄せて首を傾げてみせた。
「どういう目的ですか? 不良の独自文化の挨拶?」
……よくよく考えてみれば、不良のテンプレートってあまり知らない。
「うるせえ。ジャンプしろって言っているんだろ」
努力はしてみたものの、案の定、いつものことながら意識的に身体を動かせない。
「できないです。目的が分からないから身体が動きません」
「ポケットに金が入っていないのか確かめてえんだよ。金を出せって口で脅しても、もっていませんって答えるだろ?」
いや、イエスって答えるんだけれど。
「なるほど。納得しました。音はごまかせないですもんね」
幸い、財布には札しか入っていない。
とにかく今度は意識的に身体を動かすことができた。すると、金属の擦れる音が鳴った。
「じゃらっていったのお。いくらかもっているんじゃろ」
ところどころ広島弁? になる。中国地方の出身なのかな。
「いえ、ベルトの音かと。外してもう一回ジャンプしてみますね」
ジャケットを羽織っているので、不良さんからベルトは見えていないのだ。
「女子高生ってベルトを付けるのか?」
「学校によるんです。前の学校の制服では無かったけれど洋学院高校では必須みたいです」
再度ジャンプ。今度は無音だった。当たり前だ。財布には札しか入っていないのだから。
「そうか。無一文ならいい。通れ。ベルト閉め忘れるなよ? スカート脱げちまう」
「通ってもいいんですか?」
「だって何ももっていないじゃねえか」
「それは確かにそうだ」
よいしょとベルトを締め直そうとした時、脳内の豆電球がピコンと灯った。
三歳児でも理解ができる単純なこと。ベルトを外していればスカートは落ちる。上にジャケットを羽織っているから、不良さんはベルトの有無を確認できなかった。
留め具とベルト、上位語と下位語。そういう連想は得意だし、好物でもある。
ああ、私ってバカだなあ。なんで気が付かなかったんだろう。
「転校生、ちょっと待て。スマホの写真を削除していけ!」
私が不良さんと戯れている内に沼田君が進路を先回りしていた。
「そういうことか。だから、沼田君はカッターナイフを購入したんだ。私も中学生の頃に似た経験があるよ。意外と簡単にできちゃうんだよね」
ジャンプ……というよりバク転。沼田君の頭上を飛び越え一回転。綺麗に着地。
「それじゃあ、また明日。あと、私の名前は仲真あずさだよ」
転校生は二人なのに、私だけ転校生呼びは異物扱いな感じがするのでやめてもらいたい。
私は足早にゲームセンターを後にした。
6
生徒会の役員は三年のポイント上位者が自動的に就任する。ポイントは三年次の定期テストや各行事など様々なところで獲得でき、二学期終了時点で生徒会に属していた者が指定校推薦の対象生徒に認定される。また三年の最初の生徒会役員は二年までの成績上位者が選出の仕組みとなっている。
ただし、生徒会は西生徒会と東生徒会の二つが存在し、指定校推薦を獲得可能なのは片方の陣営のみ。勝敗は生徒会の役員だけではなく、陣営の生徒全員のポイントの割合によって決まる。指定校推薦は飽くまで団体戦だ。
合計ではなく割合。では、どうすれば割合が上がる?
簡単だ。ポイントの低い者を足切りする。それだけで充分だ。
西生徒会室は別館の三階に位置している。その階下には図書館と自動販売機が立ち並ぶ謎の憩いの空間。白いテーブルと椅子が何列にも並ぶ。
ことん、と缶コーヒーをテーブルに置いて、美作さんは一つため息を漏らした。
「まさか仲真さんまで沼田君の犯人説を押すとは」
私と茜は西生徒会室に直談判しに行った。洋学院高校の生徒会権力は不思議な程に強い。今回の戸山さんの取り調べ権限がまさにそうだ。
美作さんを西生徒会室から連れ出した時、取り調べ最中の戸山さんと目が合った。彼女はガタイのいい生徒会役員に囲まれて青い顔で震えていた。
苦虫を噛みつぶしたような顔の美作さんを、この謎の空間に引っ張り出して今に至る。
「沼田君は始業式の最中に放送室の窓から抜け出して教室のベランダに侵入。想定される道のりを実際に試したけれど、その気になれば誰でも簡単にいけそうだったよ」
「随分なこじつけに聞こえるかな。戸山さんが普通に教室に隠れていたじゃいけないの?」
用具入れに隠れていた戸山さんが、クラスが静まり返った後に袋のお金を盗み何食わぬ顔で鍵を開けて体育館にやってきた、とする従来の説。
「こっちの方が簡潔で破綻はないと思うんだけどなあ。お財布から五百円玉二枚でてきたし」
「その五百円玉、見せて貰えない? 年度覚えているから盗まれたものと同じか判断できるよ」
「ごめんね、仲真さん。もう岡崎先生に渡しちゃった。三学年分の五百円玉の中に紛れちゃったと思うの。それなりの額が集まったって言っていたし、もう無理だよ」
頬杖をついてそっぽを向いていた茜が横やりを入れて来た。
「戸山はまだ犯行を認めていないんだろ? 勝手にそんなことしていいのかよ」
「時間の問題だよ。そろそろ認めるんじゃないかな?」
「屁理屈未満だな。性根腐ってんじゃねーのか?」
茜の語気の強まりから(多分、苛立ちって感情だ)なんだか話題がずれていく前兆を感じたので割って入る。
「二人とも、ちょっと話を戻すんだけれど沼田君が黒でも破綻はしないんだよ。それに根拠だっていくらか示せる。まず校舎の雨よけに足跡が確認できた。埃が溜まっているから残っちゃったんだと思う。それと、沼田君の五百円玉、二枚とも確認したんだけれど、どちらも盗まれたのと鋳造の年度が一致していて……」
「足跡は、全員上履なのだから特定までできないよ。鋳造の年度に関しても偶々同じだってこともありえるし、仲真さんを疑う訳じゃないけれど記憶違いだってあり得るよね?」
バンとテーブルを叩いて茜が立ち上がる。目を吊り上げて強い口調で、
「いい加減にしろよ! 美作は取り敢えず戸山を有罪にしたいだけだろ! ホームルームの時も弁明させないで! 高校生にもなって嫌いでいじめるとか情けない奴らだな!」
予知を証明したいだけって言っていたのに。茜はやけに顔に朱を注いでいる。
「あの、茜? いじめって何のこと?」
「ああん? ホームルームでロッカーが特等席だのロクに弁明も聞かずに犯人扱いだの、美作達はずっと横暴だっただろ」
そんなさも当然って風に言われても私は困る。もっと早く教えて貰いたかったよ。
「いじめなんて大げさだなあ。クラスを上げて戸山さんの尻を叩いているだけだよ。彼女はクラスでワーストの成績だからさ。それに幾ら二人が沼田犯人説を主張してもベランダにはクレセント錠が掛かっていたんだから、沼田君に犯行は不可能って結論を下さざるを得ないよね?」
ずっと柔らかな微笑を携えながら美作さんはスラスラと弁を並べてゆく。言葉を操る職業に向いてそうだと思う。聞き取りやすいしテンポやメリハリも凄くいい。
だけれど、今回に関してはカードが揃っている。言いくるめられる恐れはない。
「クレセント錠の謎は解けたよ」
美作さんの張り付いた笑顔が消えた。彼女は愁眉を寄せて、無言で水を向けてくる。
「年季の入ったクレセント錠ってネジが緩むから揺らすことで、簡単に開けられるんだよ」
「残念だけれど、洋学院高校のクレセント錠は意外と新しいよ。揺らされて開くほど緩んではいないんじゃないかな」
「うん。でもネジが緩むのって経年劣化だけじゃないよね? 人工的に外しちゃえばいい。ただそれだけの話なんだ」
放送部は始業式のマイクテストで朝早く登校を余儀なくされていた。沼田君が誰にも見られずにネジを外すのは、不可能ではない。
「ネジが外れた状態でロックをかけておけば防犯効果が皆無になる。カッターナイフで代用したのも間違いがない。沼田君のスクールバッグとカッターナイフは写真に収めてきたよ」
一拍措いて、
「カバーのお陰でネジが外れていても誰も気が付かない。噛みが緩いって感じたとしても、学校の備品なんて気にも留めないだろうしね」
何となく、腕を組んでみる。
「以上の根拠から、戸山さんが疑わしい事実は変わらないけれど沼田君も怪しいと言えるんじゃないかな?」
美作さんは缶コーヒーを苦々しげに一杯呷る。少し唇を舐めてそれから口を開こうとしたその時、別の生徒会役員が駆け足で部屋に入って来た。
「やっと戸山が犯行を認めた」
役員の生徒は大儀そうに、そう報告をして、
「たかが千円のためにあいつもバカだなあ。退学は免れないんじゃないか?」
報告を聞かされて、寝耳に水なのは私と茜である。
「いや、そんな訳ないよ。犯人は沼田君だもの」
「仲真さんの気持ちは分かるけれど本人が認めちゃったならもうどうしようもないよ。第一さ、やっぱり戸山さんには用具入れに隠れていた動機が他に見当たらないんだもの」
そういう美作さんの顔には、いつもの柔らかな微笑が戻っていた。隣の茜は「何だよそれ」って呟いてテーブルの角を蹴り飛ばす。首には青筋が立っていた。
日付をまたいで次の日。教室に戸山さんの姿はなかった。
……あれから昨日の帰り道。敗走を余儀なくされた私と茜は沼田君を犯人と仮定して、戸山さんが犯行を認めた訳を考察した。まあ、二人でというより、茜が一人で考えて私に自説をお披露目してくれたって方が正しいのだけれど。
「西生徒会室に直談判しに行った時、戸山はアタシ達と目が合っただろ。あれで意を決しちまったんじゃないかな」
つまり、沼田君を恋愛感情のために庇ったというのである。彼を疑っている茜が直談判に来た姿を目撃し嘘の自白を決意した、と。
「完全に想像なんだけれど用具入れから出た時点では、袋にお金が入っていたのを確認していたんじゃないか? それで沼田が犯人だって一人で合点していた。用具入れからあずさの机に向かうのに、教卓の前を通ったとか。いやまあ、完全に想像なんだけれど」
ラブレターのことは美作さんに黙っていた。それで完全に戸山さんの疑いが晴れる訳では無いし、その前に自白をされてしまったから。まあ、私は『やさしいどうとく・一ねん生』に従って何があろうと話す気はなかったが。
それに茜がどう反応するかは分からないけれど私達の沼田犯人説がそもそも間違っている可能性だってある。普通に戸山さんが盗んで白状した。その可能性だって大いにある。
転校して二日目の朝の会が始まる。ガラガラと扉を引いて担任の岡崎先生が教室に入って来た。教卓の前に袋をおいて、開口一番、
「全体で集まった募金の額があまりにも少ないので、今日も募ることになった。善意に頼ってもお前らは絶対に寄付しないので、ポイントをやる。千円以上寄付した者には一ポイント。さあ、金を持ってこい」
戸山さんの退学については一切触れない。
昨日と違って袋を放置せずに朝のうちに集めるようだ。袋には長蛇の列ができた。私と茜以外の全員が、しっかり千円を募金したのだった。
朝の会が終わって一限の前の時間。私は美作さんの机の前に立つ。
「一つだけ、尋ねてもいいかな?」
美作さんは無言で諾う。
私はラブレターのことを黙っていた。だけれども、美作さんも私の机の中に便箋が入っていたのを確認している。戸山さんが沼田君に恋愛感情を寄せていたのは周知の事実だった。名前の順で私より後ろの美作さんは、体育館で戸山さんが私に意味深長なアクションを起こしたのを目撃している。
「美作さんが、学校で便箋を発見したらどんな内容だと推測する?」
彼女は頬に人差し指を当てて斜め上を見上げた。目元は笑っている。
「そうだな。ロマンチックにラブレターってところじゃないかな?」