第二章 エジプトの味
空港の自動ドアが開く。熱くて一切の水分を含まない風が顔に吹き付けて来る。日本とは大違いだ。
「どうだい、驚いたかい、七海君?日本の空港で驚いている場合じゃなかったでしょ」
「そ、そうですね、教授」
感動のせいなのか気候のせいなのか、口がカラカラだ。
教授は空港のモダンなロータリーでタクシーを拾い、運転手に何やらアラビア語で一言二言言った。どうしよう。僕はアラビア語がわからない。話せないとまずかったのだろうか。
「発掘現場での研究者同士の会話は英語で行われるから心配ない」
よかった。せっかくここまで来て、何言ってるか分からなくて、全体的に分かりませんでした、なんてことが起こったら話にならない。これを機にアラビア語、始めてみようかな。
僕たちを乗せたタクシーは交通量の多い道路にさしかかった。独特なアラビア文字のナンバープレートのついた日本車もちらほら見られるが、日本では見たことのない車が多い。街路樹は日本では銀杏の場合が多いが、ここはヤシの木のような木だ。細くて薄い葉がエジプトの風に揺れている。その向こうには金色のモスクが見えて、観光客もちらほらいた。
「七海君、もうすぐナイル川が見えるはずだよ」
ナイル川!世界最長の川!あの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」とまで称したあの川!エジプト文明の命そのものだった川!その川をその場で自分の目に収めることができるなんて!「ほら、あそこ」
教授はなんてことないようにさらっと言ったが、教授が指さすその先にはナイル川の豊かな流れ、古代から変わらないナイルがそこにあった。古代の人も、ファラオも見たであろうナイル川が今、自分の目の前にある。古いものはなくなり、新しい技術でどんなものでも作れて、昨日の新しいものは今日では時代遅れになっていく現代で古代の人々と同じものを共有している。これを感動と言わず、喜びと言わず、幸せと言わず、なんと言おう。
「ホテルはナイル川のほとりにとってあるから、そこでもっと楽しむといい」
マジですか、ナイル川のほとりのホテル‼最高です、教授!
「一旦、ホテルに荷物を置いてそれから散策といこう」
タクシーはホテルの前に停まる。教授は財布から紙幣を何枚か出して払った。エジプトの通貨は「エジプトポンド」という。また、アラビア語では「ギニー」とよく呼ばれるそうだ。エジプトのお金にはモスクの他にもアブ・シンベル神殿やスフィンクスなど古代エジプトにちなんだものがデザインされている。日本のお金もいいけど僕はやっぱりこっちの方がいいなあ…。
トランクから出してもらったスーツケースを持ってホテルの玄関に向かう。青々と茂った庭があり、その真ん中で噴水が涼しげに水を噴き上げている。
「ここね、一回泊まってみたかったんだよね。ほら、ガイド時代に日本人観光客がみんな口を揃えてここのホテルが安くてきれいで安心だ、って言ってたからさ」
ホテルにチェックインして部屋のカードキーを受け取る。
「七海君、気を付けてよ、このカードキーを持たずに部屋の外に出ないでね。ここのドア、オートロックでカードキーを持たずに出たら最後、部屋に入れなくなっちゃうからね」
確か中学校の修学旅行でそんなことをしたやつがいる。それで先生にめちゃくちゃ怒られてた気がする。
「はい、気を付けます…」
「ホテルで昼食を食べるのもいいが、今日は少し出かけてみようか。ガイド時代の時に通ってたところがあるから。じゃあ、またあとで」
教授は僕の隣の部屋に入る。僕は自分の部屋のドアにカードキーをかざす。ピッ。カードをかざすところが緑色に光ってガチャン、と部屋の鍵が開く音がした。ふぅー、良かった。開かなかったらどうしようかと思った。
部屋の中にスーツケースを引いて入る。部屋は十分な広さがあった。そしてなんといっても窓からの景色だ。
「ナイル川だッ!!!」
僕は窓に張り付くようにして窓の外の景色を見た。タクシーよりも近くに、視界を遮るものなくナイル川が見える。
部屋のドアがノックされた。教授だ。僕はカードキーを持って部屋の外に出た。
「七海君、眺めはどうだい?」
「もう最高です」
「それは良かった。ここから少し歩くよ」
五分ほどナイル川に沿って歩く。太陽という天体は一つしかないのに、エジプトの太陽は日本の太陽とは全くの別物だ。なんか、熱いを取り越して痛い。こう…肌の奥にまで太陽光線が突き刺さってくる感じ。何だろう、いい匂いがする。香辛料だろうか。小さなこじんまりとした建物が見えてきた。どうやら地元住民を相手に相手にした料理屋のようだ。なるほど。地元住民の通う料理屋なら、ホンモノのエジプト料理を味わえる、という訳だ。
料理屋の中には数人の客がいた。僕と教授が入っていくと、客の一人が何か言って近づいてきた。
な、なんかまずいことでもしただろうか。その人物は僕には目もくれずに教授のところにまっすぐ来た。そして、教授と親しげに握手を交わした。なんだ、顔見知りか。二人はなんだか盛り上がっている。そのうちに厨房からおばさんも出てきて会話に加わった。教授は僕を指し示して何やら言った。エジプトの人たちは嬉しそうに笑っている。席に座って出された水を飲みながら教授は言った。
「君のことを教え子だと紹介したらもうそんなに偉くなったのか、って笑われたよ。彼らはね、私がエジプトに住んでいた時の馴染みでね。いつもここで飲んでたもんだよ」
教授は昔を懐かしむような顔をした。
目の前に緑色のどろどろしたスープみたいなものが入った皿がおかれた。コレ、何!?なんでこんなに緑色なの!?
「ああ、これね、モロヘイヤのスープ。ムルキーヤっていうの。見た目がちょっと怖いけど、クセになるんだよね」
教授はスプーンで一口すくって口に運ぶ。僕も恐る恐るスプーンにちょっとすくって食べた。見た目のインパクトは強いが普通に美味しい。
次に茶色い唐揚げみたいなものが運ばれてきた。肉だろうか、いい匂いがする。
「これはコフタ。牛肉とか羊の肉のお団子。これがまたビールに合うんだよ、あー、飲みたくなっちゃうなあ」
肉団子か。日本にはつくねとか、鍋に入れる肉団子があったり、欧米ではハンバーグが会ったりする。ここではコフタという肉団子がある。肉をこねる、というのは世界共通なのだろうか。
そして今度は白い真ん丸なパンが出てきた。これはエイシバルディというそうで、エジプトの主食だそうだ。
厨房からおばさんが大きく丸々とした鶏肉の乗った皿を持ってきた。
「シュクラン」
教授が言った。
「七海君、これ何だと思う?」
え、何って、ただの美味しく調理された鶏肉じゃないのだろうか。
僕の困惑した顔を見て満足したかのように教授は言った。
「これはハマム・マシュイと言ってね。鳩料理だ」
鳩!?鳩食べちゃうの!?
「あ、大丈夫だよ、食用の鳩だから」
ハマム・マシュイは鳩のお腹に米や緑小麦を入れて焼いた料理だそうだ。
「いただきます」
一口頬張る。米にダシがしみ込んでいておいしい。最初は公園とかにいるあの愛らしい鳩が頭の中に浮かんできて食べるのに躊躇したが、こんがり焼けていてなかなか美味しい。
今度はグラタンみたいなのが出てきた。これはグラタンではなくてメハラビアという、ミルクで作ったプリンだそうだ。とにかく甘い。
最後に出てきたのはカルカデというお茶だった。カルカデとはハイビスカスのことで、それを干して煮だしてお茶にしたのがカルカデだ。色がとにかく綺麗だ。結露しているグラスの中の紅を一口飲む。色の印象からしそジュースみたいに酸っぱいのかと思いきや、甘い。
料理屋を後にしてホテルに戻る。お腹がいっぱいだ。あまりに次々と料理が出てくるせいでフォークやスプーンを置く暇もなかったほどだ。
「本格的な調査は明後日からだ。明日はエジプト考古学博物館に行こう。あそこに行かずしてエジプトに行った、とは言えない。そうだろう?」
「はい!」
エジプト考古学博物館はありとあらゆる古代エジプトのものが展示されている。あのツタンカーメンの黄金マスクや柩、玉座もこの博物館の所蔵品だ。ツタンカーメンの父であるとされるアメンヘテプ4世の像もある。教授の言う通り、この博物館に行かなければ、エジプトに行ったとは言えないのだ。
ホテルの部屋に戻ると満腹感と疲労で、眠気が襲ってきた。僕はいつの間にか眠ってしまっていたらしい、気付くともう夕方だった。
ナイルの夕暮れは壮大だ。水面がオレンジ色に染まっている。その景色を見ているとなにか大仕事を終えたような、満ち足りた気持ちになる。古代エジプト人も同じ気持ちになったのだろうか。農作業を終えて家にいる家族のことを想いながら家路につき、今日もよく働いた、明日も頑張ろう、と独り言ちる。それが彼らの生きがいであったに違いない、と僕は思った。
次回予告
ついに憧れのエジプト観光!!王家の谷、エジプト考古学博物館にも行っちゃいます!
次回「第三章 エジプト観光!」お楽しみに!