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第一章 七海大輝、念願のエジプトへ

 「エジプト考古省は昨日、ルクソール付近で新王国時代第18王朝の少年王ツタンカーメンの時代のものと思われる集落跡を発見したと発表しました。また、日本からは坂間大学の吉田作治教授が調査に向かうとみられています…」

 その続きは聞いていなかった。テレビから聞き覚えのある名前を聞くやいなや、食べかけのトーストなんてお構いなしに僕はリュックサックを手に学生向けのアパートの自室を飛び出したからだ。吉田教授は僕の所属する研究室の教授だ。その教授が新たに発見された遺跡の調査に行くなんて‼しかも僕の大好きなツタンカーメンに関わるかもしれない、下手したら彼自身も足を踏み入れたかもしれない遺跡の調査に行くなんて‼エジプト好きのこの僕が、ワクワクしないわけがない‼桜並木を全速力で駆け下りて、教授の研究室に急ぐ。一体いつぶりのことだろう。こんなに全速力で走るなんて。

 七海大輝、19歳。彼女なし、金もなし。そして古代エジプト一徹の冴えない男子大学生の身に重大事件が起こることを僕はまだ知らなかった。

 「教授ーッ、おはようございます!」

 研究室のドアを開ける僕の声が意図せず大きくなる。

「おお、七海君、今日は随分と早いね」

 教授はいつものようにコーヒーカップを片手に出てきた。ニュースで遺跡の調査に行くとみられている、と報道された本人であるのに落ち着きはらっている。きっと珍しいことではないのだろう。

 「今日のコーヒーはキリマンジャロだ。あのキリマンジャロ山の中腹で育てられているコーヒーだ。この高地ゆえの寒暖差がいいんだ。そしてキリマンジャロの火山灰が豊かな土壌がこの極上のコーヒーを生み出す。最初は栽培がうまくいかなくてね、産業として本格的に栽培を始めたのが20世紀初頭と言われている…」

 教授はコーヒー好きでいつも朝と午後3時ごろにコーヒー豆を挽きコーヒーを入れる。大きくて硬いコーヒー豆の入ったコーヒーミルの取っ手を回すのに苦戦しながら教授は「粉コーヒーを美味しい美味しいなんて言って飲んでる人の気が知れない。一回豆から挽いたコーヒーを飲んだらもう粉コーヒーなんて飲む気がしないだろう」と言う。そして、一回コーヒーの話を始めると止まらなくなる。

「教授!」 

 教授のコーヒー話に付き合えなくなってきた僕は叫んだ。ビッグニュースがあるはずなのに、それを差し置いてコーヒー話なんてたまったモンじゃない。

「ああ、七海君も一杯どう?それか、お子ちゃまな七海君は甘ーい粉コーヒーがお好みか?」

 そうじゃなくて!いや確かに僕はお子ちゃまでコーヒーの良しあしも分からなくて、お湯を入れるだけの甘ーいコーヒーが好きだけれど!だけど!

「教授!遺跡!遺跡の話!」

「ああ、遺跡ね…え、そんな話、どこで知ったの?」

「ニュースでやってましたよ…」

「ああ…早いなあ…昨日の未明に発表された話だってのに…。つくづくメディアの勤労精神には感心するよ」

「教授、行くんですよね?」

「もちろん。エジプト考古省の方からもお誘いが入っているからね、七海君…行きたい?」

 そう言って教授は目の前で航空券をひらひらさせる。

「あ、でも僕、お金が…」

「なに、お金ェ?そんなんエジプト考古省がもってくれるし、大学からも国からも研究費はもらってるし、心配することはない」

「そんなお金を使っちゃっても大丈夫なんスか…」

「こういう時のための研究費だ、心配ない。それにエジプト考古省も若いのを連れてこいってさ。若い人材が必要なんだと」

「斎藤さんじゃなくていいんですか…」

 斎藤さんは助教授の人だ。僕なんかよりもよっぽど役に立つ気が…。

「斎藤さんは駄目だよ、私のいない間講義をする人がいなくなっちゃう」

「いいなあ、七海君。私があと10歳若かったら行くんだけどなあ、」

 奥から斎藤さんがひょこ、と顔を出して羨ましそうな顔をした。

「あと10歳若かったら、って…。斎藤さんもそんな年じゃないでしょ」

「あら教授、そう言ってくださって嬉しいです。七海君、行ってきなよ、こんな機会なかなかないよ。私みたいなアラサーのおばさんが行くより、若い君が行った方がずっといいって」

「七海君、行きたくてたまらないんだろう?まったく、最近の若い子は困っちゃうね、欲しいものを欲しいと言わない。こんな時代のせいかね」

 まだ40代前半の教授も老人のようなことを言う。そんな教授は考古学の業界では若く、期待の新星、もしくは「日本のインディ・ジョーンズ」として注目度が高い。どこかで講演でもすれば、たちまち席は満席になる。もちろん、子供の時から、僕もその一人だ。いつだか教授の講演についていかせてもらったことがある。教授の講演が終わったあと、お菓子やら差し入れやらいろいろ持ったおば様たちが教授のもとに押し寄せてきた。なんだなんだ、と思って見ていたら、どうやら教授の「追っかけ」のようだ。若くて、どこかの俳優と言っても通用しそうな教授にはファンが多いらしい。そしてその人たちは古代エジプトが好きなんじゃなくて、教授が好きなようだ。純粋な古代エジプト好きとしてはどこかフクザツだった。

「七海君、今からアパートに戻って服を取ってきて。エジプトは暑いから着替えを多めに持っていた方がいい。それに日本の日差しとは比べ物にならないから、半袖はおすすめしないよ。あったら帽子、サングラス、タオルマフラーももってくるといい。30分後にここに集合、いいね?」

「はい!」

 そう言って僕は研究室を飛び出した。

「小学生かよ…」

 後ろで教授が笑っている。

 つ、ついに念願のエジプト!それもただの観光じゃなくて、限られた人間しかできない遺跡の調査!この僕が!今朝、あのニュースを見たとき、こんなことになるなんて思ってもみなかった。世界で最も幸運で幸せな人間なのはこの僕だ!アパートの自室のカギを震える手で開ける。なかなか鍵が鍵穴にささらないし、やっとのことで鍵穴にさした鍵が今度は回らないわでかれこれ5分くらいかかった気がする。靴を脱ぐその動作も、もどかしくて玄関に乱暴に靴を脱ぎ飛ばし、どたどたと部屋に上がる。クローゼットの中を引っ搔き回してこっちに引っ越して来たときに持ってきたスーツケースを探す。

「あった!」

 地元のショッピングセンターで買った黒のスーツケースは少し埃をかぶっていたが、まあ問題ないだろう。ああ、夢だったんだよなあ、これ持って空港歩いて、海外行くの。悪いわけじゃないけど、ごく一般のサラリーマンの家庭に生まれた僕は生まれてこの方「海外旅行」というものに行ったことがなかった。どちらかと言えば春休みに毎年家族でサイパンに行く友達の凌からのお土産をもらって、いいなァ、いいなァとそのお土産話を聞いて、その夜「うちも海外旅行行こうよ」と母に言い、「うちはお金がないの!父さんの給料じゃムリ!」と言われるのがほぼ毎年の恒例行事となっていた。この時、いつの間にか悪者にされていた父は大抵黙っていた。

 スーツケースの中に多めに服をポンポン入れ、日焼け止め(去年の残り)とサングラス(地元の同級生とノリで買ったヤツ。なお、一回もしたことがなく買ったあと後悔した)と首に巻けるようなタオル(これは高校の名前が大きくプリントされていて、文化祭とか事あるごとにこれを振り回して騒ぐ、盛り上がりお祭りグッズ)などなど入れてスーツケースをほくほく顔で玄関までコロコロやって最後に戸締りを確認して自室のドアを閉めた。

「あれ、何やってんの、家出ごっこ?」

 隣の部屋の石井がちょうど出てきた。起きたばかりなのか、いつもに増して、アフロヘアがすごい。彼は物理をやっていて、放射線に詳しい。放射線写真も撮れるので、たまに遺跡で見つかったものの写真を撮って貰っている。こういうアングルで撮ってほしいんだけど、とか、こういう目的で使いたいんだけど、というと、こちらの思った以上のものを気前よく撮ってくれるので大助かりだ。吉田教授も「あの人、すごいね、こっちの分野にこないかな。今度会ったら、それとなくその気がないか聞いてみて」というほどだ(後日、本当にそれとなく聞いてみたらあっさりとその気はないと言われた)。

 ってか、なんだよ、「家出ごっこ」って。「ごっこ」が余計だし、そもそも家出をするような歳でもないし、その理由もない。石井のユーモアセンスはかなり独特で、じわりじわり、といった感じの面白さがある。たまに物理用語をぶっこんできてどこで笑ったらいいのか分からないのが玉に瑕だが。うちの研究室に来るといつも「新作」を発表していくので、彼が来ると研究は中断し、大喜利大会みたいになる。ただし、この「吉田笑点」では座布団の代わりにコーヒーが出てくる。だから「吉田笑点」が終わるころにはトイレが混む。

「家出ごっこじゃなくてね、エジプトに行くんだ。しばらく家を空けるからその間よろしく」

「エジプトって今朝のあのニュースの?」

「そうそう」

「わ、すげ、教授、俺にお土産買ってきてくれるかなあ」

「言っとくよ、んじゃ!」

「おー、気を付けてなー」

 アフロをもしゃもしゃやりながら手を振る石井に見送られ、研究室に戻る。

 研究室に戻ると、ザ・考古学者、といった出で立ちの教授がいた。ベージュの長袖シャツにカーキ色のズボンにサングラス。

「教授、石井がお土産欲しがってました」

「もちろん、彼にはいつもお世話になっているからね。あ、調査に行く旨は大学に伝えといたから。じゃあ斎藤さん、留守をよろしく。もしかしたら留守中にコーヒー届くかもしれないから受け取っといて」

「了解しました、ではお二人とも楽しんで。七海君、お土産話、楽しみにしてるからね」

「はい」

「七海君。課題を出しておこう。エジプトで学んだことをレポートにすること。そうだな…帰国後2週間後を期限としよう。ただし、エジプトで課題に取り組むことは禁止だからね。ほら、行くぞ」

「あ、ちょっと、教授!」

 教授と大学の目の前でタクシーを拾い、空港に向かう。

「七海君、君は今回の遺跡についてどのくらい知ってる?」

「ツタンカーメン王の時代の集落跡の遺跡ってことだけしか…」

「そうか。今回、私たちの目的は当時の一般の人々の暮らしを出土品から調べること。まだまだ人々の暮らしについては分かっていないことが多いからね」

 当時のエジプトの国民の約9割は平民だった。そして今日のように電気もなかった時代だ、夜明けと共に起き、日が沈むと同時に就寝したという。彼らの食事はパン、煮込んだ豆、玉ねぎ、ニンニクやスープ。調味料は塩のみ。肉は手に入らない。そして干乾し煉瓦で作られた家に住んでいたという。古代エジプトの文学もかなり残っていて、それは当時の人々の暮らしを知る手掛かりになる。しかし、そんな文学作品を手がかりにするのには抵抗を示す研究者も少なくない。「今回の集落跡は2012年から密かにプロジェクトが組まれていて、何年もかけて、目的のものがようやく見つかった、という訳だ」

ツタンカーメン王墓はハワード・カーターによって1922年11月5日に発見された。探し始めてから4日後の出来事だった。そしてその墓の中には世界屈指の財宝とも呼び声高いあのツタンカーメン王の黄金のマスクや三重の人型石棺など贅を尽くした数々の副葬品が見つかった。これらはカイロ博物館に所蔵されている。

 エジプトに行ったらどんな楽しいことが待っているのだろうか。僕はワクワクしながら車窓の外を過ぎていく景色を眺めていた。

「そうそう、七海君。向こうに着く前に言っておこう。向こうの治安はこっちとは随分と違うからね。夜はひとりで出歩かないこと。スリに気を付けてね、とんでもない、こちらの思いもよらない方法でやられるからね。買い物するときは大きいお札は使わない方がいい。お釣りがきちんと戻ってこないこともあるし、誰が見てるか分からないからね、お札を出す、というその行為だけでスリ犯に目を付けられることもあるから。いいね?こんなに言っても日本の観光客の一人や二人、被害に遭うんだ、こんなに言ってもだよ」

 そうだ。エジプトは日本の治安とは比べ物にならない。自爆テロのニュースも多い。エジプト行きだとはしゃいでいた自分がちょっと恥ずかしくなった。

「七海君、もうすぐ空港だ」

 見ると空港がもう目の前にあった。教授とタクシーを降りると、タクシードライバーがトランクから出してくれたスーツケースを引きながら空港のロビーに入る。人、人、人。よく使われるこの表現だが、この表現はまさにここにピッタリだと思った。赤、青、緑…様々なスーツケースが行きかっている。ハイヒール、革靴、スニーカー…、日本語、中国語、英語、フランス語…。ありとあらゆる国の人がみんな違った行き先、目的で一つの空間を忙しく行きかっている。まるで世界の縮図みたいだ。やはり、日本の中心の玄関口なだけある。フロアから目を上げると電光掲示板があってオレンジ色の字で便の番号と時間、行き先がずらっと並んでいる。ひぇーっ、こんなに飛行機の便があるのか。それを毎日こんなにたくさんの人が利用してるんだ…、凄い。

「七海君、七海君。もしかしてもう驚いちゃってる?早い早い。まだここは日本だからね?」

 そうだ。まだここは日本だ。驚いている場合じゃない。

 教授とともにいろいろな手続きをなんとか終えた。なんだかそれだけで疲れてしまった。初めてな上に手続きの数がなんせ多いわ、教授はすごく歩くのが早いわでついていくのが一苦労だった。そんな僕は放心状態でこの手に渡された航空機のチケットを握って搭乗時間になるまで人の流れの川をぼーっと眺めていた。

「七海君、もう疲れたんじゃないよね、考古学者は体が資本、体力勝負なんだからね」

「はい…」

 幼い頃から考古学者になることだけを夢見てきた僕だが、考古学者がこんなに大変だなんて思いもしなかった。

「七海君、搭乗時間だ、7番ゲートだ」

 飛行機に乗り込み、離陸時間を迎えた。飛行機に乗るのは初めてで、離陸がちょっと、いやかなり怖かったが、ジェットコースターみたいな感じで思ったより怖くなかった。教授曰く、昔の方がよっぽど怖かったそうだ。

 ああ、僕は今、エジプトに向かっている‼夢にまで見たエジプトに‼

 エジプトに着くまでの何もかもを見逃さずにすべてこの目に収めておきたくて僕は窓の外を目を凝らしてじっと見た。空港の滑走路がどんどん遠くなっていく。今日は気持ちのいい晴天だ。窓から見える飛行機の翼が太陽の光を反射している。僕がそんな感動に浸っている間に、教授は「エジプトと日本の時差は7時間だ。今のうちに寝ておいた方がいい」と言って寝てしまった。エジプトと日本の時差はしっかり僕の脳みそに染みついている。なぜなら僕のG-ショックのワールドタイムはエジプトに設定してあるから。一般的に時差が4~5時間あれば時差ボケが出てくるという。だから当然今から行こうとしているエジプトにも時差ボケというものがついてくるし、教授の言うことが正しいのは分かっているが、やっぱり寝てたら勿体ない!じっくりたっぷり空の旅を楽しんでいると、もうすぐ着地準備に入るとアナウンスがあった。教授はそのアナウンスで目を覚ました。なぜかCAさんたちが乗客に飴を配りだした。

「?」

「あれは高度が下がっていくときに耳に出る違和感を軽減するための飴だ。もらっておくといい」

 へえ、そうなんだ。気遣い半端ねえ!ありがたくその飴をもらって舐めた。見た目からして分かっていたことだったが、超人工的なメロン味だった。その飴のおかげか、着地するときに耳がキーンとしなかった。無事に着地し、無事に自分のスーツケースを受け取った。実は自分のスーツケースが戻って来ないんじゃないかと思ってドキドキしていたから、自分のスーツケースが戻ってきて、とても安心した(ちなみに教授曰く、昔は自分のスーツケースが戻ってこないことはたびたびあったそうだ)。エジプトの空港のロビーを歩いて出口へと向かう。残念なことにエジプトの空港は日本の空港ほどきれいではなかった。やっぱり日本って凄いんだな、そんな国に生まれた僕は幸せなのかもしれない。そしてエジプトの空港の空港は暑い。冷房が多少はかかっているのだろうが、この人の量と気候じゃエアコンが効かなくても不思議はない。砂っぽくて暑い、人の砂漠を渡って、ようやく出口が見えてきた。出口の自動ドアは感度が悪いのかなかなか僕たちに気付かず、ドアが開かなかった。これにはさすがに教授も苦笑いしていた。ようやくドアがゆっくりと開くと、暑くて一切の水分を含まない殺人的な空気が流れ込んできた。ここがエジプト。いざ、エジプト。


※この作品は史実をもとにした古代エジプトヲタクによるフィクションであり、実際の個人、団体とは関係ありません。




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